Day24 ビニールプール

 ぱたぱたぱた……ぱたぱた……ぱた……。

 ホテルの床に敷かれた紺色の絨毯を何かがひっきりなしに叩いている。

 音の正体は明らかだった。

 奇怪な蔓植物の群れが、階段を伝わってとうとう一階へと近づいてきているのだ。

「あの化け物は植物のようだから根本に当たる部分があるはずです。私が探してきます」

 旅人はそう言って階段に向かって足を踏み出した。

「危険ですよ! そんなことをお客様にさせるわけには参りません」

 カイエダは旅人の足に体をすりつけながら、なんとか歩みを押し留めようとする。

「でも、私が行かなくては……。今の私に対して化け物達は無力なようですし。それにこの騒ぎはもしかしたら私が原因かもしれないのですから」

 旅人の決意は変わらない。この状況をなんとかしたいという思いはもちろんあるが、何よりも例の仮面の女性を見つけたかった。きっとまだこのホテル内にいるはすだ。

 仮面の女性は夢に出てきた少女と同一人物なのだろうか? それが知りたかった。

「わかりました……皆で参りましょう」

 ユメが答える。

「ばらばらにいるより固まっていた方がよいでしょう。それに今は私たちも旅人様の近くにいる方が安全のようですから」

 ユメの後ろではミヤマがぶんぶんと出刃包丁を空振りしている。旅人の身に何かあった時には自慢の包丁で蔓の化け物を切り刻んで助ける、と言っているようだ。

「ありがとうございます。では……行きましょう」

 旅人はホテルトコヨの従業員達の心遣いに感謝を込めて頷いた。


「この部屋……のようですね」

 壁も床も覆い尽くす勢いで伸び続ける蔓植物を躱しながら、一行がようやく辿り着いたのは、階段を二階に上がってすぐ手前、二〇一号室だった。全ての蔓達は明らかにこの部屋に繋がっている。

 開け放たれた扉の中は、数万本のコード類が絡み合ってでもいるかのように蔓の化け物で溢れかえっていた。さながら苔色の壁のようである。

「……私が泊まっている部屋です」

 旅人が言った。やはり化け物の狙いは自分なのか。

「入ってきますから……待っていてください」

 旅人は後ろを振り返る。

 カイエダもユメもミヤマもポッタラ氏も心配そうに旅人を見つめている。トラコだけは、ホテルトコヨのロゴの入った土産用バッグに詰め込まれてミヤマに抱えられているので、その表情は伺い知れなかったが……。

「くれぐれも気をつけてくださいね」

 ユメが声をかけ、旅人はこくりと無言で頷いた。


 旅人は二〇二号室に足を踏み入れた。

 思った通り、蔓達は旅人の歩みに合わせて移動し、旅人の行手に道を作る。しかし、同時に、背後はすぐに別の蔓の群れで覆われてしまう。どうやら旅人は蔓の化物に四方を完全に囲まれてしまったようだ。

 退路は断たれた。

 カイエダ達と分断されて一人になってしまった心細さが旅人を襲う。

 けれど今はとにかく前に進むしかない。


 ぱしゃぱしゃ……ぱしゃ……。


 水音がする。

 なぜか不意に胸が掻きむしられるような郷愁を感じた。

 夏のある日、あの少女と水遊びをしていたときの記憶が唐突に甦る。

 庭に置いたビニールプール。彼女は金魚の柄の水着を着ていた。

 水面に浮かべられた玩具の船。

「いいかい? 君はこれに乗って世界中を旅する。広い海が君を待ってるんだ!」

 少女は熱のこもった口調で旅人に語りかける。

――何なのだろう、この記憶は……。彼女は誰なんだ? もっと……もっと思い出したい! 彼女のことを!

 旅人がそう強く願った時、まるでカーテンが開かれるように、目の前から蔓の壁がふっと消えた。

 視線の先には古びたビニールプールがあった。誰かが中に入っている。濡れそぼった金魚模様の浴衣の袖がビニールプールの端から垂れ下がっていた。中の水は真っ赤に濁っている。


 ぱしゃり……。


 無音の部屋に水音だけが響く。水中から白い腕がにょっきりと突き出したのだった。水面には長い黒髪が海藻のようにゆらゆらと漂っている。

「待っていた……よ……」

 ごぼり、と泡が浮き上がる音とともに、少女の掠れた声が旅人の耳に届く。

 黒い髪の隙間から、二つの灰色の瞳が旅人を見上げていた。

――そうだ、彼女は崖から落ちたんだ。

 旅人は先程の夢の中での出来事を思い出す。

――だから怪我をして、ビニールプールの水が血で染まってしまっているんだ。早く助けてあげなくては。

 旅人は少女の腕に手を伸ばした。

――早く助けなければ……。早く、早く……。

 

「いけませんねぇ、お客様。貴方はそのような低俗なあやかしの幻術に取り込まれるべきお人ではありません。僭越ながら私がお客様の目を覚まして差し上げましょう」


 旅人の指先が少女の掌に触れようとする瞬間、聞き慣れた低い声が不意に耳元で囁いた。


「おい貴様……そうだよ、そこのお前だ。我がホテルのお客様に許しがたい狼藉の数々だ……。貴様……覚悟はできておるだろうなぁ?」


 喋りかける相手を変え、声は背筋が震え上がるような凄みを孕んだ。


 ガシャ……ン!


 何かが砕け散る音。

 ビニールプールも、赤い水も、白い腕も、漂う黒髪も、そして、灰色の瞳も……全ての幻影が一瞬で掻き消える。

「お加減はいかがですか、旅人様?」

 後には狐顔の男の笑みだけが残った。

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