その血の温度は
午前二時
ネモとアセビ
この世界は、二種類の人間がいる。温かい人間と、冷たい人間だ。精神的な話ではなく、物理的なものだ。そしてぼくに体温はない。
この二種類の人間たちは、もう何百年も争っていた。互いの主張はこうだ。
「体が冷たい/温かいなんておかしい。自分たちこそが正しいのだ」
馬鹿らしいがこれが
ぼくの兄も冷たい側の兵士だったが、『温かい』に殺された。胸を一突き、あまり苦しまずに死んだらしく、死に顔はそれほど酷くなかった。
母さんは兄さんに縋り付いて泣きながら、
「何が『温かい』よ!きっと涙は私達より冷たいに違いないわ……!」
と言っていた。それを聞いたときから、『温かい』の涙は冷たいのか、それがぼくの一番知りたいことになった。
それでもやっぱり基本的には『温かい』も『冷たい』もどうでもいいものだから、いつまでもそのことばかり話している周りの人たちにウンザリしていたぼくは、
あんなところじゃ息なんてできないから。今日もまた、緑のカーペットに思いっきり背を預けて深呼吸するのだ。
「お前、誰だ?」
うつらうつらと心地よい眠気に身を任せていたとき、不意に知らない声が聞こえ、驚いて飛び起きた。声の主は、黒髪の青年だった。
「え、と。ぼくは……ネモ」
「ネモか、俺はアセビ。起こしてすまなかったな」
どっちだ?もし『温かい』なら、最悪ぼくが殺されてしまうかもしれない。それは嫌だ。この場をどうにか切り抜ける方法を必死に考える。
すると、ぼくの様子がおかしいことに気付いたのか、アセビがぼくを安心させるようにある提案をしてきた。
「じゃあこうしよう。ここにいる間は、お互い詮索はナシだ。絶対に触らないし、ここにいる理由も聞かない。それでどうだ?」
その提案に、ぼくは一も二もなく
「よし、決まりだな!」
そう言って、アセビはきれいな撫子色の瞳を輝かせた。
それから、ぼくとアセビは互いに探り合うことは一切なく、度々そこで会ってとりとめもない話をした。ぼくらは次第に仲を深めていき、親友とまではいかなくとも、会えないと寂しいな、位に思うようになった。
アセビは、おそらく兵士で、そして誰か人を殺したことがあるようだった。直接聞いたわけではないので、確かなことはわからないが、たぶんそうなのだ。でも、僕には関係のないことだから、と特に気にはしていなかった。
彼と過ごす時間は、何にも代えがたいほど心地の良いものだったから。
そんな日々が続いたある日、ぼくはとうとう戦場に派遣されることになった。
「明日からしばらくここに来ない」
そう伝えると、アセビはすこし黙ってから
「奇遇だな、俺もだ」
とだけ言った。それからぼくもアケビもなんにも言わないで、静かに空を見上げていた。
防具をつけて、ヘルメットを被って、『
「いってきます」
泣いている母さんを置いて家を出た。死ぬつもりは、毛頭なかった。
初めての戦場は、とても騒がしくて、土煙と硝煙が充満する只中で、あの穏やかな草原が狂おしいほどに愛おしかった。上官が怒声を響かせ、同期の混乱した声と、負傷者のうめき声と悲鳴。早く終わればいいのに。
死ぬつもりなんてなかったから、とにかく巻き込まれたくなくて端へ端へと足を動かした。
「──ネモ?」
「────アセビ?」
アセビの腕には、『温かい』の印である赤いリボンが風に靡いていた。
「昨日ぶりだね」
「……そうだな」
「『
「おまえこそ。というか、なんとなくわかってたんじゃないか?」
「うーん、でもまさか、こんな小説みたいなことが本当に起こるなんて思わないじゃない?」
「……そうだな。ならもうひとつ、小説みたいなことが起こっているんだが、聞くか?」
「アセビが話したいのなら」
遠くで銃弾が飛び交って、体温なんて関係なしに人が死んでいっているのに、ここだけいやに静かで、まるであの草原にいるみたいだった。
ぼくたちは、人二人分離れて向かい合った。
アセビは深呼吸を一つすると、ネモの目を真っ直ぐ見て言った。
「お前と同じ顔の人間を、殺したことがある」
それを聞いたネモは、静かに目を閉じた。そんな気はしていた。初めて合ったときのアセビの
「そうなんだ。大丈夫、ぼくには関係ないから」
「……そうか」
アセビは変な顔をした。迷子の子供みたいな顔。
「それよりさ、ここをどうやって切り抜けるか考えないと。ぼくは死にに来たわけじゃないし」
「……そうか」
「ねえ、そっち行っていい?」
「……ああ」
何も考えずに、アセビの目の前まで近付く。手を伸ばさなくても触れられる距離まで来た。
「アセビ、僕ね、兄さんがいたんだけど」
「ああ」
「兄さんはね、戦争に行く前に、死にたくないって言ってたんだ」
「ああ」
ぼくは、胸ポケットに入れっぱなしだったナイフを引き抜きざまにアセビに振り下ろした。でも、アセビが身を
「…………ッ!」
「ごめん」
「……いや、ネモが、謝ることじゃ、ない」
アセビは額に玉のような汗を浮かばせ、顔を歪めながらも笑顔を見せた。どうして笑っているんだろう。きっと今から死ぬのに。
「ねえ、どうしてわかったの?」
「……ッはは、いいか? 誰かと話す時はな、殺気はきちんと隠しておくもんだぜ。覚えときな」
なるほど、気持ちが漏れていたのか。まあ初めてだから仕方はないだろうし、そもそも人を殺すことに慣れる気はさらさらないから、ない、から。
「なんとなく、今日死ぬんじゃないかって予感はしてたんだ。でもまだ、気持ちがついていってないからさ、もう少しだけ待ってくれないか?もう逃げないって約束するよ」
「うん」
その言葉に迷わず頷いた。アセビがぼくに嘘をつくはずがないという根拠のない確信があったから。
「兄さんは、最期どんな感じだった?」
「彼は、俺を殺すのを躊躇ったんだ。俺は死にたくなかったから、その隙をついた」
「うん──うん。兄さんは優しい人だったから」
「ああ、そうだな」
「アセビは、家族とかいるの?」
「いないよ、俺ひとりだ。だからなにも心配しなくていい」
「……そう」
「──はい、もう良いよ。心の準備は整った。残さずきっちり喰うんだぞ、この溢れんばかりの愛ってヤツを」
「愛?」
「愛だよ。俺はきっと、お前を愛していた。じゃなきゃ心臓なんて渡すものか!」
そしてぼくは、アセビの胸に刃を突き立てた。兄さんとおんなじところ。アセビは一瞬だけ目を見開くと、静かに瞼をおろした。もう二度と、あの撫子色を見ることができないのだと思うと少し寂しかった。
落ちた瞼に押し出された涙が一筋、アセビの頬を伝う。それに触れてみると、まるで沸かしたての湯のように熱かった。一番知りたかったことの答えが出てしまった。
「君、涙ですらこんなにもあったかいの? もっと早くに教えておいてくれよ、こういうのはさ……」
呟きは、どこにも届かず、弾けて消えた。
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