蘭月怪異譚〜2023〜

四椛 睡

Day1 傘

 家を出てジャンピング傘のボタンを押した瞬間、傘が大破した。横から吹き付けた突風の仕業だった。

 そういえば。と、台風接近のニュースを思い出す。数日前から繰り広げられている報道合戦によれば、その位置はまだまだ南にある。しかし、台風の攻撃範囲は広い。どうやら僕の家は射程圏内のようだ。

 唯一の傘が死んだので弔路谷怜ちょうじたにれいへLINEを送る。


 弔路谷怜。

 高校の入学式で遭遇してしまった電波女。

 彼女は僕のことを前世から知っているらしい。

 が、僕は彼女を知らないし、前世云々を宣う痛女のことなど微塵も知りたくない。不運にも同じクラスに割り振られただけの同級生。出来れば一生、他人のままが良かった。

 なのに結局、高校を卒業して二年が経過した現在も連んでいる。正真正銘の腐れ縁だ。

 今日だって別段、どこへ行く気もなかった。ただ弔路谷が「遊ぼう」と連絡を寄越したから行くだけで。だから「迎えに来い」と命令しても許される。


 弔路谷は来た。真っ赤と呼ぶには黒みがかった番傘をさし、軒下で待つ僕の下へ。無邪気な笑みを浮かべながら。

「やぁやぁ、ハジメくん! いい天気だね!」

「どこが?」

「重苦しい曇天。湿った生温い空気。気紛れで無慈悲な強風に抗えない霧雨。これを晴天と呼ばず、なんと呼ぶ!?」

「荒天一歩手前」

「ちょっと心霊スポットに繰り出したくなるよね!」

「ならない」

 僕は傘を買いたい。とりあえず駅まで入れろ。

 視線での訴えを正確に受信した弔路谷が、右側へ番傘を傾ける。こちらへどうぞ、とでも言うように。背中をやや丸めてお邪魔する。

「珍しいな」何とは無しに言葉を紡ぐ。「番傘なんて」

「いい傘でしょ」弔路谷はご機嫌な声音で言った。「この子を紹介したくて今日、遊びに誘ったんだぁ」

「は? それだけの理由で? だったら講義のある日で良かったろ」

 大変不本意ながら僕と弔路谷が通う大学は同じなので。専攻は異なるけれど。

「大学じゃ駄目。ぜーったい駄目! ひとの眼があるし。それに恥ずかしがり屋で、人見知りだから」

「恥ずかしがり屋、人見知り……お前が?」

「いやいや、あたしじゃなくて。レーラちゃんが」

「レーラちゃん?」

「そ。ね? レーラちゃん!」

「そうよ」

 それは嗄れて、耳障り極まりない声だった。そして完全に第三者のものであり、とても近くから――具体的に言うと頭上から降ってきた。

 僕は、恐る恐る仰ぐ。

 果たせるかな、番傘の内側に誰かが居た。

 そいつは皹割れた紫色の唇を歪め、笑みのようなものを作っていた。僅かに開いた隙間から黄ばんだ前歯が何本か覗いている。幾らかは欠け、幾つかは抜けている。その奥は真っ黒で何も見えない。

 僕を見下ろす眼は血走っている。「目は口ほどに物を言う」と言うが、そいつの瞳には恨み辛みと怒りが凝縮されている。口は笑っているのに眼が笑っていない、の典型例だった。

「いい感じに呪われてるでしょ」

 弔路谷曰く。この番傘の最初の持ち主は、とても美人な女性だった。

 彼女は夫の不貞を知りながら、見て見ぬ振りをしていた。いつか自分の下へ帰ってくる。どんなに他の女を愛したところで、私より美しく魅力的な女など居ないのだ。そう心から信じて。

 しかし結局、彼女は最期まで裏切られた。

 一本の傘をさしながら仲睦まじく歩く夫と女に嫉妬した夜、とうとう彼女は糾弾した。そして大喧嘩に発展。夫の拳で彼女の美しい容貌は血塗れとなり、首を絞められ息絶えた。

「その後。この番傘をさした男は、ヤンデレ彼女に愛される夢を見続ける。女は悉く不幸になる。そして相合い傘をしたカップルは、原因不明の死を遂げるようになったとさ。ちゃんちゃん!」

「なんっつー傘で迎えに来やがった。ふざけんな、ひとりで死ね」

「だいじょーぶ。あたしとハジメちゃんはカップルじゃないから。モーマンタイ!」

 そういう問題じゃない。と突っ込もうとして、僕は口を噤んだ。弔路谷も言葉を発しなかった。

 僕らは駅までの道を歩き続ける。誰も何も言わず、笑いもせず、無言のまま。黙々と。

 湿気とは異なる不快な、どことなく腥い臭いが終始、鼻腔を刺激し続けていた。

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