第2話

 私が再び竜宮を訪れることになったのは、それから随分後のことです。人の暦の感覚に直すなら、十年ほど後でしょうか。もちろん、それは人の世では百年以上の時なのですけれど。


 その時の私の身の上は、最初に竜宮を訪れた時とは随分違ったものでした。

 何しろ、捲簾大将という高官であった父は、天帝陛下のお怒りを買って失職しました。罰として鞭打ち八百回。その上、下界へと落とされ、今この時も、父は七日に一度は天から剣を投げられ、身体を貫かれています。そのうちに父は身も心も零落し、人を食らって妖怪となったと聞きました。


 父がそのようになったわけですから、当然その家族も無事ではいられません。普通であれば私も、下界へと落とされていたことでしょう。ですが私はご縁のあった東海竜王様からの御慈悲で、竜宮へと引き取られたのでした。


 竜王様に御慈悲の感謝を申し上げた後、私が一番に向かったのはもちろん乙姫様のいらっしゃる霊亀宮です。


 桃色の牡丹が咲き、ほんのり輝く珊瑚が立つ庭を駆け抜けて、私は乙姫様の御前へと参りました。

 乙姫様は、周囲の想像通り素晴らしい佳人と成長しておりましたが、それだけでなく、とてもお心優しくお育ちになっており、失意の私の手を包み込み、温かく慰めて下さいました。

 私は乙姫様の白い手を握りかえし、二人で涙を流しました。

 

 それから私は、竜宮で乙姫様の侍女として暮らすことになったのです。


 竜宮での日々は、私の心を慰めるようにただ穏やかに過ぎていきました。

 例の石猿の事件から随分経っていて、竜宮は平穏を取り戻していて皆親切でしたし、身分は侍女と言っても、乙姫様は変わらず友のように接して下さいます。父のことを思えば、自分だけこのように心穏やかに暮らしていて、申し訳がないほどでした。

 

 それからしばらく経って、竜宮には乙姫様の縁談の話が噂されるようになりました。どうやらお相手は、ご親戚でもある西海竜王様の第三王子玉龍様であるらしいとのことです。まだ正式なものではないとはいえ、この素晴らしい良縁に竜宮は色めき立ちました。

 そんなある日、お気に入りの珊瑚の髪飾りをつけた乙姫様が、突然言い出しました。


「地上へ行ってみない?」


 それは幼いあの日、姉宮様のいる豊海宮へと誘った時の言い方によく似ていました。


「どうしてそんなところへ。乙姫様はご存じないかもしれませんが、下界とはそれはそれは乱れた恐ろしいところなのですよ。この大切な時期に」


「今だからよ」


 その時、私の手を握りしめる乙姫様の眼差しは、ともに豊海宮の中庭で姉宮様をのぞき見た、幼いあの日を思い出させるものでした。

 大変恥ずかしいことですが、私はその時初めて、乙姫様の今回の縁談に対するお心に気づいたのでした。

 すると不思議なもので、それに気がついた途端、私には乙姫様がどうして地上に行きたいとお望みなのか、閃くように分かってしまったのです。


「乙姫様、西海竜王様のご子息は名門中の名門でございますよ? 地上に行ったからといって、これ以上の良縁があろうはずがございません」


「名門というのなら、姉上様と夫婦になった方は天神の御子だったわ」


「乙姫様・・・」


「姉上様は今でも、その御方のことが忘れられないのよ。あなたは知っていて? 西海竜王様のご子息との縁談は、本当は、最初姉上様に来ていたの。けれど、姉上様はそれを断った。それほどまでに、今でも昔の良人を忘れられないのよ。ならば地上の殿方とは、一体どれほど素敵なのかと気になるではないの」


「けれども乙姫様、姉宮様は自分から地上に赴いてその方と出会ったのではありません。確か、塩土老翁(しおつちのおじ)様が縁あって竜宮にお連れしたと聞いています。塩土老翁様は大変な長寿で知恵者の御方ですから、相手の人となりを見て、これぞと思ったのでしょう。ですから乙姫様が自ら地上に赴かなくても、そのように誰かに命じれば良いではないですか」


「じゃあ、あなたが行ってくれるの?」


「そ、それは・・・。私も天界の生まれですので、地上のことはよく知りませんし、恐ろしいばかりで」


「ほらね、だから一緒に行きましょうよ。私は何事も自分の目で見なければ納得がいかないし、地上もあなたと二人なら、恐くないわ」


 私は途方に暮れました。乙姫様の願いは何でも叶えて差し上げたいとはいえ、地上に、私からすれば下界に行くというのはとても勇気のいることです。まして、そんなところに乙姫様をお連れするわけにはいきません。

 ですが、私は乙姫様のお心も、よく分かっていたのです。


 私が去った後も、乙姫様は、少女の頃の愛の乾きを潤せてはいなかったのでありましょう。

 

 そして荒れた家庭の中、ふと姉宮様の喪失の悲しみを見れば、哀れだと思う一方で、あの方が手にしていたものの尊さが良く分かります。乙姫様は、それこそが自分の乾きを潤してくれると思ったのかもしれません。それは家庭の再生と言うよりも、ご自分の心の再生というものです。それほどまでに、乙姫様はご家族との間に距離が出来ていたと言うことなのでしょう。

 

 しかしそれにしても、竜宮の公主が、竜王様に無断で外出するなどできようはずもありません。これは道理の問題だけで無く、現実的な問題でした。

 私は悩んだ挙げ句、この事を竜王様に報告しました。

 案の定、竜王様は驚き、お怒りになりました。


「そんなことを言っておったのか。決して許さぬぞ。地上になど行かせるものか。ええい、王子との婚礼まで霊亀宮に閉じ込めてやるわ!」


「どうかお怒りをお鎮め下さい。確かに乙姫様が地上に行くのはとんでもないことですが、ここは一度お好きにさせてはいかがかと存じます」


「何を言うか」


「恐れながら、乙姫様のご気性からして、今何を言っても聞く耳は持たないでしょう。むしろ、思い描いた地上の殿方への気持ちが募るばかりです。それでは縁談に支障が出ましょう。ですが、乙姫様も、一度地上というところを見れば目が覚めるというもの。私は天界の育ちですのでよくはしりませんが、大変不浄のところと聞いております。それに加えて、豊玉姫様の良人のようなお血筋正しく立派な方は、そうそういらっしゃらないのも、明らかではありませんか。結局は幻滅なさって、竜宮にお帰りになるでしょう。そして後は心残り無く、西海竜王様のご子息とご結婚なされば、おするすると話は進み、全ては丸く収まるというものではないでしょうか」


 半分は本音でございます。

 竜王様は私の言葉に少し黙り、長い髭を触りながらなるほどと一言仰いました。


 それから数日後、乙姫様と私は、地上に出ることを許されたのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る