魔女の幸福を、祈れるようになったよ

 結婚生活が始まって数日経ったある夜、カルメはザァザァとうるさい雨音をBGMに、一冊の本を読んでいた。

 少し大きな白衣の袖をまくり椅子に腰かけて、近くにあるランプのおぼろげな光を頼りに文字を追う。

 『世界に勇気を』

 これは、表紙がボロボロになるまでカルメが何度も読んだ本だった。

「読書ですか?」

 風呂上がりのログが肩にタオルを引っ掻けて、髪を乾かしながら問いかけた。

 濡れた髪とふんわり香る石鹸の匂いに、ドキッとしながらカルメは頷いた。

「まあな。少し、読みたくなったんだ」

 本をぱたんと閉じて答えた。

 ついでに、点けていなかった部屋の明かりをつける。

「別に、読んでいてもよかったのに」

「いや、今はログと話がしたくなったから。それに、この本はもう何度も読んでいるんだ」

 ログは、そう言って笑うカルメからボロボロになった本を受け取ると、クルクルと眺めてから開いた。

 部屋が明るくなって本もはっきりと照らされると、本の背表紙にベコッとへこんだところがあり、本がボロボロである理由が経年劣化だけではないことが察せられた。

「気になるのか?」

「はい。だって、カルメさんはこの本が好きなんでしょう?」

 ログはそう言って、無邪気に笑う。

「好き……好き、か。多分、そうなんだろうな」

 歯切れの悪いカルメに、ログは首を傾げた。

「こんなに何回も読んでいるのに、嫌いなんてことあるんですか?」

 不思議そうなログに、カルメは苦笑いを浮かべた。

「あるんだよ。少なくとも昔はそうだった。大っ嫌いなのに何回も読んでたんだ」

 そう言われても、やはりログには腑に落ちないようだ。

 よく分からないまま、頭に疑問符を浮かべて曖昧に頷いている。

 その様子がおかしくて、カルメはほんのりと笑った。

「よく分かってないな。まあ、それは私も一緒か……当時の私は、その物語に出てくる主人公と、散々暴れまわった挙句にあっさり主人公の仲間になった魔女が、大っ嫌いだった」

 そう言って、カルメはログから再び本を受け取り、何度も開かれた形跡のあるページを開いて挿絵を見せた。

 剣を掲げた主人公の隣に、さも仲間です、という顔をして杖をもった真っ黒い魔女がいた。

「キレイ事ばかりの主人公にもムカついたし、散々ひねくれて悪い事ばかりしていたのに、ちょっと説得されただけで簡単に主人公になびいた魔女も、大っ嫌いだった。大っ嫌いだと思っていたんだ」

 吐いた言葉には嫌悪が満ちているのに、その横顔は寂しそうだ。

「本当は違ったんですか?」

 ログの問いかけに、カルメは少し黙ってから頷いた。

「うん。本当は羨ましかったんだと思う。救われた魔女が、変わることができた魔女が」

 呟くように言った。

「本当は、本気でキレイ事を言ってみたかったんだ。キレイ事を信じてみたかった。二人が羨ましくて、憎くて、でも、憧れてたんだろうな。イライラしながら、何度もこの本を読み返したんだ」

 自嘲的な笑みを浮かべて、カルメは本を閉じた。

 ログが心配そうな表情でカルメを見る。

「そんな顔しないでくれよ。もう、大丈夫だから。私はもう、救われたんだよ。ある意味、魔女よりも救われている」

「どういう意味ですか?」

 カルメはログへの問いには答えずに、比較的、開かれた形跡の少ないページを開いた。

 そこには、主人公の青年と可愛らしいお姫様が仲良く並んでいる挿絵があった。

 服装や雰囲気から見るに、結婚式のシーンだろうか。

 主人公たちの後ろでは仲間らしき人々が笑顔で二人を祝福しているのに、魔女だけがいない。

「よくある話だろ? 魔女は主人公が好きになるんだ。でも、主人公にはすでに心に決めた女性がいるんだよ」

 それが挿絵で微笑んでいる可愛らしい女性であろうことは、容易に想像がついた。

「この子は、すごくいい子なんだ。可愛らしくて、優しくて、素直で、主人公の隣に立つのに相応しい女性だ。魔女もこの子が大好きなんだ。恋敵だけれど、大好きなんだよ」

 そう言って微笑むカルメの横顔は、声は、寂しげだ。

「魔女は、大好きな二人が一緒になるのを見ていられなくて、遠くへ旅に出るんだ。世界を救うのに大いに貢献したんだがな。急に消えた魔女を主人公たち以外は誰も探してくれないんだ。そして結局、魔女が旅に出たって知った主人公たちも、あの人は自由な人だから、って笑うんだよ。人の気も知らないでさ」

 そこまで言うと、カルメは「ああ、ごめん。話がそれたな」と笑った。

「まあ、魔女には最初から勝ち目なんてなかったんだ。さっきの挿絵を見ただろ? 魔女は真っ黒い影の塊で、人間じゃない。初めから、主人公の眼中には無かったんだよ。それでも、魔女は主人公が好きだった。化け物が人間を好きになるって、残酷だな」

 相変わらず自嘲気味に、そして寂しそうに言うカルメを、ログはギュッと抱きしめた。

 ログからは石鹸の良い匂いがして、やたらと温かくて、カルメは心臓を鳴らすと同時にどうしようもなく安心した。

「カルメさんは、人間ですよ。その魔女やお姫様よりもずっと可愛くて、優しくて、素直で、素敵な女性です。そして俺はその主人公と違って、もっとどうしようもない、けれどカルメさんを好きで仕方がない男ですよ」

 そう言う声は必死で、カルメはクスクスと笑った。

「分かってるよ、バカだな。言っただろ? 私は魔女よりもずっと救われているって」

「でも、カルメさんが随分と、自分と魔女を重ねているように見えたから」

 ログの言葉を聞いてから、カルメはそっとログを抱き返して深呼吸をした。

 こうしている時が一番落ち着く。

「昔は、そうだったんだろうな。でも、今は少し違うんだ。今は、自分と同じように見えた魔女が本当は救われていなくて、寂しい目に遭っているのが辛いんだ。何かに恋焦がれる気持ちが、手に入らなかった時の気持ちが、理解できるから」

 カルメとログは一度、小さなすれ違いを起こした。

 カルメはログに、ログはカルメに、本気で嫌われたと思い、互いに失恋をしたと勘違いしたことがあった。

『私の場合は誤解だったけれど、それでもやっぱり、辛かったな。自業自得なんだが。それでも、あまり思い出したくない』

 不安げに瞳を揺らすカルメの髪を、サラリとログが撫でた。

 そして、額にキスを落とす。

 優しいキスは心を温めて、カルメはほんのりと頬を染めた。

「そ、そんなに甘やかすなよ。本当に大丈夫だから。ただ……」

「ただ?」

 言葉を濁らせるカルメの瞳を、ログは覗き込んだ。

「ただ偶に、やっぱり、不安になるんだ。急に愛想を尽かされて、化け物だって言われて追い出されたらどうしようって。読んだら余計辛くなるのに、本を読んでしまうんだ。ごめん。面倒くさくて、ごめんな」

 カルメはしゅんと落ち込んで俯いた。

 大丈夫、と言いつつ、実際は全然大丈夫ではなかったのだ。

 カルメは天候が悪かったり体調が悪かったりすると、前触れもなく落ち込んではログの言葉を求めた。

『いつも好きだって、言葉で、態度で示してもらってるのに。こんな風に疑って不安になって、最低だ』

 カルメはやっぱり、自分自身が嫌いだった。

 ログは仕方がないな、と愛し気な笑みを浮かべるとカルメを見つめた。

「案の定、この魔女と自分をしっかり重ねているんじゃないですか。全く、仕方のない人ですね。本当に可愛くて、愛おしくて仕方がない」

 絵具で染まった絵筆を水につけて溶かした時のように、じんわりと愛が瞳の中に滲んでそれ一色に染まりきる。

 柔らかい笑みはいつでもカルメの自己嫌悪を緩和し、不安を溶かして愛の底に沈めてくれる。

 カルメは何も言わずに、ギュウッとログに抱き着いた。

 ギュウギュウと抱き着くカルメの頭を、ログは丁寧に撫でた。

「大丈夫ですよ、カルメさん。俺はこの本の主人公なんかじゃないから。さっきも言ったでしょう? 俺はどうしようもない奴ですよ。嫉妬深くて、不安になるカルメさんが可愛くて仕方がない。割と意地悪だってしますし」

 そう笑むログは穏やかだ。

「意地悪については反省しろよ」

 つい軽口を叩いたが、すると今度は、ログは意地悪く口元を歪めた。

 愛一色だった瞳に、甘い意地悪が滲む。

「本当に意地悪しなくなってもいいんですか?」

 低い声がカルメの鼓膜を揺らす。

「そういうとこ、本当に意地悪だよな!」

 カルメが顔を赤くしてプイッと顔を背けると、ログは口元を歪ませて笑った。

「あはは、つい。でも、本当に安心してください。俺はカルメさんを世界で一番愛していますから」

「…………私も」

 顔を真っ赤にするカルメの頬に、ログはそっとキスを落として抱き締めた。

 どうしようもない幸福を味わいながら、カルメは思う。

『あの魔女も旅の果てに、化け物でもいいって抱き締めてくれる恋人を見つけて、そいつと幸せになってくれてたらいいな』

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