沙悟浄の娘

中村天音

第1話

 私が初めて乙姫様にお目にかかったのは、まだ童女と呼ばれるような、随分と幼い時分のことでございます。


 捲簾大将けんれんたいしょうという天界の役人であった父に無理を言い、東海の底に輝く竜宮へ、連れて行ってもらったのです。

「よいか、竜宮という場所は、時の流れに歪みがあって、天界とも下界とも時の流れ方が違うのだ。だからあそこに出入りする時は、その事をゆめゆめ忘れてはならんぞ」


 竜王の公主である乙姫様は、私と同じくらいの歳でございました。ですから、父も姫君の遊び相手にちょうど良いとも思ったのかもしれません。


 初めて見る竜宮の公主は、まるで海底に眠る至上の真珠か、竜の守る宝玉のような気品に満ちた麗しい姫君でした。そのお姿を見たり、乙姫様が少し首をかしげるだけで、誰でもはっとして動きを止めてしまうような。

 

 私の父の捲簾大将という役職は、人の世で言うなら近衛の大将で天界でもそれなりの身分であり、私もその娘として高い教育を受けたつもりではありましたし、それなりの気品は身につけたつもりではありましたが、竜宮の公主とは身分からして天と地ほどの開きがございました。

 

 それでも乙姫様は、出会ってすぐに、私を友として認めて下さったようでした。侍女を下がらせた後、竜宮の遊戯である真珠遊び、珊瑚遊びのやり方を教えて下さり、繰り返し繰り返し、二人で長い時を過ごしました。私の大切な思い出でございます。

 父の滞在は人の感覚で言えば、数日程度だったでしょうか。

 

 ある日、乙姫様が小さな声で私に言いました。


 「姉上様を見に行かない?」

 

 その言い方は、どこか禁じられたものを破る、子どもの密やかな楽しさを感じさせるものでした。

 竜宮に、もう一人の公主、つまり乙姫様の姉宮様がいらっしゃることは、私にも滞在中になんとなく伝わってきていたことです。ただ、何故か竜宮の者たちはその話題を避けるような、触れられたくないような雰囲気があったので、私もそれ以上詮索はしなかったのでした。

 

 乙姫様にしても「会いに行かないか」ではなく、「見に行かないか」と仰ったわけですから、遠目にこっそり覗きに行くという意味だったのでしょう。

 

 その日、乙姫様の霊亀宮れいききゅうから姉宮様のいる豊海宮ほうかいきゅうへの短い道のりは、まるで旅人にでもなったような、特別な冒険をしている気分になりました。

 竜宮のあちらこちらには驚くほど大きな真珠があり、それが灯りのように輝いて、海底のこの王宮を目映く照らしています。王宮のあちこちでは色とりどりの牡丹の花が咲き乱れ、海の底にありながらそこは天界の如き美々しさでした。

 

 私たちが隠れたのは、豊海宮の中庭にある、その真珠の陰でした。

「姉上様だ」

 

 二人で息を潜めて待っていますと、姉宮様が侍女もつけず、ふらりと庭に姿を現します。気まぐれに、庭に咲く白い牡丹でも見ようと思ったのかもしれません。

 私はまた、はっとして動きを止めてしまいました。乙姫様の愛らしさとは違う、たおやかな儚い絶美の姫宮様です。まるで、触れると消えてしまう月光の下の白い泡沫のような、そんなたたずまいの方でした。

 

 乙姫様はそんな姉宮さまを、気づかれないように陰からじっと見つめていました。


 「私は、絶対に姉上様のようにはならないわ」

 

 そう言って私の手を握る乙姫様のかたい横顔は、その時、ずっと大人びて見えました。

 霊亀宮へと帰ってから、教えて下さったことですが、姉宮の豊玉姫様は、一度天神の御子様と夫婦になったのですが、その御子様が呪のかかった約束を破ってしまったために、離縁することになったのです。

 

 つまり、姉宮様は夫に裏切られ、失意のうちにこの竜宮に帰ってきていたのでした。それで宮の者は誰も、その話題に触れようとしなかったのです。

 この頃、実は竜宮、小さい意味で言えば、乙姫様のご家庭は少し乱れておりました。それは先ほどの姉宮様のことも理由の一つですが、それと同じ時期にこの竜宮では大きな事件が起きていました。

 

 畏れ多くも、この東海竜王敖廣ごうこう様の治める竜宮に侵入者が押し入り、地下にあった財宝と太上老君様から贈られた如意金箍棒にょいきんこぼうという秘宝を奪われたのです。しかもその侵入者というのが、一応は仙術を治めたとはいえ、石から生まれた石猿だというのですから、竜王様の面目は丸つぶれです。

 その怒りの咆哮は四海に鳴り響き、眷属は怯え、東海は荒れ狂いました。

 実は父が竜宮を訪れたのも、天帝陛下にその事について詳細を調べるよう命じられたためでありました。


  思えばこの時、怒り酒量の増える竜王様、泣くばかりの妃様、傷心の姉宮様に囲まれて寂しくお育ちになっていた乙姫様は、自分を守り愛してくれる理想の男性像を思い描くことによって、愛の乾きを慰めていたのかもしれません。

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