第7話 医者の思惑

 先ほど、この部屋の中で何が行われていたというのだろう?

 最初は明らかにオンナの方が男を連れ込んでいるという雰囲気で、

「魔性の女」

 というものをまさに描き出した感じだった。

 だが、しばらくして出てきた女に「魔性の女」の印象派皆無だった。tだ、男に化けて中から出たり、男を全裸のまま放置して医者を呼びに行ったりと、まったく今の雰囲気からは信じられないような図太さを持っているのも事実だった。

――この女の正体は一体?

 という思いを抱かせ、そう思ってくると。

「この女に自分は何をさせたいというのか?」

 と、自問時としていた。

 今の自分には、この女をどっちにでもするだけの力を有していた。この女が本当に魔性の女なのか、それとも他にもっと悪党がいて、この女の上前を撥ねるような展開になるのか、どっちがいいのか、考えてしまった。

 それには、まずこの女と死んだ男が、この中でどんな行動を取っていたかということだ。

 そもそも、この二人は何者なのだろう? 女は素人ではないことは分かり切っているような気がする。男は普通のサラリーマン。いや、普通のサラリーマンというには語弊があるか。不倫相手を囲っているのだから、それなりの財産と地位もあるのではないだろうか。それにしても、この女の立場は実に微妙だった。自分の方で、想像力を働かせるしかないようだ。

――この女は、風俗に勤めている女で、しかも、ソープのような本番のある風俗ではない。男を満足させてお金を貰う仕事であるが、自分が気持ちよくなれる商売ではない。しかも、貰える額も少ない。要するに本番のない中途半端な風俗と言ってもいいだろう。女はそのためにいつも特急不満である。店が跳ねると、幾人かの自分の情夫と呼ばれる一人を呼び出して、お金を貢がせ、その日のストレスを発散させる。そういう意味でさっき感じたこの男は不倫相手のように囲われているわけではなく、彼女にしてみれば、欲求不満のはけ口として自分が飼っている男の中の一人というわけであろう。散々貢がせた後、いよいよ身体の火照りが最高潮に達し、男を猛烈に求める。これが一番やりたかったことなのかも知れないが、ホテルなどでするよりも、こういう多目的トイレという場所での行為が、最高に燃え上がらせる。相手の男も最初こそ拒んでみるが、それは拒めば女の反応が過剰になり、密室での情事がまるでトランス状態となり、最高の快楽を得られることが分かっているのだろう。要するに、どっちもどっちなのだ。そんな毎日の今日はただの一日だというだけのことだったはずなのに、どこに間違いがあったのか、女が男を殺めてしまった。いや、今日が特別なことをしたというわけでなく、毎日が危ないもので、今日たまたま死に至る行為に至ったというだけで、別に怪しいわけでもない。そんな女だったが、さすがに性根は座っているのか、随所に肝っ玉が据わっている様子を見せるが、それだけにふと気を抜くと、これ以上ないというほどの恐怖に見舞われる。その感情が男にも伝わるのか、本来であれば、お互いにピッタリと息が合わないと、いつこんなことになるか分からないわけで、よく今まで何もなかったものだと思わないでもないだろう。こんな女が世の中にどれだけいるというのか、自分はほとんど知らないが、ひょっとすると、自分の知らない女すべてがこんな感じなのかも知れない。そんな恐ろしいことを考えていると、女というものの恐ろしさが垣間見えてくるようだった――

 と、勝手な想像を抱いてしまった。

 もちろん、妄想でしかないのだが、瞬時にこれだけの妄想を描けるというのも、夢を見ているからではないかという思いの表れであろうか。ある意味、妄想などというのは誰にでも抱くことができる。妄想を抱けない人間に、想像力など抱くことはできないと思っているのだから……。

 この想像力の源になる妄想力を生かして、密閉されたこのトイレの中で、何がおこわ慣れていたというのだろう? もちろん、いわゆる本番行為が行われたのは紛れもない事実であろう。そして、そこに至るまでの前戯として、女は自分のテクニックを生かし、そして男に対しては、お金のために奉仕だけして与えてもらえない快感を、この男を通して与えられたいと考えるのも無理もないことだ。もし、自分が女だとすれば、そう考えるのが当然のことであり、自然であるとさえ思えた。

 ただこの女が本当に得たい快感が、肉体によるものだけだったのかと思うと、果たしてそうではないような気がする。それだけであれば、結局またストレスを残してしまい、そのまま、

「負のスパイラル」

 を描くだけで終わってしまうことになるだろう。

 少なくとも、今現在は男が下着姿になっているということは、どういうことを示しているのだろう? 女が男の異変を察知して、医者を呼びに行くために男の服を剥いだということだろうか。それも少しおかしい。

 いきなり何の反応もせずに動かなくなったのであれば、それも分からなくもないが、少しでも動いている相手から服を剥ぐというのは、非常に厄介な作業だし、時間もかかることだろう。医者を呼ぶにしても一刻を争う、そこに電話もできない状況があったのだとすれば、余計に手間がかかることは避けようと思うに違いない。

――二人とも裸だったのだと考えられないだろうか?

 そう考える方が幾分かスッキリする。

 それでは二人は全裸になるようなプレイに勤しんでいたということになるのだが、それはあまりにも想像に値しないほどの妄想である。考えたくもない。いわゆる

「おぞましい」

 と言われる部分の妄想であった。

 しかし、そう考えなければ辻褄が合わない気がした。

 それに、この二人の今回の手際の良さ、これは何だというのだ。女は狼狽ぶりのわりには、とこrどころ妙に冷静で、気持ち悪いくらいだ。

「初めての行動にはとても思えない」

 と感じた。

 医者の方も、いきなり連れてこられてトイレで倒れている男を見せられたわりには落ち着いている。

――この男、本当に医者なのか?

 とも思えるほど、怪しげな雰囲気を醸し出している。

 自分から見て、この医者と呼ばれる男の方が、よほど、ここで死んでいる男に比べると、この女の性癖を満たしてやれるような、変態に思えてくるくらいだった。

 医者というよりも変質者、いや、

「医者という名の変質者」

 なのかも知れない。

 ある意味、医者というものほど変質的な職業はないのではないかと自分は思っている。

 小説家が勝手に作り出すのがイリュージョンなら、医者というものは、医学的、科学的に女体や淫靡な世界を分析し、リアルな妄想を作り出すことができる数少ない職種ではないだろうか。

 この医者も、ひょっとすると、この女の趣味の一環として付き合いがある人間であり、決して表に出てくるべきではないと思えた。

 確かに、表も医者なのかも知れないが。善人のような顔をして病人を直す医者であるにも関わらず、裏では淫靡や猟奇を主食にした、決して表に出せない主悪の根源だったりするのかも知れない。それこそ、

「ジキル博士とハイド氏」

 のようではないか。

 一人の人間の中に、二つの人格、しかも正反対の人格が存在するといういかにもオカルトっぽい話であるが、実際には誰もが持っている感情であり、理性というものがそれを抑えているだけだというもので、何も今に始まったことでもなく、改まって問題にすることでもないという異常性格者は、この女の中では、

「普通の人間」

 としての意識しかないのかも知れない。

 それこそ、

「どっちもどっちだ」

 と言えるのではないだろうか。

 ここで死んでいる男がこの二人にどこまで絡んでいたのかは分からないが、少なくともこの女と医者は、一心同体であり、一蓮托生の運命にあることに間違いはないだろう。

 こんな悪魔のような男女、そして犠牲になったこの男、どのような運命が待っていようというのか、

 ただ少なくとも一つ言えることは、この女と言えども、真からの悪党ではないということだった。ある瞬間にスイッチが入ると、稀代の大悪党に変わってしまうこの女だったが、スイッチが入らなければ、普通のか弱い女と変わりはない。だからこそ、あれだけの狼狽があったのだ。冷静さを見せつけられた後なので、この女の狼狽が却って違和感を抱かせるが、本来なら、あちらの方が普通なのだ。それを忘れさせるくらいの子の女の醜態には、この悪党を絵に描いた医者ですら、たまに分からなくなることがあるくらいで、この女は存在自体という意味で、男を惑わし、おかしな感覚に陥れ、下手をすれば、悪魔を作り出すこともありえるというそんな存在なのかも知れない。

 医者には、何か思惑があるようだった。この男は今まで、どうやらこの女の欲望を満たすうえでの道具にされていただけのような疑念を抱き始めていたようだ、

 実はこの女には彼のような取り巻きがたくさんいた。しかも、それはこの女が自分で望んだことというよりも、

「勝手に男の方で寄ってきた」

 と思っていることだろう。

 しかし、男の方では決してそんなことはないと思っている、我に返ると自分がどうしてこんな女に傾いてしまったのか疑問で仕方がないのだろうが、少なくともその時は真剣だったのは間違いない。

 この女には男を無意識に引き付ける力があるのだ。それを自分の妖術であるかのように思っているのが、この女のしたたかなところで、男にとってたまったものではないというのは実にこのことであろう。

 しかし、女も男のまるで催眠術に掛かったかのように、一緒にいる時は、

「これが自然なんだ」

 とお互いに感じていることだろう。

 そういう意味では死んだこの男も、実際には自分が死んだということをいまだに分かっていないかも知れない。三途の川の手前にある死後の世界への導き宿のようなところに行って、初めて自分が死んだということを聞かされるが、それも俄かには信じがたいものであろう。

 医者も最初はそうだった。普段の自分ならこんな女に操られることはないと思っていたことだろう。それに、

「この女は自分だけを愛している」

 ということを信じて疑わなかった。

 それは、医者だけに限らず、ここに死んでいる男も同じことを考えたに違いない。しかし、今回の事件でそれまでの定説が崩れ去った。この医者が我に返ったのだ。

 どうして我に返ったのかって? それは実に簡単な理屈だった。ちょっと考えればこの女暗いしたたかであれば分かりそうなものだが、分からなかったことがこの女の不幸でもある。

 要するに、

「この女の取り巻きの男が、他の取り巻きに会うことはタブーだったはずだ」

 ということである。

 いくら死体になってしまったとはいえ、ここに死んでいる男は自分が今までに、

「いない」

 と信じていた、自分とは別人の取り巻きであった。

 そう考えると、この女が医者に電話で連絡しなかった理由も分からなくもない。この女にしてみれば、自分から取り巻きを教えるかのように、電話で連絡をしてしまうと、まずいと思ったのだ。呼びに行くことで。少しでもこの男が取り巻きではないという意識を医者に与えたかったのだろう。

 だが、そんなことは不可能だったのだ。医者だっていくらこの女に参っているからと言って、バカではないのだ。それを思うと、この女にとって、この男を医者に診せたことが破滅への第一歩だったのだ。

 だからと言って、見捨てるわけにはいかない。この女の運命はここで終わっていたと言ってもいいだろう。

 いくらもがいてみてもどうすることもできない。そんな状況にオンナは自ら飛び込んだ。しかも、相手が悪かった。他の男性であればよかったとは言い難いが、少なくともこの医者はまずかった。

 この男が目覚めてしまったことで、本来持っているこの男のしたたかさや悪どさは、この女の比ではなかったに違いない。

 この医者の過去に何があったかは分からないが、医者という商売で怪しげな男ともなると、何があったとしても不思議には思えないからおかしなものだ。

 この医者にとって、すでにこの女は自分の懐に飛び込んできた獲物だった。くもの巣に自ら絡まってしまった蝶々のような感じである。

「ミイラ取りがミイラになった」

 という言葉もあるが、この言葉が一番ふさわしいに違いない。

 立場は完全に逆転したことを理解したこの男は、持ち前の残虐さと執念深さがいかにこの女を凌辱しようとは、誰が想像できるだろう。もっとも、この二人の関係を知っている人もおわず、それがこの医者を利用してきたこの女の強みだったはずなのに、立場が逆転してしまうと、もう逃れることのできなくなってしまった自分を恨めしく思うしかなかった。

 まだこれからの自分の運命を知らないこの女を、自分はある意味気の毒に思って見ることだろう。

 この男、果たして医者なのだろうか? 確かに白衣は来ているが、カバンも昔のカバンだし。聴診器も怪しげなものだ。女は頭の中がパニクっているので、医者以外には見えないのかも知れないが、第三者から見ればこれほど胡散臭い医者がどこにいるというのか、自分はその医者の顔からしばらく目が離せなくなっていた。

 この男は何よりも一度も驚いたりしていない。そこがそもそもおかしい。女とすれば、この落ち着きが今は一番頼もしく見えて、医者であることを確信させるのだろうが、傍から見ていると、これほど怪しいものはない。まるで確信犯のようではないか。

 この男が殺したのではないことは現場を最初から見ていた自分には分かっている。するとこの落ち着きはなんだ? 自分に関係のないことなので、医者としての仕事をするだけで、後は他人事だということなのか・ それにしては、自分を頼ってきた女にかかわりのある男であり、自分もこの女と似たような関係にあることは分かり切っているので、一歩間違えば、自分がこの男になっていたという考えも浮かんできそうである。それでもなおさら落ち着いているというのは、自分であれば、こんな下手なマネはしないという自信から来ているものであろうか。それにしても、この女、他に男がいなかったとは絶対に言えないとは思っていたが。まさかここまで露骨だったというのは、この医者にしても意外だったはず。それを思うと、その心中察するものがあってしかるべきではないだろうか。

「ところで、奥さん。この男はどうします?」

 医者は確かに奥さんと言った。

 やはりこの女はどこぞの主婦なのだろう。ただし、普通の主婦ではない。富豪の主婦であるような気がする。少なくともそのあたりにいる普通の主婦とは違う。人種が違うと言ってもいいのではないだろうか。

「どうしますかと言われても……」

 と、奥さんは戸惑っていた。

――だから、あなたを呼んだのよ。そのあたりは察してよ――

 と言いたげだった。

 この女、猟奇プレイの時は自分がさぞや女王様のようになり、男どもを足蹴にしてきたのだろうが、プレイを一歩離れれば、完全に腑抜け同然だった。甘えん坊のお嬢様、いわゆる令嬢と言ってもいいだろう。もっとも、彼女に群がる男どもは、そんな彼女も好きなのだろう。ギャップに萌えるというのは、今も昔も同じことだ。

「さあ、困りましたね。私としては、この男をこのままにしてはおけないですから。警察に通報するのは当然でしょう」

 という返事が返ってきた。

 もちろん、女もそれくらいのことは考えていただろう。しかし、一縷の望みをこの医者に掛けたのだが、脆くも秒殺されてしまった。

 自分は、この女の様子を見ているうちに、急に気の毒になってきた。確かにトイレの中でいかがわしいプレイをし、何があったのかは分からないが、きっとプレイが過激すぎて、不可抗力でこの男を殺してしまったのだろう。それでパニックになって彼に相談した。もうそのあたりから、女はすっかり意気消沈してしまい、すっかり怯え切っていて、藁にも縋る思いに違いない。

 女は無意識からか、いまだに手を合わせて握りこぶしを作り、必死に祈っている。祈れば生き返るとでもいうのか、そんなバカなことがあるはずもない。

「警察ですか……」

 と女はまだあきらめきれないという様子ではあるが、しょうがないという気持ちにはなっていた。

 そんな隙をついてくるのは悪魔というべきか、この医者も一種の悪魔だった。

「奥さん、これはあくまでも過失致死なんだと私は思います。しかし、過失致死というのは証明が難しいんです。いくら奥さんがこれは過失で、プレイの上だと言っても、殺意について徹底的に聞かれます。殺意が少しでもあったとすれば、過失を証明するのは難しくなります。このあたりの状況説明については、私は医者として今までに何度も経験がありますので、いくらでも言い逃れを考えて差し上げますが、それを奥さんが飲んでくれるかどうかですね」

 と、この医者なのか、医者もどきなのか分からない男が呟いた。

 女とすれば、罪を逃れたいという一心、そして普段のこの男が自分にひれ伏す姿を見ているので、よもや自分に不利なことはしないだろうという思い込み。この二つが、女の目を狂わせた。

「お願いします。私、捕まりたくないんです。取り調べで耐えていく自信はないです、きっと強く言われるとやってもいないのに、やったというかも知れませんわ」

 と言って、男にすがった。

「分かりました。奥さんは私のいう通りにしてくださいね。さて、まずは私は一度帰ります。幸いにも私のところは警察の検視を請け負っているので、私のところに検視が来るはずです。もちろん、私と奥さんの関係がバレてしまうと、すべてが水の泡です。だから、奥さんも私の名前を出さないでください。警察に今日の状況を訊かれると、こう答えてください。この男はしばらくの間生きていました。自分が医者を呼びに行っている間に死んでしまったようなんですが、死んでいると分かったので、警察に電話したんですとね。その時に私の名前を初めて明かしてください。それなら、怪しまれることはありません。いいですね」

 と、そう言って医者は帰っていった。女は警察を呼んで、いよいよ事情聴取ということになったのだが、あの医者が言ったように、彼女の容疑は張れてきた。過失致死というのが証明されたようだ。

 ただし、まったくの無罪と言うわけにはいかなかった。いくら最初に医者に連絡をしたとはいえ、警察への連絡が遅れたのは報告義務違反になるということだ。しかも医者への通報も実際には遅れたとのことだった。いわゆる救護義務違反も重なるという可能性だった。

 それでも殺人罪に問われるよりもよほどよかった。この状況においては、あの医者の言う通り、最良の状態になったと言えるだろう。

 それでもさすがに家族にもバレてしまった。離婚もされてしまって、この女は路頭に迷ってしまった。そんな時に付け込んできたのが、医者を名乗った男だった。

 この男、やはり本当の医者ではない。あの時、診たと言って、その時は虫の息状態だった。放っておけば死ぬことも分かっていた。このニセ医者はこの時、目の前の男を見殺しにしただけではなく、この女をこの時とばかりに自分のものにしたいと企んだのだ。

 そもそも、医者だと名乗ったのは、この女に取り入るためだった。この女の妖艶さに完全に参ってしまい、最初は何をされても、従うだけの、まるで、

「この女のイヌ」

 だったのだ。

 だが、そのうちに、

「いずれは他の男からこの女を奪い取ってやる」

 という妄想に駆られていた。

 女が思っているほど自分のまわりにいる男たちは、バカではなかった。自分が女王様として囃し立てられる状態に酔ってしまい、盲目になっていたのだ。

 その機会が自分が何かを計画する前に訪れた。この女は医者だと完全に信じている自分を頼ってきた。

「一番頼ってはいけない相手だったのにな」

 と、彼女のことを一瞬気の毒に思いながらも、笑いが止まらないこの男はこういう好機を逃すことのないタイプだった。

 こういう時に限って頭の回転が早くなり、悪知恵が働くのだ。

 まず自分が、その場にいると、医者でないことがバレてしまうので、その場から逃れる理屈を考える。自分の病院が警察の検視に使われるなどというウソを言った。基本は大学病院に頼むもので、民間の、しか個人経営の小さな病院などに頼むわけはない。そんなのは、田舎の村で医者が一人しかいないなどというそんな場所だけの話である。何しろこの女はこういう常識にはとんと疎いので計画を立てやすい。

 帰ってしまってから、医者(ニセ医者だが、実際には存在する病院の名前をかたっているので、警察に疑われることはない)に連絡したが、連絡が取れずに、警察に連絡をしたというニセ医者の言ったとおりに証言した。

 男が死んでからだいぶ経っているので、本当に死亡した時間というのが若干違っていたとしても、疑われるものではない。しかも、被害者がある程度まで生きていて、それをいつまで確認できたのかということがハッキリしない以上、そこにいたのは彼女しかいないので、当然加害者は彼女だということになる。それに、彼女にこの男を起こす理由などなく、しかも場所が多目的トイレ、死ぬほど恥ずかしかったが、羞恥プレイの行き過ぎが招いた事故だと説明すれば、それで実際の辻褄は合うのだった。

 彼女に殺害の動機があれば別だが、動機もないことから、殺人という立件は不可能だ。過失致死に、前述の救護義務違反に、報告遅延など、があったが、特に後ろの二つは実に軽いものだった。一応検察は過失致死での起訴に踏み切り、裁判となったが、さすがに過失致死では執行猶予が付くもので、すぐに懲役というわけではなかった。それがニセ医者の考えたストーリーであり、計画通りであった。女はすべてを失い、ニセ医者の思った通り、この男の言いなりだった。ニセ医者だということが後になって分かっても、本当の殺害については闇の中だ、あくまでも彼女は自分が殺したと思っている。

「いかなる理由」

 があるとはいえ、人を殺してしまった罪は消えない。

 それが、この女の、そしてこの事件の教訓である……。

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