5
佐山の襟首を離さないまま私を見た男の顔には、全く表情がなかった。それなのに私は、男が泣くのではないかと思って激しく焦った。そして多分こうなることを知ってアパートに通っていた佐山を深く呪った。
察するべきだった。佐山はあの男を買いたくても買えない立場なのだ。男が身体を売った金で食っている私に好意を持っているはずもないし、私と男との生活がとっとと崩壊することを望んでいるに決まっている。
「佐山。」
男がぽつりと声を漏らす。
「佐山。」
私の知っている限り饒舌でもなければ感情表現が得手でもない男は、こうやって大抵自分の意思を通す。内容など存在しないような単語を、感情などろくに乗せずに口にする。その分その目がくっきりと男の痛みを滲ませて光る。
逆らえるはずがないのだ、あの男の心と体を乞うている佐山が。
佐山は黙ったまま男の手を襟首から解かせ、立ち上がった。見るからに佐山よりはるかに頑丈なあの男の手を、壊れ物を扱うように慎重に解くさまは、額の裏に染みるほど悲しい光景だった。
私と男にそれぞれ一度ずつ頭を下げた後、佐山は見捨てられた墓守のように静かに部屋を出て行った。この背中の主はもう二度とこの部屋の戸をくぐることはないと確信させるような、しんと冷えた後姿だった。
佐山が出て行った学生下宿みたいな狭いアパートで、私と男はじっと見つめ合っていた。
見つめ合っていた、というのは正確ではないかもしれない。今にもこちらに噛みついてきそうな犬から目を離さず距離を取ろうとするときみたいな、そんな目つきをお互いに投げていたのだ。男は玄関の脇に立ったまま、私も部屋の奥に立ったまま、開いた数歩の距離を詰めたらなにもかもおしまいだと知っているから動けなかった。
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