7月12日(水) 『門番』

 週の真ん中、水曜日。我が櫻井家の夕食は季節外れなビーフシチューだった。

 この蒸し暑い時期に、なぜビーフシチューなのかと母へ問えば。


「あいら!昨日教えてくれた時短飴色玉ねぎ、さっそく試してみたの。簡単だったわ〜。それに、美味しくできたでしょう!」


 とのことだった。昨晩の私の話から、母は今朝のうちに玉ねぎをカットして冷凍させていたらしい。まあ、確かにビーフシチューは美味しかったけれどね。


 ***


『七月十二日水曜日、時刻は午後七時になりました。こんばんは、声優の瀬戸川セツナです。七月限定の番組、タソガレドキにはアイスティーを。略して、タソアイ。月曜日から金曜日の夜七時から七時三十分まで、黄昏時の三十分間、どうぞよろしく──』

「セツナさん、タソアイのおかげでうちの夕食はビーフシチューでしたよ〜」


 自室で卓上ラジオから届くセツナさんの声に、返事は無いと分かっていながら喋りかけてしまう。

 ラジオにさほど興味の無かった私だが、タソアイの放送を聴くことが今では習慣になっていた。


 今夜のメッセージテーマは【今、海外旅行に行くならどこに行きたい?】らしい。リスナーさんたちの希望、願望の込められたメッセージが紹介されていく。


 ハワイへ行って本場のパンケーキを食べたい、とか。イギリスへ行ってバッキンガム宮殿で門番をしている近衛兵このえへいを見たい、とか。オーストラリアへ行ってコアラを抱っこしてみたい、とか。


 どれもこれも夢があって、おもしろそう。でも、


「コロナのこと考えると、ちょっと怖いよねー」


 学生生活も一変させてしまった、新型コロナウイルス。ワクチンが接種できるようになり、新規感染者も酷い頃に比べると落ち着いたとはいえ、まだ怖いものは怖い。アフターコロナっていっている人もいるけど……。


 例えば、明日にでも何かの懸賞で家族三人分のハワイ旅行が当たってタダで旅行に行けるとしても、私はご遠慮したい。

 だって、今まで三年?四年?ずっとコロナに振り回されてきたんだよ。ここで感染しちゃったら、これまでの努力ってなんだったの?って思うじゃん。


 そんな感想を抱く私とは違って、セツナさんは、


『海外、いいですねー!メッセージを紹介していたら、私も海外旅行へ行きたくなってきました。新型コロナも今となっては昔の話と言いますか、パンデミックの頃と比べると意識が変わりましたものね。現在でも新しい変異株は見つかっているようですが、ワクチンもちゃんと対応してますから。昔に比べれば気が楽になってますね。日本で新型コロナがまだ酷かった時の、オミクロン株、でしたっけ。あれ何年前だったかな。もはや懐かしささえ感じますが──』

「……オミクロン株、今も流行ってるはずだけど?」


 セツナさんの話……。なんだか、ちぐはぐになってない?

 モヤっとした違和感はあったものの、次のメッセージが紹介されて、曲が流れて、番組は進んでいく。


 違和感の正体は解明されないまま、私は疑問符を浮かべながらタソアイを聴き続けたのだった。

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