第5話 自然の摂理と三すくみ

 克彦が生まれたのは、平成にもなっていない昭和の時期だった。その頃は、バブルの時期で、

「二十四時間戦えますか?」

 などというキャッチフレーズがあったくらい、

「事業展開を広めれば、広めただけ儲かる」

 ということで、

「金を持っている人間が勝者になれる」

 という時代だった。

 確かにそのメカニズムは今昔に渡って揺るぎないのではあるが、今の時代では、持っているだけではダメで、いかに有効に使うかということが大切だった。

 バブルの時代は、金さえあれば、事業を拡大するのが一番の方法で、基本的にはそれだけだったといってもいい。

 支店をどんどん作って、営業範囲を広げる。あるいは、他業種に参入するなど、事業の拡大は様々だった。

 そんな時代に、克彦は生まれてきたのだ。

 しかし、克彦が小学生くらいの頃、世の中が一気に変わっていった。

「節約しなさい」

 などと、ほとんど言われたこともなかったのに、

「無駄な電機は消しなさい」

 などと言って、節約をとにかく言われたのだ。

 質素が必要な時代となり、何もかもが、ケチっぽい時代になってきた。

 バブルの時代が好きだったわけではないが、ここまで節約をしつこく言われたり、「世間で、リストラなどという言葉がはやり、

「うちのお父さんも、危ないかも?」

 などと言われて、社会は大混乱になっていた。

 ただ、今まで見たことのなかった父親の顔を、寝る前にでも見れるようになったのは、嬉しいとまではいかないが、何かほっとした気持ちになっていたのだ。

「もう、残業もする必要なくなったしな」

 と言って、夕飯を食べている。

「お母さんも、パートに出ようかしら?」

 などという会話も聞こえてくる。

 克彦の父親は、どちらかというと、軟弱なところがあった。それを克彦は嫌で嫌で仕方がなかったので、反対に、

「俺が男らしくならないとな」

 と思うようになった。

 おばあちゃんが以前に言っていたのは、

「お父さんも今は少しは男らしくなってきたけど、子供の頃、あんたくらいの小学生の頃は、軟弱だったんだよ。男の子同士で遊ぶよりも、女の子と遊ぶ方が好きだったような子だったんだけどね。でも今は男らしくなってくれて、ホッとしているよ」

 と言っていたのを思い出した。

 今の父親からは想像もできないことだ。仕事の部下を家に連れてきては、よく飲み明かしたりする豪快な父親しか見たことがなかったからだったが、仕事が忙しくなって一日に遭う時間がないなど当たり前だったこの間までは、父親を尊敬していた。

 しかし、バブルが弾けてから、定時に家に帰ってくるようになると、昔の軟弱な面が顔を出すようになった。

「せっかく、早く帰ってくるようになったのに」

 と思っているが、実際には、昔の父親に戻ってしまったという感じで、その感覚で記憶にあるのが、克彦が、まだ十歳にもなっていなかった頃のことだっただろう。

 夜更かしなどする時代ではなかったので、十歳未満というと、もう夜九時には、目がトロンとして、ほとんど意識がないくらいになっている。

 克彦の父親は、実に厳格な人間で、その強さは、いかにも昭和の、

「男尊女卑」

 を著していて、まさしく、

「亭主関白」

 を表していた。

 当時ちょうど、歌謡曲で、

「関白宣言」

 というのが流行っていたこともあり、旦那の威厳が強かった頃であろう。

 今でこそ、男女平等などという言葉が叫ばれているが、昭和の頃には、そんな感じはなかった。

 今の時代であれば、亭主関白などということをしていると、

「家庭内暴力、いわゆる、ドメスティックバイオレンス」

 というものになりはしないかと、自治体が調査に乗り出しかねないようなことである。

 確かに、昔の亭主関白というのは、行き過ぎの面もあるだろうが、逆に、ドメスティックバイオレンスを疑われるような時代というのも、実に情けないものではないだろうか。

 そもそも、男女同権などと言っても、身体の作りが違っているのだから、少々はしょうがないと思われることであっても、すべてをひっくるめて、ドメスティックバイオレンスというのはいかがなものだろうか。

 ただ、どこかからか、亭主関白な状態が家庭内暴力のようなひどいことになってきたというのも事実であり、そんな状態をどうすればいいのか、平成に変わったこともあり、さらに、バブルが弾けて、世の中が次第に変わっていったこともあってか、女性が少しずつ強くなっていったのだった。

 特に、男女雇用均等法などというのが施行されるようになってからというもの、名称にまでこだわったりと、留まるところを知らない。

 特に職業であるが、

「看護婦を看護師」

「スチュア―デスをキャビンアテンダント」

「婦警さんを、女性警察官」

 などと、いうようになったようだが、作者は、今までと同じ表記を使いたい。

 やはり昭和生まれだからだろうか?

 それが昭和になると、どんどんエスカレートしてきて、会社における上司と部下などの関係も厳しくなってきた。

 上司が今まで冗談で、あるいは、コミュニケーションの一環として言っていた世間話的なことも、

「それ、セクハラです」

 と一蹴され、そのとたんにまわりの人から、

「セクハラ上司」

 のレッテルを貼られたり、上司が部下に仕事を命ずるなどということが許されないというような会社も出てきたであろう。

 緊急性やスピードを要する仕事で、命令ができないなど、あってはならない場合でも、

「パワハラ」

 などと言われたくない上司は、お願いすることしかできなくなり、結果、失敗に終わってしまって。笑い話ではすまなくなることも少なくない状態になってきた。

「そんな世の中に誰がしたのか?」

 と言いたいところであるが、今の世の中において、コンプライアンスというものがどれほど世間で叫ばれているかということになると、

「そこに本当の強さはあるのだろうか?」

 ということになるのである。

 それこそ、

「冤罪を呼ぶのではないか?」

 あるいは、

「便乗して、犯罪を誘発するのではないか?」

 と言われてしまうのだ。

 特に、痴漢や盗撮事件などになると、今までは自分から何も言えなかった女性が声をあげると、その瞬間、男性は一瞬にして犯罪者にされてしまう。

 あるいは、その時はスルーしかかっても、電車を降りる瞬間に、怖いお兄さんが出てきて、

「お前、触っただろう?」

 と言って、一人の男を脅迫に掛かる。

 実は二人は共謀で、やってもいない気の弱そうなサラリーマンに目をつけ、

「会社にばらすぞ」

 と言って脅しをかける。

 一種の、

「美人局」

 のようなことで、男性を脅迫し、お金を脅しとる。

 昔から、痴漢として捕まると、冤罪であっても、その場で現行犯として捕まってしまうと、

「家庭の崩壊」

「仕事を失う」

 さらには、

「近所にはいられない」

 などという事態になり、一人で追い出され、離婚ともなると、慰謝料を請求されたり、子供がいれば、養育費の問題などと、それまでとはまったく違った生活が待っていることになるのだ。

 男女雇用均等によって、女性の立場に市民権を持つというのは結構なことなのだろうが、それに乗じて、犯罪者が暗躍したり、必要以上の感情が渦巻くことで、肩身の狭い思いをしなければいけない人間が生まれ、社会のうまく回っていた仕組みが、崩壊してしまうような事態に陥るのが目に見えてくるようだった。

 それを思うと、男性が次第に弱くなっていくのが目を瞑れば見えてくるようだ。

 この頃の時代は、喫煙者に対しても、似たような状況があった。

 ただ、この場合は、実際には、それくらい厳しい方がいいのだろうが、男女雇用均等の影響とは少し形は違っていたが、厳しくなってくるというのは、似たところがあった。

 それでも、元々のきっかけとしては、

「副流煙」

 という言葉がキーワードであった。

「副流煙というのは、タバコによって、肺がんなどになる確率としては、タバコを吸っている本人よりも、近くにいて、その煙を吸い込んだ人の方が高い」

 という研究結果が出たことで、タバコの煙を普段から嫌だと思いながらも、喫煙者が喫煙の権利を主張することで、何もいえなくなった嫌煙者が、泣き寝入りをしているという状態だった。

 だが、

「副流煙」

 が叫ばれるようになると、立場は百八十度変わってしまった。

「タバコを吸うということは、世の中の罪悪」

 とまで言われるようになり、一気に愛煙家の立場はなくなってしまった。

 相手が、病気ということで、その発症性の問題を口にされると、愛煙家としては何も言えなくなる。

 社会問題となり、それが次第にいろいろな場所で、タバコが吸える場所が制限されていく。

 交通機関の中でも電車などでは、たとえば、四両編成の電車があったとすれば、一番最初は、もちろん、全面喫煙所であった。座席に灰皿が設置されていて、椅子に座って、タバコをぷかぷかできたのだ。

 目の前の客が嫌な顔をしたとしても、嫌がらせのごとく煙を吐いても何も言われないという、横暴にも近い状態だった。

 しかし、嫌煙権というものが出てきてからは、

「基本的には禁煙。そして、最後の一両だけ、喫煙者量ということで、分煙を図る。さらには、ほぼ同時期に、駅のホームでの喫煙は禁止」

 ということになったのだった。

 喫煙ができなくなっても、最初の頃はひどいものだった。

「ホームで吸ってはいけない」

 と言っているのに、堂々と吸っているやつもいて、

「まわりの目が気にならないのか?」

 と思われていただろうが、そういう輩は本当に気にならないのだろう。

 そして、一番そんなルールを守らない人間に怒りを覚えていたのは、他の愛煙家ではなかっただろうか。

 彼らは、吸える範囲が限定されて行ってはいるが、それでも、ルールを守ろうとしているのだ。

 それなのに、一部の不心得者たちのせいで、

「俺たち、ルールを守っている人間でさえ、モラルのない連中の態度のせいで、こっちまでモラルがないと思われる」

 と感じていた。

 だから、、モラルを守らない人間が、ルールを守って細々と喫煙している人たちまでも、裏切っていることになるのだ。

 これは、痴漢の冤罪などとどこか似ているのではないだろうか?

 真面目にやっている人がいる中、自分の都合だけで、世間を騒がせたり、犯罪に手を染めるなどという状態になっているのだ。

 つまりは、何かを変えるというのは、いくらそれが、時代にマッチしていたり、正しいことだとしても、それに逆らうかのような、行き過ぎがあることは絶対に考えておかなければならないことであり、それが分かっていないと、世の中の秩序が偏ったものにならないかということである。

 要するに、嫌煙者にとって、

「喫煙者というのは、どうせ皆同じで、ルールなんか守れないんだ」

 と思ってしまうことが大事なのだ。

「一人いれば、そのまわりに、十人はいると思え」

 というような感じに似ているのではないだろうか。

 克彦の父親は、どうやら、自分のまわりに、

「頑強な男性しかいなかった」

 ということらしく、その環境が、父親を亭主関白にしたのではないかということであったが、大人になるにつれて、克彦は、

「それは、元々あった生まれながらの遺伝なのではないだろうか?」

 と感じるようになったからだ。

 克彦も自分の中に、そんな亭主関白のような血が混ざっているのではないかと思うことがあったが、

「絶対に、自分にはできないことなんだ」

 と思うようになっていた。

 その感覚は、父親があまりにも厳しかったということへの反動のようなものなのかも知れないが。

「反動というのは、自分の中に素質が隠れているから、それが表に出ようとして、できないことであれば、確執として、意識することになるのかも知れない」

 と感じるようになっていた。

 父親の亭主関白を見ていると、どうしても、その怖さから目を反らそうとして、見てしまうのは母親の方だった。

 最初こそ、

「どうして自分から逆らおうとはしないんだろう?」

 と、虐げられている母親に苛立ちを覚えていた。

 しかし、次第に、母親が逆らえないのは、自分を見ているからだと、子供のことを考えて、抵抗できないのが分かると、やはり悪いのは父親であるということに、目が向くようになった。

 母親は、きっと息子の自分が自分を見ているのを知っていたのだろう。

 そして、アイコンタクトで、

「あなたを、私が守ってあげるわ」

 という覚悟をその先に見たことで、母親に対しての見方が変わった。

 それだけに、父親の暴挙が目に余るようになると、その頃になると、

「家庭内暴力」

 などという言葉が社会問題になっていることが分かってきた。

 だが、だからと言って、警察が介入してくることもない。政府も何もしてくれない。

 警察が動くのは、殺人が起こったり、事件が起こって警察が出動しなければ動くことはできない。

「警察は、何かないと動かない」

 ということを、ハッキリと認識したのは、その時だったのだ。

「一体、どうすればいいんだ?」

 というような問題はその頃から頻発していた。

 暴力は家庭内だけではない。学校でも、

「苛め」

 という問題があり、家庭内暴力と切っても切り離せない問題として、浮かび上がったことだった。

 苛めの問題は、さらに昔からあった。

 だが、そんなに卑劣であったり、むごたらしいものはなかった。

「いつ、どこでこんなふうになったのか?」

 ということで、一つは、家庭内における立場の均衡が崩れるのと同じで、学校内でも何かの均衡が崩れているのかも知れない。

 苛めというものは確かに昔からあった。だが、ここまで大きな問題にもならなかったのにはいくつか理由があるが、いじめっ子側といじめられっ子側だけではない。

「第三者」

 というのが問題であった。

 もし、庇ったりすると、今度は自分が苛めの標的になってしまうという感情からか、まわりの人間は、

「見て見ぬふり」

 をするようになる。

 戦争のように、宣戦布告をするわけではないので、第三者は、

「どちらにつくか?」

 あるいは、

「中立」

 のどちらかを選ばなければいけないわけではない。

 しかも、その最後の中立というのは、戦争であれば、正しい選択なのだが、これが苛めということになると、

「中立というのは、完全に、いじめっ子側と同じだ」

 ということである。

 ここでいう中立というのは、ただ、

「どちらにも味方をしないという意味での、中立ではない。弱い者が苛められているのを、黙って見ているだけ」

 ということになるのだ。

「強い者が弱いものを虐げる」

 これは、自然界の摂理でもあるのだろう。

「強ければ生き、弱ければ死ぬ」

 という、いわゆる

「弱肉強食の世界」

 それが、この世の、そして、自然界における節理なのである。

 自然界というのは、循環しているといってもいい。

 草食動物は、植物を食べて生きる。そして、その草食動物を肉食動物が食べる。それを人間が食べることになるのだが、食べ終わった残りの骨であったり、残飯などは、肥料として使われ、植物が育つ。

 自然界というのは、そのようにして循環しているのだ。

 しかし、それだけではなく、それぞれがけん制しあって、身動きが取れなくなることもある。それが一種の、

「三すくみ」

 と言われるものである。

「ヘビは、カエルを食べるが、ナメクジに溶かされる。カエルはナメクジを食べるが、ヘビに食べられる。ナメクジはヘビを溶かすが、カエルに食べられる」

 というような形で、

「それぞれ一匹ずつを、密室に入れておけば、まったく身動きの取れない、膠着状態に入ってしまう」

 というのが、いわゆる、

「三すくみの関係」

 と呼ばれるものである。

 自然界には、循環するものもあれば、三すくみのように、それぞれ身動きが取れない状況になってしまうこともある。そんな状態を作り出していることを考えれば、

「神様というのは、本当にいるのかも知れない」

 という考えに至ったとしても、無理もないことだ。

 何の根拠もなく、

「神様はいるんだ」

 と言われても、説得力も何もない。

 しかし、

「自然界の摂理」

 という形で証明されると、信じないわけにはいかないだろう。

 しかも、自分が世の中で、苦しい立場にいるとすれば、きっと、この自然界の摂理の中のターニングポイントにいるだろうから、一番よく分かるはずである。

 そんな時、神を信じてみたいと感じるのだろうから、宗教団体お勧誘というのは、巧みにそのような人間を狙っているのかも知れない。

 この、

「苛め」

 という問題も、自然界の摂理に当て嵌めると何かが見えてくるかも知れない。

 少なくとも、いじめっ子はいじめられっ子の気持ちも、第三者の気持ちもわかるはずはない。いじめられっ子も、他の二つの考えていることなど分かるはずもない。では、第三者はどうなのだろう?

 分からないまでも、いじめっ子といじめられっ子がいるだけで、自分がいかにその場面でいかに行動すべきかを一番考えるはずだからである。

 いじめっ子といじめられっ子にはそれぞれに立場があって、それを分かっている。自分たちが、普通の循環する自然の摂理の中にいようとも、三すくみの中の一点にいるとしても、結局は、

「どこにいようとも、一つの図形の頂点だ」

 ということなのだ。

 普通の自然の摂理であっても、三すくみであっても、同じものではないかと思う。なぜなら、三すくみは、それぞれがけん制しあっているだけで、実際には、動こうとする意志があるからだ、

 金縛りに遭って動けないとしても、結果的に、

「自分だけが生き残ればいいんだ」

 という結論は決まっている。

 そのためにはどうすればいいのかということが大切なのだが、答えは決まっていて、あとはその手段を考えるということは、何も決まっていないことよりもマシだといえるのではないだろうか?

 いや、逆に、三すくみの状態だから、答えが決まっているだけで、その答えを達成するためには、どうすればいいのかという過程を見つけ出すことが一番困難な状態を意味しているのかも知れない。

 この三すくみという状態は、

「最初に動いたものは、生き残ることができない」

 ということである。

 自分が動くとすれば、自分が得意な相手に襲い掛かるはずだ。だが、そうなると、自分に優位性を持っている相手は、自分が襲い掛かった相手を苦手としているので、目の上の尾タンコブが消えた天敵は、一気に自分に襲い掛かってくるはずである。

 普通に考えれば、生き残るのは、自分の天敵であり、

「最初に動けば、最終的に生き残るのは、自分の天敵である」

 ということになり、結果として、

「自分は生き残れない」

 ということになるのだ。

 三すくみで自分は生き残ろうとするのであれば、絶対に自分から仕掛けてはいけないのだ。 これは、戦争などにおいてもよく言われることで、

「膠着状態になった時は、先に動いた方が負けだ」

 と言われることもある。

 ただ、先手必勝などという言葉もあるが、戦力が均衡しているのであれば、よほどまわりを見ておかないと、相手を潰したつもりで、こちらを虎視眈々と狙っている者があれば、結果、自分が動いたことで、滅ぼされることになる。

 では、三すくみの状態で、自分が助かろうとする方法が、実はないわけではない。

 その方法としては、考え方を変えることだ。

 自分より弱い方に襲い掛かれば、自分よりも強いものが、自分に襲い掛かってくることは必定である。そうなると、目先を変える必要がある。

 その方法としては、最初の行動からが間違っているという考え方である。

 自分が自分よりも弱い方に襲い掛かるのではなく、逆に、自分ににらみを利かせている相手に襲い掛かるとどうなるか?

 相手は、驚愕するに違いない。圧倒的にこちらの方が強いはずの相手が捨て身で襲い掛かってくるのだ。

 そうなると、第三者として見ていた方は、自分ににらみを利かせている相手への恐怖が消えたので、一緒になって、、自分よりも弱い相手を食い殺すだろう。

 つまりは、自分よりを強い相手を自分よりも弱いやつに、襲わせるように仕向けることであった。

 どうなるかというと、当然、勝ち残るのは、自分が強い相手だけということなので、最後にはゆっくりそいつを、食ってしまえばいいわけだ。

 もちろん、自分よりも弱い相手が、この作戦に気づかなければ成功するということである。

 基本的に誰でも、膠着状態が好きな人などいるはずがない。それを思うと、

「誰かが動くと、それにつられる形で、他の二つも動こうとする。襲われた方は、まさかこちらに襲ってくるなど思ってもいないわけで、しかも、もう一方は自分ににらみを利かせている方だ。そう思うとパニックになってしまい、その時点で、自分の敵ではなくなってしまう」

 ということになるだろう。

 三すくみと言っても、結局は、自然の摂理と一緒で、

「永久に動きを止めることはできない」

 ということであって、ただ、

「動いた方が負けだ」

 という理論がはつぃて正しいのかどうか、それが問題なのだろう。

 今の例のように、

「考え方をちょっと変えるだけで、膠着状態を解消できて、自分が一人勝ちできることもある」

 ということである。

 これはあくまでも、

「自然の摂理としての、三すくみに対してだけいえること」

 であって、じゃんけんや、ゲームなどにおける三すくみには通用しないことである。

 なぜなら、

「人間には思考能力があり、他の動物には思考能力はないが、それを補って余りある本能というものが備わっているからだ」

 ということになるからであろう。

 だから、動物というものと、それ以外では、まったく違った結果をもたらす。それが自然の摂理と、三すくみの関係だといってもいいのではないだろうか。

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