君に春を鬻ぐ

@korvtn

第1話 2023年3月1日

窓の外、うるさいほどに蝉が泣いている。

世界そのものを震わすような夏の合唱が、狭い部屋の中に響き渡っている。

まるでそれは警告のように私には聴こえた。

その先に進んではいけないと。

今ならば、まだ、引き返せると。

ぽたり、ぽたりと机上のペットボトルから大粒の雫が滴り落ちるのが見える。


でも、引き返すつもりなんてさらさらないということを私は知っていた。


「ね、シよ?」


蕩けた目で、何かを期待するみたいに可愛らしいピンク色の下着姿で私を迎えるーーー、彼女。

こんな顔もできたのか、と意外に思った。

そしてそんな顔を見られるのはこの世界中で私ひとりだという独占欲めいたものが鎌首をもたげ、興奮した。


「分かった、する」


心臓が蝉の合唱に合わせて激しいビートを刻む。

酸欠になったみたいに頭はくらくらしている。

ここから先はもう戻れない。

意を決して、私は彼女の唇に自分の唇を近づける。


「んーーーーーーーーーー」


熱い。熱すぎる。

胸の奥底で湧き上がる情欲の炎が私を焦がす。

ひとりじゃないことが、こんなにも温かく、心震わせることなのか。


いいや、違うな。

他の誰でもない、彼女、縁堂こよりだから。

私がいて、彼女がいる。

言葉はなくとも、それだけで私たちの共通言語なんだ。


彼女の豊かな胸に手を伸ばしながら、私は思い返していた。

全てが終わり、そしてもう一度始まった日を。

理不尽にも思える、その現実を。



かくん、かくん。

断続的に揺れる小柄な身体から視線が外せない。

斜め前に座る彼女は、担任の話なんて歯牙にもかけず眠りの国の住民になっている。

そしてそんな彼女が気になって仕方ない私もまたーーー。


「おーい、おい、縁堂!お前ちゃんと話聞いてんのか!?明日は卒業式なんだからな、もっとーーー」

「帰ります」


一刀両断。冷酷無情。

髪の薄い担任の叱責を即座に斬り捨て、彼女ーーー縁堂こよりは目を擦りながら教室を去っていった。

空いていた窓から強く吹き付けた風が縁堂の黒く、細い髪を私の目に焼き付ける。

瞬きをしても、生き物みたいに蠢く髪の残像がまだそこにある気がする。

教師だけでなく、周りの生徒たちも呆気に取られ、教室の空気は真冬に逆戻りしたみたいだった。

間違いなく彼女は異端者だった。

学校というものは不気味で、無機質な機械だ。

同じように席に座り、同じように面白くもありがたみもない担任の話を聞く。

そこに一切の例外は許されない。

その常識、強迫観念を鼻で嗤うのが縁堂こよりという高校3年生の少女である。

私は彼女の世界には彼女しか存在していないような気がしてならなかった。


「あの・・・、エンコー女」


どれくらい沈黙が続いたか、静けさの膜を破いたのはそんな憎々しげな声。

エンコー女。

このクラスの、いや、学校の誰もが知っている噂。

皆が知っていればそれは噂ではない。事実である。


曰く、縁堂こよりは金銭を受け取って、不特定多数の男に股を開いている。


男の人と付き合うどころか恋愛さえしたことのない私には馴染みのない感覚で。

だからこそ、縁堂のことを汚いとか気持ち悪いとか思わなくて良いのかもしれない。

生徒達の反応は分かりやすい。

男子生徒は自分もご相伴に預かれるのではないかと内心で期待しているし、女子生徒はゴキブリでも見るかのような目で縁堂を見ている。

でも少なくとも、学校の中の人間と関係を持ったことは噂で聞く限り無いようである。

彼女の中に線引きがあるのかないのかは外野の私には知りようがない。


なのに、彼女が気になるのはーーー。


「ンンッ!ともかくだな、明日は卒業式だからな!これで今日は終わりだけど、くれぐれも怪我とかするんじゃないぞ!!」


この日はそれで解散。

元より、即座にゴミ箱行きになる卒業アルバムを貰うためだけに来ていたのだ。

生返事を返し、足早に教室を出る。

何かに急かされるような自分の行動に自分でも驚いた。


まさか、縁堂を追いかけていた訳ではないと思うけど。


そんな内心を見透かすかの如く、首に巻いた灰色のマフラーが揺れる。


私の通う学校は、駅から15分ほど歩いた街中にある。

よくよく考えてみれば、何も知らない街だった。

そもそもが印象に残らないような田舎町で、取り立てて有名なスポットがあるという訳でもないので当然だと思う。

学校があるからここに来ているだけで、その繋がりさえ切れてしまえばもう二度とやって来ないと断言できた。

けれど明日でもうここに来ることもないのだと思うと、名状しがたい感慨が胸を衝く。

そんな考えに囚われると、今蹴飛ばした石ころの一粒さえ愛しいもののように思われた。


「・・・って、ポエマーか私は」


自嘲を風に載せて飛ばし、私はひとり歩く。

身体は帰りたがっているのに、心は抗っていた。

私の居場所はここにはないのに、何かを求めるように。

自分と自分の戦いに疲れ果てた私はそのまま家へ帰ることを決めた。

駅から学校までは単純なる一本道。

その道中にゲームめいたイベントは発生しない。

ただ作業の如く足を動かし、10分ほど歩いた。


こんな時に考えるのも、何でか知らないけど縁堂のことで。

これじゃあ恋しているみたいじゃないか。

彼女とは3年間クラスが一緒で、でも話したことは本当に一度もなかった。

縁堂が誰かと話しているのを見たことがない。

彼女が笑ったところを一度も見たことがない。

記憶にあるのは、いつも何かがつまらなそうに仏頂面をしている姿だけだった。

多分それは私も同じで、それはきっと私も世界がつまらないからだと思う。

趣味もない、友達もいない、恋人もいない。

ただ学校と家を行って帰るだけの単調な人生。

平坦すぎることも良し悪しだ。

凸凹がなければ躓かなくて済むけれど、飽きてしまう。


そうか。


心の中でもつれ、絡まった疑念の糸が解ける。

縁堂が気になるのは、彼女が面白いと思ったからだ。

私とは文字通り住む世界の違う、そんな人。

明日でお別れの、二度と会わない人。

私はもしかしたら内心で強く願っていたのかもしれない。


明日なんて、来なければいいとーーー。



処女を捨てたのは高校1年生の夏休みだった。

場所は風情も何もない古ぼけたラブホテル。

相手は、名前も知らない会社員の男。

彼が私に渡してきたのは7万という大金。

私はこの時初めて店に並ぶ商品のように自分に値段が付くことを知った。

無価値な私にしては高いような、しかし私の全人生を鑑みると安いようなそんな値段。

男の槍が私を穿いた時、何の感動も感慨も感じられないことに驚いた。

言いようのない虚しさ、焼けるような痛みが私を支配する。

セックスは愛する者同士の神聖な行為だなんて世間では言われるけど、そんなものは欺瞞に過ぎない。

愛がなくても、相手の理由存在を知らなくてもセックスは成り立つのだ。


その日から私は数え切れない人数の男と寝た。

その中には様々な部類の人間がいて、人間の多様性みたいなものをセックスしながら学んだ。

手で扱いているだけで達してしまう人もいれば、お尻の穴を舐めたがる人もいる。

流石に、鞭で引っ叩いてほしいと言われた時は震えたけれど。


私は男たちが望むことなら何でもーーー避妊せずにナカに出すこと以外ーーーしてあげた。

それに見合うだけの対価を貰っていたし、私がすることで男が喜んでくれるのが嬉しかったのだと思う。

何より、気持ちよかった。

何回目かにあぁ、駄目だなこれと気がついた時にはもう手遅れ。

危険なクスリみたいに快楽が私の脳を犯す。

誰かの温もりが、私のナカを蠢く心地よさを感じるだけでもう何も考えられないほど。

だから、相手に奉仕するし行為を受け入れる。

それだけで私の存在が肯定されているみたいで。

でも、何かが決定的に満たされなくて。

その二律背反に軋んだ心がいつも悲鳴を挙げていた。

所詮男と私は金だけの繋がりで、金の切れ目が縁の切れ目という訳だ。

愛されたい、誰かに好きになって欲しい。

私だって誰かを愛してみたい。恋がしたい。

でも、愛され方を知らない私が愛し方を知っているはずもなく。

不特定多数と不埒な行いをする私にその資格もなく。

ただ男に媚を売って、身体を売ることしかできなかった。

当然そんな行為をしているって噂は学校中に知れ渡っていて、私が孤立するまでに時間はかからなかった。


「穢らわしい、エンコー女」

「都合よくやらせてくれる女」


大概がそんな風に私を評する。

まあ、否定できない。事実だし。

有象無象が何を言っても私は私なのだけれど。


ベッドの軋む音がする。

男の細い腰に腕を巻きつけ、私は男から与えられる不釣り合いな快楽を享受していた。

揺れる、揺れる。

頭の中まで響くような甘い痺れが私を溶かす。


「ハアッ・・・ハアッ・・・ウッ」


断続的な律動を続けていた男が硬直する。

イッた、か。

まだ私は満足していないのだけれど。

私の身体から抜き取られたそれは勢いを失くしていて、もう1回戦は無理だろうことは容易に察せられる。


「気持ち良かったの?」


私は何となく気になって男に尋ねた。

男は肩で息をしながら、


「ほんと、もう、最高だよ!でもさあ・・・」

「でも?」


男は言うか、言わないか迷うような素振りをして、結局私に背を向けて言った。


「君は、何でこんなことするんだ?表情も無表情のままだしさ、感じてるんだかいないんだか分かんなきゃこっちも困っちまうよ。ヤるのが嫌なら、やめた方が良いんじゃないか?」


私は答えることができなかった。

何で、何故、どうして。


「あなたは気持ち良くなれたんでしょ?なら、それで良いじゃない」


男だって、私を買ったくせに。

私の身体で散々良い思いをしたくせに。

自分のことを棚上げして人の心配をする偽善者にはうんざりだ。

金を受け取り、早々に退散する。

本来ならシャワーを浴びてから帰るのだけど、今は一刻も早く男と別れたかった。

ホテルの自動ドアを潜ると、狂ったように紅い空が顔を覗かせている。

もう、時刻はすっかり夕方だった。

今日を眠れば、明日に目覚める。

明日私は高校を卒業する。

これと言って思い出はないが、高校生という身分から脱却した私から価値が失われるかもしれないことに危機感を抱く。

JKブランドのお陰で稼げている感は正直、あった。

大学にも進学するつもりはないし、就活も結局しないまま終わったのでニート街道を驀進している自覚がある。


まあ、いいか。

3年間男と寝て貯めた金は結構な額になっているし、その金でほそぼそと暮らしていけば。

ソープで働くのも悪くないかもしれない。


そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、3月にしては冷たい風が突然吹き付けてきて、心に冷気が忍び込んできた。

同時に私ははっとして、自らを取り戻す。

奥底に秘めた感情が表出しようとしているのに必死に耐える。


苦しい、辛い、嫌。


誰か、と声にならない声で助けを求める。

でもその救いの手を誰かが差し伸べてくれた所で、それを私が信じることはできないんだろう。


だから願う。明日なんか来ないでくれと。








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