Day1 傘

「お客様、雨が降り出してきたようです。どうぞ傘をお持ちください」

 遅い朝食を終えた後、ホテルの周りを散策しようと玄関先に立ったところで、フロントデスクから顔を出したホテルマンの青年に呼び止められた。

 旅人はドアを開けて空を見上げる。

 確かに、透き通ったガラス玉のような雨粒が灰色の曇天からパラパラと音をたてて落ちてきている。

「ありがとう」

 旅人はビニール傘を受け取った。

 外に出て、ぱあっと広げる。

 顔を上げると、ビニール越しに雨空がキラキラとオーロラのように輝いて見えた。

「まるでお伽話の世界に入り込んだようだな」

 旅人は嬉しくなった。夢中になって上を見上げながら森の小道を歩いていく。


「カイエダ君、お客様に傘はお渡ししなかったのかね?」

 フロントに置かれたままのビニール傘を見て、支配人のイガタはホテルマンに尋ねた。

「えっ渡したはずですけど」

「ふむ……」

 イガタはビニール傘を見つめながらしばし考える。

「君はどうやらニジイロカサモドキを間違って渡してしまったようだね」

「何ですか、それ?」

「雨の日に空から降りてくるクラゲの一種で、ビニール傘に擬態するんだ」

「じゃあ、僕は傘じゃなくてクラゲをお渡ししてしまったと……す、すみません。早く本当の傘を届けないと」

「ふむ……しかし、傘と違ってクラゲは骨がない。すぐに気がつくとは思うね。だが、たまにクラゲを通して見た景色があまりに美しいのに夢中になりすぎて、うっかり捕食されてしまうこともある。まぁあくまで稀なケースだか……」

 そんな二人の会話を背中に聞きながら、新米ホテルスタッフのユメは窓の外を眺めていた。

 雨の降り頻る中、大きなクラゲがふわふわと空に向かって上昇していくのが見えた。

 虹色に煌めくクラゲのカサの中に、手足を折りたたんだ形の黒い人影が透けている。

「お客さん……食べられちゃったみたいね」

 ユメはぽつりと呟いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る