第2話 三度目の失敗
この宗教団体は、他の団体ともその意義を異にしている。その考え方の一つとして大きいのは、
「失敗は二度までは許されるが、三度目は許されない」
というものである。
我々の世界では、
「一度の失敗は許されるが、二度目は許されない」
というのが、一般的だが、この団体では、失敗は二度目までは許されるのだった。
こうやって聞けば、
「何て、温厚な団体なのだろう」
と思われることだろう。
しかし、実際には温厚ということではない。三度失敗すれば、普通の人が二度目にした失敗の数倍ものバツが与えられる。破門になる人がいたりもする。この場合の破門は本当に厳しいもので、教団を無一文で放り出されるのだ。持っている財産があればすべて没収、そもそもこの団体に入った時点で、個人に財産管理の権限はない。すべて教団管理となり、必要な時にもらうだけだった。
「まるで共産主義のようだ」
と思われるかも知れないが、それとも少し違う。
ただ、信者の生活にすべて教団が絡んでくるというのは似ていて、下手をすれば、生殺与奪の権限まで、教団に握られていると言っても過言ではないだろう。
破門にされる時は、もちろん、本人も分かっていての破門なので、文句も言えないというのが、教団の言い分だった。
教団に入信してきた時、ちゃんと教団の約款についてはすべて一度は読まされて、頭に叩き込んでいるはずである。この教団では与えられたものをちゃんと自分で理解しているかどうかというのは、厳格であった。俗世のように、
「分かりませんでした」
という言い訳は通用しない。
分からなかったのであれば、なぜ誰かに確認しないのかなどということには本当に厳格だ。もっともそうでもなければ、自給自足の世界では生き残ってはいけないというのが教団の考えであった。
皆が一つにならなければ存続できないという思いから、封建という言葉が出てきたのも頷けるであろう。
そんな集団の中にいると、次第に感覚がマヒしてくるものであり、これがマインドコントロールにふさわしい環境でもある。マインドコントロールする場合の一番の問題は、受けている本人に自覚がないことが大切だった。少しでもマインドコントロールという言葉が頭に浮かべばそれは失敗を意味する。一度マインドコントロールに失敗した人にも二度と掛けることはできない。それは、その人の中でマインドコントロールのための抗体ができてしまって、免疫による力で、掛けようとしても掛けることができないのだ。
それは、一度掛かった人でも、一度覚めてしまうと、再度掛け直すことができないということと同じであった。それだけマインドコントロールというのはかなりデリケートなもので、そのあたりは催眠術に似ているのではないだろうか。
この団体にも、他の団体のような、
「戒律」
が存在する。
その戒律は言葉上は他の宗教と同じで、
「~してはいけない」
という文になっているのだが、その内容は結構厳しいものだ。
漠然としている中でも、ものによっては限定されるものもある。ハッキリと示していないのは、おそらくいくらでも解釈ができるようにするという、支配者としての考え方が組み込まれている証拠ではないだろうか。それを思うと、戒律というものが、いかに信者を締め付けるかということになるのかと考えるのだ。
この宗教団体が、どこからやってきたのか不明である。誰が興したのか。どの宗教からの派生なのか? そもそも派生などという考えではなく、まったく新しい突然変異のようなものなのか、誰にも分からなかった。
そういう意味でも教団の歴史が書かれた書物が残っているわけではなく、厳密には教祖が持っているのだが、それを信者に知らせるまでもないというべきか、知らせてはいけないというべきなのか、知っている人はすでに誰もいなかった。信者にとって教祖はどういうものなのか、他の宗教団体よりも薄いところがあるとすれば、そのあたりの事情が絡んでいるのだろう。
「恐怖政治」
という言葉があるとすればそうなのだろう。
だが、それを実際に感じている人は、教団で普通に暮らしている限りは存在しない。
彼らがこの教団に入ってくるまでいた、元々の俗世間に対して感じることは、たぶん、皆同じではないだろうか。
「地獄というものは、この世にこそ存在する」
という感覚である。
俗世間で彼らは、
「地獄」
を見てきた。
それぞれに感じる地獄があるのだろうが、お金がないことで痛感させられた空腹や身体的な苦痛であったり、人からの支配の強さから逃げることができず、拘束され、蹂躙され続けた毎日、そして、家族からの監禁、暴行などと言った、ありとあらゆる欲望による束縛。そんなものをこの世の地獄として経験してきたのだから、教団において少々のことがあっても、普通に耐えていけるというものだ。
しかも、まわりにいるのは、皆同じような苦しみを乗り越えて集まってきた連中である。これほど深い絆があろうかというものだ。
俗世間においては、皆親切な顔をして、平気で人を裏切る。それも自分の欲望のためには相手がどんな人であっても、恩義のある人であっても、裏切る時は裏切るのだ。その時に浮かんだ表情の恐ろしいこと。まったく悪気のないその表情は悪魔そのもので、それこそ、
「この世の地獄」
という言葉そのものである。
それに比べると、教団が差し伸べたその道には、極楽浄土への道であると言われる、
「十万億土」
が目の前に広がっているようだ。
実際に十万億土など、誰が見たことがあるというのか分からないが、確かに彼らには見えたのだろう。釈迦から洩れる後光が明らかにその道には降り注がれ、教祖が釈迦如来に見えたに違いないのだ。
信者には、入信してしまえば、
「自分たちは、教祖様に守られている」
という考えのもと、地獄から解放された喜びと、自給自足により、
「これが生きているということの証明だ」
と言わんばかりの状況に、満足しきっていることであろう。
「私たちは決して、過去に味わったこの世の地獄に戻ることはない。家族であろうが、俗世間の人間は自分を見捨てたのだ。手を差し伸べてくれた唯一の教団に身を捧げて何が悪いというのか」
というのが彼らの理屈である。
考えてみれば、それも無理もないことだ。
俗世間が本当の世界であり、教団を怪しい集団だと決めつけている方がおかしいという考えだが、冷静に考えると、
「それのどこがいけないのだ」
という思いい駆られる。
確かに教団の「恐怖政治」のようなやり方には問題はあるかも知れないが、少なくとも集団をまとめていくわけだから、すべての人間の考えを取り入れていてはうまく組織は回らない。教団の教えの下に、ここの人間が、わがままを言わないという形にしてしまえば、彼らを締め付けたとしても、彼ら自身はその状態を、
「悪いこと」
だとは思わないだろう。
それを洗脳だとか、マインドコントロールだというのであれば、この世での教育というのは何なのか?
モラルやマナーという考え方は、あくまでも、世間を一つに纏め、支配しやすいようにするための、一種のマインドコントロールなのではあるまいか。しかも俗世間の人間は自由という言葉を履き違え、いかにわがままであっても、許す傾向にある。そうなれば、マナー、モラルなど守る人も少なくなり、一緒の無法地帯のようになってしまうこともある。この世で戦争がなくならないのも、その一つではないか。ひょっとすると、
「ノアの箱舟」
のような、この世での、
「文明の浄化」
というものが必要なのかも知れない。
宗教団体を進行する人すべてが悪い人のように見られるのは心外だというのは、信者でなくとも感じている人は多いかも知れない。しかし自分の知り合いに得体の知れない宗教団体の信者がいれば、どう対応していいか分からないだろう。
まず考えることとして、
「自分も信者である知り合いと同じ目で見られたらどうしよう」
という思いである。
「俺は、お前を偏見の目では見ないからな」
などと信者の友達に言っていたとすれば、これでは完全に裏切りもいいところである。
しかし、実際に変な目で見られてしまうと、自分の死活問題にでもなれば、友達のことなど考えていられなくなる。それはまるで、知り合いが苛められていて、そばにいた自分に苛めっ子が、
「お前も一緒に苛めてみろ」
と言われて、果たして断り切れるかということである。
その時は自分に危険がなくとも、その時苛めをしなかったことで、自分も苛められるようになってしまうと、本末転倒である。それを思えばいくら裏切り行為になろうとも、一緒になって苛めるのではないだろうか。
そんな状態を打破することは自分にはできない。皆がそう思ってしまうと、いくら口では、
「信仰の自由」
などと言っても、まるで張り子の虎のようなものだ。
だが、こんな宗教団体であったが、ある時から戒律が急に甘くなった時があった。
「団体を抜けるのは自由である」
というお触れを出したのである。
これは教祖にとっても団体にしても、大英断だったに違いない。下手をすれば存続の危機だったのだろうが、それも、彼らからすると事前に大丈夫だという根拠が持てるほど、下調べをした上での決断だったのだろう。そうでなければ、いきなりのこの言動は常軌を逸していたと言ってもいい。
だが、実際に宗教団体を抜けるものは、数人しかいなかった。抜けた人間がどうなったかというと、もちろん、家に帰ることもできない。一人で自立しようにも、履歴書も掛けず、紹介者もいない。飛込で言って雇ってくれるはずもなく、万が一、人手不足のところに紛れ込めたとしても、宗教団体の中の自給自足とはまったく違ったやり方では、即戦力として雇った方の思惑についていけるはずもない。
すぐに、お払い箱になって、また路傍を彷徨うことになる。
同じように脱退した連中も同じことだ。それを教団は幹部が彼らを隠しカメラに収めていた。
そして、それらをプロパガンダ映像にして信者に見せようというのだ。
「ここを出て行って、下野に下ったとしても、結局は何もできずに、そのまま行けばのたれ死ぬだけだ」
という意味の映像である。
もっとも、こんなものを見せなくても、残った連中は、最初からここでの自給自足が自分に遭っていると思っている。そもそも、俗世間が嫌でここに駆け込んできたのではないか。世間の人の目が、そう簡単に変わるはずがないということは、自分が一番分かっているはずだった。
プロパガンダ映像は、それなりにショッキングなものではあったが、ここにいる連中の想定内であった。
「あいつらは、こんなことも分からずに出て行ったんだな。一体何がしたかったのだろう?」
としか思えなかった。
確かにここにいるからと言って、何かの野望が果たせるわけではない。自分には野望を持つ気持ちなどないというのは、ほとんどの連中の考えだ。
しかし、人が増えてくれば増えるほど、いろいろな考えの人が増えてきて、中には野望という感情を思い出す人もいるだろう。
世間で挫折した人の中には、元々会社社長だったり、世間では成功者と言われていた人だったりもいる。そんな人たちは成りあがった人もいるだろう。頂点を頂くことはできても、それを維持するだけの能力に欠けていたことで、奈落の底に落ちた人もいる。
「俺にはもう欲望や野望なんて残っていない」
という思いを胸に、この団体に駆け込んできたのだ。
そんな、
「人生の敗北者」
でも、ここでは平等に扱ってくれる。それがありがたかった。
しかし、本当に野望などなくなってしまったのだろうか? 今までの人生の大半を、
「野望を抱くことが自分の人生の生きがいだ」
と思っていたとすれば、精神的に落ち着いてくれば、忘れていたものを思い出すことだってあるかも知れない。
この団体から表に出ていった人の中には。そういう人が多かったのではないだろうか。
だが、中には、本当に社会に溶け込み、これまでの宗教団体を忘れてしまったかのように社会に適合している人もいた。
彼が元々社会適合能力があったのかは不明だが、少なくとも、教団にいたことで、適合能力が育まれたのかも知れない。
あるいは、元々順応性に掛けては、誰にも引けを取らないことが才能であり、その才能を忘れていただけなのかも知れない。
そんな人も中にはいるが、本当に一人か二人の世界だろう。
教団にとって、そんな連中は、もうどうでもいいことであった。
「別に出ていきたいのであれば、止めはしない」
と言って、退会を自由にしたのだが、その言葉に嘘はなかった。
彼らとしても、出て行きたいという気持ちで燻っている連中が分からず、そのまま中途半端な状態で参加されていては、却って邪魔だと思っていた。
「浄化」
という意味では、実にいい方法でもあったのだ。
教団に残った連中の大部分は、最初から俗世間には興味がなかった。ここに来たことで生きがいを思い出し、自分が人間であることを初めて知った。この団体の人は、誰も自分を特別だとは思っていない。逆に自分たちがまともで、俗世間が狂っていると思っている。
考えてみれば、俗世間の世界を見ているとどうだというのだ。いついかなる時でも、世界を見渡せば、どこかで戦争をしている。殺し合いをしているではないか。
国によっては、腐った政府のために国民が苦しめられ、一部の特権階級の連中だけが暴利を貪り、大部分の国民は。光すら手に入れるのに困っている。そんな状態を見ていると、俗世間のどこに幸せがあるというのだろうか。
野望を持ったとしても、それが果たされるのは、一部の決められた人間だけ、それは世襲であったり、人を人とも思わないほどの人情などの欠片もない連中だけではないだろうか。
少しでも情けを掛けると、自分の方がやり込められてしまう。戸惑ってしまうと、相手に先を越されてしまい、先に進めなくなってしまう。
そんな状態を考えていると、教団にいることがどれほど楽なのかが分かるのだ。
何が苦しいと言って、
「負のスパイラル」
に入り込むことが辛いのだ。
どんなに頑張っても抜け出せない。
しかもそのために使う力は、普段の数倍になるのだ。相手があることなので仕方がないが、教団にいる限り、誰かと競争するということはない。しいて言えば、見えないもう一人の自分との闘いだと思っていい。
だが、もう一人の自分と言っても、自分は自分なのだ。お同じ力であることも、どんな力を持っているかということも一番よく分かっている。
俗世間にいる間は分からなかった。
「自分のことなので、一番自分がよく分かっていると思ったけど、そうではない。一番自分のことを自分が分からないのだ。それは鏡のような媒体に自分を写さない限り、自分の姿を見れないことと同じである。つまり生の自分を見ることなどできるはずはないのである」
という考え方だった。
しかし、教団にいると、その自分を見ることができるのだ。
「もう一人の自分に自分がなって、本当の自分を見ている」
という感じである。
それこそ、夢を見ているような感覚だと言えるのではないだろうか。
俗世間に帰るなどという発想はここにいれば普通では考えられない。考える必要がないのだ。
そのことを思い知らせようというのも、教団幹部の考えだった。
いくら力で縛っても、力に屈してきた連中には通用しない。それであれば、
「いかに納得させるか」
ということが重要である。
幹部の考えはまんまと図に乗ったようだった。
前述の教団の考え方としての、
「失敗は二度までは許されるが、三度目は許されない」
というのは、
「一度目は、神の失敗であり、二度目がその人の失敗である」
という考え方だった。
だから、絶えず、失敗しても一度だけという人がいたとすれば、その人は神であり、幹部候補生ということになる。人間が二度失敗するのは当たり前のことで、なぜなのかと訊かれると、
「人間だから、当然」
と、この教団では考えているようだ。
「教祖は神である、大王神であり、その下に、一度しか失敗することのない幹部がいて、その下に、二度失敗する一般の信者がいるという、
「キチンとした理由のある階層」
が形作られていて、彼らの中での上下関係は従属関係としての封建制を育むことで、一つの組織を形成しているのであった。
さらに彼らの考え方で、他の宗教との大きな違いは、
「我々教団社会の中で起こることのすべての責任は神にある」
というものである。
これは、一見、人間の罪を神が被ってくれるという意味ではない。俗世間の人であれば、そう考えて、
「何ていい世界なんだ」
と思うことであろう。
しかし、神を絶対の侵攻の対象として崇める組織の中では、神を汚すことは決して許されない。つまり、神に責任を押し付けることは大罪であって、神は許しても、まわりは絶対に許さないということである。
それだけ大きなプレッシャーを抱えていて、自由というものが、本当は一番苦しみを与える根源であることを思い知らされるのであった。
例えば、小説家やマンガ家が、出版社と原稿wの契約をしていて、編集者から、どういう内容のものを書くか、テーマを与えられるのが普通である。
しかし、時々、
「どんな内容でもいいから、とにかく面白いものを」
という完全に作家の自由に書かせてくれる場合があるが、これは自由だから簡単そうに思えるが、
「何をやっても自由であるというkとおは、逆に失敗は許されない。妥協は一切通用せず、言い訳も許されないのだ」
これこそ、大きなプレッシャーである。
編集者の方も同じプレッシャーを感じていることだろう。作家はそれも分かっているから、自分に全責任があると理解している。逃げることはできないのだ。
そんな状態に陥ると、失敗できないプレッシャーを人間が感じた時、えてして失敗してしまうのも人間なのだ。
だから、この世界では、二度目までの失敗は許される。三度目に成功すれば、神の失敗という結果も消えてしまうからだ。
だが、三度目も失敗を繰り返すと、もう目も当てられない。この世界での自分をどう正当化するか、それが大きな問題となってくるのだった。
「果たして、どちらがいいのだろう?」
俗世間の人たちが、世の中の常識から宗教団体の本心を知ってしまうと、決して彼らの世界に入り込むことを拒むだろう。
「やっぱり、いいようなことを言っておいて、結局は人間を縛るんだ」
と考えるに違いない。
しかし、一旦教団に入ってしまうと、もう俗世間に戻ることはできない。
自分たちが神の加護によって守られているという意識があるから、神に対してのプレッシャーは当たり前だと思うのだ。どうして彼らが俗世間から逃れてきたのかというと、
「自分にとって一番怖いのは、やはり人間なんだ」
と考えるからである。
人間との間に、神という存在があることで、それが一つのクッションになって、自分を助けてくれていると思っているのが、教団での考え方だった。
人間社会よりも、厳しいところもあるが、やはり神から受ける加護は大切なものである。そのことをゆめゆめ忘れないことが、教団で生きることの意義だと言えるだろう。
では、人間社会という俗世間で生きる意味を、果たして皆考えたことがあるだろうか?
「誰かのために生きる?」
そんなことはあり得ないと思う。
それが家族であったとしても、一体家族というのは何なのだろう?
「血の繋がり?」
人間は血の繋がりを異常に気にするが、考えてみれば、近親相姦などはタブーとされている。しかし、神話の世界では、近親相姦が行われた神もいるではないか。
「神であれば、近親相姦は許されるというのか?」
宗教団体での近親相姦は完全な罪であった。
そもそも、この教団には、
「血の繋がり」
などという概念はない。
極端な話、教団に入ってしまうと、自分の血の繋がった相手は、自分の子供以外にはあり得ないのだ。
この教団は、一般信者の中で、複数の団体に別れている。それを決めるのは、幹部であったが、同じ団体に、肉親が入ることは許されなかった。同じ教団であっても、団体が違えば、まったく違う世界。話をすることくらいは自由であるが、あくまでも戒律は団体単位にもたれている。しかも、肉親同士は会話することも許されない。
「俗世間においての、肉親であったり、血の繋がりなどという考えは。この世界ではありません。皆が他人、そして皆が肉親なのです。血の繋がりよりも考え方。確かに昔の人は血の繋がりで、考え方が似ていたり、最後に問題を解決するのが血の繋がりだった時代もありましたが、時代は進みすぎています。すでにたくさんの血の繋がりがネズミ算的に増えていって、その分、血の濃さというのが、まるで水のように薄くなってしまったに違いありません。したがって。ここでは血の繋がりなどというのは、優恵美無実です。皆さんにも忘れていただきたい。そんなものを意識するから、甘えが生じたり、逆に考えが平行線をたどっても、どうして考えが相いれないのかということに疑問を抱くだけで、苦しむことになるのです。もう、皆さんはそんな世界から逸脱して、こちらに来られたんです。我々のことを信じて、ともに生きることを前向きに考えてまいりましょう」
というのが、教団の考え方だったのだ。
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