僕の先輩
柚麻
2年 春
白い扉を開けると、先輩は読んでいた本から顔を上げた。
「おう、やっときたか」
彼は僕の方を見て破顔する。先輩が本をテーブルに置くのと同時に、僕も手近な椅子に腰掛けた。
僕は織田。T大学社会学部の学生だ。今年二年生に進級し、心理学を専攻することになった。うっかり今年取らないといけない授業を登録し忘れたこと以外は普通の学生だ。無論、やばいとは思っている。それから、「織田」という名字を聞くとすぐにかの有名な戦国武将を思い浮かべ、さらには「その子孫ですか?」などと聞いてくる輩も一定数いるが、僕は別に彼の子孫でもないし縁もゆかりもあるわけがない。まぁ、「好きな偉人は?」と聞かれたら「織田信長」と答えはするけれど。
さて、僕のことはさておき目の前にいる人物について紹介しよう。彼は僕の先輩だ。と言っても彼は社会学部ではなく、理工学部建築学科所属だ。二つ年上で学年は三年生。関西出身で、大学近くの安アパートに一人暮らしをしている。なぜ関西の大学ではなく、はるばる東京の大学を受験したのかと聞けば、「俺の名前を日本中に轟かせるためや!」らしい。意味がわからない。そしてすんなりと合格して、本当に名前を知らしめにきてしまったのだ。
出身も学部も違う先輩と出会ったのは、僕が所属しているミステリー研究会だ。しかしサークルと言っても、今のメンバーは僕と先輩の二人だけ。そのため割り当てられた部屋はあるけれども、二人が揃ったところがたちまち部室となる。つまり学生食堂なんかは実質ミステリー研究会の部室と言っても過言ではない。
「今日はとっておきの話があるんや! わらしべ長者は知っとるやろ? 俺が体験したのはまさに現代の……」
「消しゴムが金券になったと思ったら、最終的に消しゴムになったって話ですよね? それもう二十三回目です」
確かに先輩の言う「現代のわらしべ長者」は面白かった。価値あるものが最終的に元に戻ってしまったのは予想外だったし、何より先輩の語り口が笑いを誘った。初めて聞いた時はさすが生粋の関西人と感心したし、二人で腹を抱えて大笑いした。しかしそれも二十三回目となれば面白みも話のキレも無くなってくる。もはや僕の中では古典と同じ扱いだった。
「じゃあ、街を歩いとったらヤンキー同士の抗争に巻き込まれたんやけど、よう分からんうちに全員倒れとった話をするか?」
「それは十八回目です」
「なら、俺が強盗を捕まえて地方史の一面を飾った話を……」
「それは三十一回目!」
ツッコミを入れるように話を遮ると、彼は楽しそうにころころと笑う。おそらく何十回と繰り返されたのだろうテンプレート化したこの会話を、先輩は楽しんでいるのだ。
「それより、その腕時計どうしたんですか?」
「ほならあの話を……」とさらに何か続けようとする先輩に僕の言葉を被せる。部屋に入ってきた時から、ずっと先輩の腕で光っている腕時計が気になっていたのだ。
「おお、これか! 隣の部屋のおっちゃんにもろたんや。腹が出とって福耳やから、俺はえびすさん呼んどるんやけど……まぁ、顔はいかついんやけどな。そのえびすさんがもうすぐここを出てくみたいでな? そしたら俺が腕時計好きってのを覚えとってくれて、お下がりやけどよかったら〜ってくれたんよ」
先輩はすっかり我が物顔で腕時計を見せつける。僕は時計に関して詳しくはないが、確かどこかのブランドで数十年前に出たものだと思う。もう廃盤になってしまったらしく、滅多に出会うことはないのだと、腕時計マニアの先輩が嘆いていたのを思い出す。
「よかったじゃないですか。珍しいやつなんですよね?」
「せやで! だからお前に一番に見せたくてな! ずっと着けて待っとったんや」
先輩は再びこちらに顔を向けて笑う。白い歯が、唇の隙間から覗いている。僕は先輩に貸すために持ってきた単行本を取り出そうとする。先輩が好きな推理作家の新作だ。しかし僕が本を手に取る前に、先輩が口を開く。
「そういや最近、ノブナガのやつ顔見せへんな〜。ちょっと薄情すぎるんちゃう?」
その言葉に、僕は一瞬動きを止める。しかし不自然に思われないようすぐに言葉を紡ぎ直す。
「……まぁ、二年生になりましたから。いろいろ忙しいんですよ」
「さよか〜。そういやあいつも二年になったんやっけな。ゼミも始まっとるやろうし、あんま無理は言われへんか」
先輩はそう呟いて深く息をつく。そして疲れてしまったかのように、体を後ろに傾けた。病的なほど白いクッションが、その背中を受け止める。
「せや、今度ノブナガに会ったら伝えといて。近々ミステリー研究会恒例の推理大会を開催するから、ここで三人で集まろうや。前回のあいつの推理は脱帽ものやったから、今回も期待してるでってな」
そう言って、先輩は再びころころと表情を転がす。彼の言葉に、僕は黙って頷いた。先輩は本当に疲れてしまったようで、起こしていた体をそのままベッドに横たわらせる。僕はそこまで見届けて、テーブルの上に本を置いてから、そっと病室を後にした。もうすぐ、面会時間が終わる。
先輩は昨年の末から、この病院に入院している。大学近くの総合病院、敷地の端にひっそりと建てられた精神病棟。そこが今の先輩の家であり、僕らの部室だった。
先ほど、ミステリー研究会のメンバーは二人だと言ったが、昨年までは三人だった。先輩の親友が所属していたのだ。僕は入学したばかりの頃にその人と知り合い、そして昨年僕が実家に帰省している間にこの世から去った。たった数ヶ月の付き合いだったが、いい先輩だったと思う。
短い冬休みが明け、僕が大学に戻ると同時に、先輩は大学を休学して入院した。とある精神疾患らしい。葬式の時、人目も構わず泣き叫ぶ彼の姿を僕は見ていた。
“「なんでや! 何であいつやねん! なんであいつが死ななあかんかったんや! あの時は俺が……!」”
他の参列者に抑えられながらも棺に縋り付かんとする先輩の叫びの真意を、僕は知らない。いや、知ることができない。
入院した先輩を見舞いに行ってすぐ、僕は違和感に気がついた。そして、彼が患った病気についても、ある程度察してしまった。僕に向けて話しているようで、僕以外の誰かに話しかけているような感覚。何度か訪れているうちに、僕は先輩が、僕のことを亡き親友だと思っていると結論づけた。いや、僕だけではない。おそらくあの人と背格好が似ている人物全員を、自分の親友だと錯覚している。親友の死の事実を、先輩の脳が拒否したのだろう。先輩は今でも、ミステリー研究会のメンバーは三人で、親友が毎日見舞いに来てくれていると思っている。そしてかつて親友が笑ってくれた話を何度も繰り返してあの楽しかった日々に溺れようとしているのだと思う。これは完全に僕の推測だが、当たらずとも遠からずだろう。そして先輩に真実を告げられない僕も、もしかしたら同罪なのかもしれない。
僕は病院を出て大学に向かう。図書館で調べ物をするためだ。図書館に向かう前に、僕は一度顔を左上に向けた。特別棟の四階、その隅にひっそりと存在する部屋が、僕らの本来の居場所だった。
その扉は固く閉ざされたまま、まだ開く気配はない。
僕の先輩 柚麻 @yuma-ramune
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