Day25 報酬
「旅人様! ご無事ですか?!」
部屋中をびっしりと覆った蔓の壁の一部がぶつぶつと破れ、その向こうからユメの声が響いた。
ミヤマも顔を出す。
ミヤマの包丁で絡み合う蔓を地道に切り裂いて進んできたようだった。
「面倒なことをしますね」
イガタは指をぱちりと鳴らした。
ぽっ、と軽い音とともに蔓植物の群れは青白い炎を包まれる。忽ちのうちに燃え尽き、灰になってぼろぼろと崩れていく。
「あっイガタさん! 戻ってこられたんですね!」
タヌキのカイエダはユメの足元で尻尾をぶんぶんと振って飛び跳ねた。
「ミントの匂い如きで変身が解けるとは……修練が足りていませんよ、カイエダ君」
イガタは呆れたような視線でカイエダをチラリと見てから、すぐに旅人を振り返った。
「旅人様、その女を捕まえておいてください」
旅人ははっとして辺りを見渡す。仮面の女がよろめきながらベランダの方へ逃げようとしていた。
「待て!」
旅人は起き上がり、女にタックルした。二人でもつれあうように床に転がる。女はもがくが、旅人も必死で掴みかかる。
「そのまま離さないでくださいよ」
イガタは大股で歩み寄り、女の仮面を掴んで勢いよく引き剥がした。
豚のように突き出した鼻、ざらざらとした灰褐色の肌、口の端から上に向かって突き出した巨大な牙……異形の顔がそこにはあった。瞳はもはや灰色ではなく、毒々しいまでの真紅だ。
「……貴様は
イガタは獏と呼ばれたあやかしの胸元を足で思い切り踏みつけた。
「ぐげっ!」
獏は濁った声で悲鳴を上げる。
そのままイガタの視線は床のある一点へと移った。先程までビニールプールの幻影が現れていた位置だ。そこには粉々に割れた何かの破片が散らばっている。
旅人には見覚えがあった。
「ベベさんにもらった壺……」
「ほほう……やはり、旅人様を惑わせた張本人は……」
イガタが全てを言い終わる前に、ガシャア……! と鋭い音がしてベランダに面する窓ガラスが砕け散った。黒い影が疾風のように飛び込んできて、イガタに襲いかかった。
クアアアアアア!
怪鳥の絶叫のような声が響き渡る。
発したのはイガタだった。
イガタの体がぶわりと膨張する。黄金色の毛むくじゃらの獣……一匹の狐が姿を現した。
「正体を現したのう、妖狐……」
旅人とイガタの間にゆらりと立ち上がったのはベベだった。老人の頭部から何かがパサパサと抜け落ちた。
それは、ベベのトレードマークともいうべき白髪と白髭であった。
老爺は赤銅色の禿頭を露わにし、人の良さそうな顔はみるみるうちに鬼のような険しい形相に変わっていく。
「それはこちらの台詞だ、テツゲン和尚! この破壊僧めが……!」
狐はイガタの声で吠えた。
「宿泊客を装ってホテルに入り込んだ貴様の正体に気がつかなかったのが我が不覚……。獏を操って私を陥れるためにこのような事をしたのか」
「破壊僧とは失敬な。わしは貴様らのような怪しき存在をこの世界から滅するために生きておる。獏の妖力でこのホテルごと貴様らを異界の底へ落としてやるのよ」
「ベベさん……」
旅人はショックで呆然としながら老人の名を呼んだ。
「騙していたのですか……魔法の壺の話も嘘だったのですか?」
「おうよ……わしは壺職人などではない。妖怪退治を生業とする僧侶じゃ。そこにおる妖狐には百五十年前から苦々しい目に遭わせられておる」
テツゲンは旅人ににやりと笑いかけた。
「妖狐とその仲間たちを葬り去るためにお前さんと獏を利用させてもらった。そもそも、お前さんは子供が生み出した想像上の友達……夢の中でしか生きられない存在じゃ。そんな[空想の存在]が獏の大好物じゃからな。妖狐どもを亡き者とするために、獏の妖力でホテルトコヨを異次元に送り込むというのがわしの計画……その報酬としてお前さんのいのちを獏に与える約束をしていたのじゃ」
旅人は一体何を言われているか分からなかった。
空想の友達? 夢の中でしか生きられない? 何のことだ? 分からない……分からない…………分かりたくない。
「さあ獏! 起き上がれ! 旅人を食べてしまえい! 貴様は食べた夢のエネルギーを妖力に変えるのだからな! 旅人を食べ、このホテルを異次元の遥か彼方……地獄の底へ叩き落とせ!」
人身獣面の獏はテツゲンの言葉に応えるように、ゴゴッと鼻を鳴らした。突き出した鼻を頭上に向ける。その鼻の指し示す先に光る球体が浮かび上がった。
旅人のいのちだった。
今はもうはち切れんばかりに満タンになっている。
その球体を見ているうちに旅人の意識は徐々にぼんやりしていった。
気がつけば立ち上がり、自らのいのちに向かってふらふらと歩いていた。
いのちの方も旅人に近づくようにゆっくりと降下してくる。
「旅人様! それに近づいてはいけない!」
狐姿はイガタは旅人に駆け寄ろうとするが、テツゲンがすかさず壁を蹴り、その反動で跳ね飛んでイガタの脇腹に体当たりする。
イガタは、ぎゃうん! と叫んで床に転がった。
「そうか……私は……分かったぞ……思い出した、全てを……」
熱に浮かされたようにぶつぶつと呟き続ける旅人の体は、いのちの光の中に吸い込まれていく。
旅人は全身を包み込む暖かさを感じた。
心地よい。だんだんと眠くなってくる。体はとろりとろりと蜜のように溶けていく。
「旅人様……!」
イガタが叫ぶ声ももう届いてはいない。
獏はぱっくりと口を開けた。
旅人が溶け込んだいのちを一気に吸い込もうとしているのだ。
「そうはさせない!」
動いたのはカイエダとミヤマだった。獏の体を左右から押さえつける。カイエダはいつの間にか人間の姿に戻っていた。
「カイエダさん! ミヤマさん! 押さえておいてください!」
すかさずユメが横から回り込む。
「これでも食べていなさい!」
獏の口の中に何かの塊を腕ごと突っ込んだ。ミント50倍キャンディの詰まった袋だった。
獏の体が反りかえる。
「う……ぐ……ぐぅ……ぐげぇぇぇええええ!」
獏は目を剥き、身悶え、呻き出した。
ミヤマが獏の上に跨る。獏の真紅の目がカッと見開かれた。
ミヤマはその目を真っ直ぐに見返しながらも、表情ひとつ変えない。
一呼吸置くと、獏の額の真ん中を包丁で突き刺した。
ぎゃっ! と一声上がり、獏の体が痙攣する。
それきり動かなくなった。
「やった……!」
カイエダが叫んだ。ミントの香りのせいか、早くも再びタヌキの姿に戻ってしまっていた。
「旅人様は?!」
ユメは振り返る。
宙に浮かんだ、白く光る球体……。
しかし、その中にはもう旅人の姿は無かった。
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