金魚の庭
美里
ビニールプールと洗濯機
あの男が私の実父であったのかどうか、もう誰にも判断することはできないはずだ。彼が眠る墓を掘り起こしてDNA鑑定でもすれば話は別かもしれないが、こんな女一人の出生にそこまでの関心を払う人などいるはずもない。だから私は、今もまだ生きている。
私がまだ幼稚園生だった頃の記憶で、今でもやけにはっきりと覚えているものがある。
母がいない二人っきりの夏の午後。私はアパートの狭い庭に出したビニールプールに肩までつかって蝉の声を聞いていた。
ひどく蒸し暑い薄曇りの日で、彼はリビングにつながる窓ガラスを開けてアルミサッシに腰を引っかけるようにして、私が溺れないようじっと監視をしていた。
私はあの男の名前を知らなかったし、父と呼ぶ気にはなれなかった。あの男もそれを知っていたのだろう、私の名前を呼ばなかったし娘扱いすることもなかった。あんた、と彼は私を呼んだ。私もそれに倣っていた。
「あんた、喉乾かないの。」
男が義務感むき出しの口調で言った。彼の声は幼い私が毛嫌いするほど低くごろついていた。彼は酒を飲まなかったし煙草も吸わなかったから、多分生まれつきの声質なのだろう。全くクリアではなく、一文字一文字が地面に落ちる感じの声。
私は彼に返事をせず、がばりと頭のてっぺんまでビニールプールに沈んで水をごくごく飲んだ。水は生ぬるく不味かったけれど、ビニールプールの青さを映して本物の海みたいにきらきらしていた。
ぐっと首を曲げて自分の足元を見ると、ひらひらした水着のスカートから突き出した生白く貧弱な両足が、きらきらの水の中に力なく沈んでいた。
男は私の行動を見てもなにも言わなかった。口数の少ない男だったのだ。
幼かった私に、彼に反抗する意思があったのだろうかと考えてみると、別にそういうわけでもなかった気はする。ただ、あの男と二人で過ごす午後が私は苦手だった。上手く私を子ども扱いできないあの男に、ぼんやりとした苛立ちを感じていたせいで。
あの日、私は真新しい水着を着ていた。紺色の地にピンクやオレンジや黄色のハイビスカスが咲き乱れる、とても派手な柄がついたワンピース型の水着だった。
同じ幼稚園に通っている子供の中で、そんな水着を着ている子はいなかった。みんなピンクの水玉や水色の無地を着ていた。
私はその水着をあの男が買ってきたことを知っていて、それがたまらなく嫌だった。水着の柄やデザイン自体はとても気に入っていたのに。
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