第2話 おかしな村 パート2

 相沢ちひろの育った村があるF県の隣のS県には、またしても、おかしな村があるという。

 F県というのは、この地域の中では、一番大きな県で、隣のS県は、田舎と称される県であり、目立つものというと遺跡くらいしかないところだった。

 しかも、あるコミックソングを歌う芸人が、地元ということでディスるような歌を発表し一世を風靡したことがあった。そういう意味でも、

「K県って何があるんだい?」

 と言われて、

「さぁ」

 と言っていた人も、その歌の歌詞を思い出して、何があるのかをいうと、

「ああ、そうそう。あの歌にもあったよな」

 と、歌での印象しかないということを暴露している。

 要するに、自分は地理には弱いということを公表しているようなもので、それを笑い話に変えるのだから、いい性格だといってもいいだろう。

 それだけ田舎であり、都会的なものは皆無と言ってもよかった。もしあったとしても、県庁所在地の駅前近くに少しある程度で、少し離れれば、田園風景が広がっているといっても過言ではなかった。

 この県には空港もあり、比較的、都心部に近いところに位置しているわりには、利用客はほとんどいない。

 鳴り物入りで建設され、

「駐車場無料」

 などと、他の空港にはない宣伝文句だったわりには、一年目から閑古鳥が鳴いていたのだ。

 それはそうだろう。

 隣のF県には有名な国際空港があり。そこは、全国でも珍しいほどの、都心中心部から近かった。

 玄関駅から、地下鉄で二駅で行けるほどの距離に空港があるなど、全国でも珍しかった。

 そのおかげで、都心部では、高層ビルが建てられないという弊害もあったが、今ではその条例もなくなっていて、都心部には、これでもかとばかりに、高層ビルが立ち並んでいた。

 そもそも、その空港は、旧陸軍が作った空港で、一時期、占領軍に接収させていたが、変換後は、国際空港として、巨大な滑走路を備えた、大空港になったのだ。

 アジアへの玄関口ともいえるその空港は、すでに過度な状況になっていて、そのうちに、他にも空港が必要になるかも? ということで建設されたのが、S県の空港だったのだ。

 しかし、F県の空港まで、鉄道の在来線でも、一時間もかからず、そこから空港まで、二十分くらい、その程度であれば、F県の国際空港を利用するだろう。

 なぜなら、本数は圧倒的にF県の空港からが多く、S県の空港とは段違いである。

 F県の空港からであれば、一日に数便の定期便があるにも関わらず、S空港からは、二日に一本とかいう程度では、お話にならないのだ。

 二時間もかからないのであれば、今まで通り、F県の国際空港を使う方が便利でいいと思うのは当然のことであり、特に若い連中は、F県の空港に向かうのだ。

 確かに、駐車場無料というのは魅力だが、行きたいその日のその時間に飛行機がないというのは致命的で、

「地方官吏空港の限界」

 と言ってもいいかも知れない。

 この空港は全国でも、

「無駄遣い空港」

 として有名であり、

「作ってはいけない空港の上位に位置している空港の一つ」

 と言われている。

 それこそ、県民の血税が使われているということで、かなり問題にもなったことがあった。

 かといって、作ってしまったものを潰すわけにもいかず、便数を増やしたとしても、本当に乗客が増えるかどうかということも不透明だ。

 何と言っても、F県の国際空港には、県内からだけではなく、いろいろな県から集まっているので、

「S空港の方が近い」

 という人が一体どれだけいるというのだろうか?

  S県には、それ以外に、晩秋の時期には、ある世界大会が催されたり、優良な温泉が県内には分散していたりと、来てみれば結構いいところもあるのだが、どうしても、あのコミックソングのイメージからか、

「ド田舎」

 というイメージがついてしまい、観光PRも結構大変だったりする。

 しかも、その観光大使に、コミックソングを歌った人間を当てたりなど、県の上層部自体が、どこか自虐的な考えを持っているところが、ユニークと言っていいのだろうか?

 やはり有名なところでは、全国的にも有名な、弥生時代の集落の遺跡であったり、晩秋の世界大会などがその代表例なのだろうが、江戸時代には、鎖国していた日本で、数少ない海外貿易が行われていたN県を隣に控え、そこから江戸や、京、上方に向かって続く、N街道を、通称、

「シュガーロード」

 と呼んで、佐藤が運ばれていたということである。

「スイーツ街道」

 と言ってもいいかも知れない。

 さらに、この県では、幕末にはすでに、反射炉などが設置されていて、意外と文明の最先端を行っていた地域でもあったのだ。

 今でこそ、大きな県に挟まれて、まるで、

「陸の孤島」

 とまで言われそうなところであるが、この土地を愛してやまない文化人がいたりするという事実もある。

 有名な温泉地で逗留し、独自な視点から、作品を描いているミステリー作家もいたりする。

 そんなS県にも、隣のF県にあった、

「女性ばかりのおかしな村」

 に匹敵する、さらにおかしな村が存在するという。

 今度は、まったくF県とは逆で、

「男性ばかりのおかしな村」

 と言われているのだった。

 元々は、女性と男性の比率がトントンだったことで、うまく、そして平和な村であった。

 かつては、一度も一揆を起こしたことのない村であり、どんなに他が不作が続いていたとしても、この村には不思議と穀物ができないということはなかった。

「なぜなんだろう?」

 と誰もが頭を抱えていたが、近隣の村からは、羨ましからっるというよりも、やっかみの方が大きかった。

 それはそうである、同じように田を耕し、汗を掻いているというのに、かたや豊作、かたや、基金で年貢を納めるどころではないからだ。

 かつての江戸時代、それを見かねたその村で、少し余りそうなコメを自分たちで食べないで、まわりに分け与えていた。

 嫉妬している自分たちにまで、情けを掛けてくれるというのは、何とお慈悲の強い人たちであろうかと感じていた。

 そんなお慈悲に素直に喜ぶ村人ばかりではない。

 この時とばかりに、できたコメを強奪しようと考えた輩もいたりした。もちろん、そんな計画が成功するわけもなく、当然、年貢を納める時には、強奪されないように用心棒を雇っていたので、襲撃は却って、惨殺されることになった。

 さすがにここに至っては、襲撃された方は、奉行所に訴え出て、襲撃犯の生き残りを突き出し、

「吟味のほどをお願いします」

 と言って、お願いした。

 すぐに黒幕は捕まり、そのまま主犯は切腹、そして、共犯は遠島を申し付けられたが、そこまでされれば、襲撃側も黙ってはいない。

「やつらは、一揆を企てている」

 という話を奉行所に訴え出て、自作自演の謀反計画を作成し、それを奉行所に見つかりやすいようにしたことで、奉行所は、その村の長を捕まえた。

 当然、身に覚えのないことだから、長とすれば、拷問に耐えるしかなかった。

 しかし、手加減がなく、拷問で日ごろの憂さを晴らしている役人にとっては、

「ストレス解消にはもってこい」

 ということだったのだろう。

 長は結局、そのまま捉えられたまま、過剰な取り調べが原因で獄中氏してしまったのだ。

 それを聞いた村人は、

「何と理不尽な」

 とばかりに苛立っていた。

「下手に同情すると相手がつけあがる」

 ということが身に染みて分かったのか、もうそれ以降は容赦しなかった。

「すみません、我々にも年貢の一部をお分けいただけませんか?」

 と言ってくるとことがあったが、

「ふん、もう俺たちはそんな言葉には騙されない。恨むのなら、あの時に裏切った連中を恨むんだな」

 と言って。相手にもしてもらえなかった。

 そんなこんなで、この村は、同じ藩の中でも特別扱いの村となった。

 実際に年貢に関しては、遅延も、不足なども一切なく、藩が定めた量を、キチンと決まった日までに年貢を納めるのだ。これほど藩としては優良な村もないだろう。

 逆に、他の村は、散々だっら。

「お前たちは何をしているんだ。同じ状況でこんなに近くの村であるにも関わらず、あそこは優秀なのに、お前たちときたら、どういうことなんだ? まさか、取れたコメを自分たちだけで食べようという魂胆なのではあるまいか?」

 と言われたが、

「滅相もございません。我々だって、これ以上ないというくらいに、努力をしています」

 と言ったとしても、事実を言われると、どうしようもない。

「あの村が存在しているだけで、俺たちがどうしてこんなに責められなければいけないんだ。そもそも年貢が高いからいけないんじゃないか? とは言っても一揆などを起こしても、成功するわけもなく。わしらはこのまま飢え死にするか、一揆を起こして、全滅するかのどちらかでしかない」

 という意見が多かった。

 いくつかの村で一揆の計画が相談されていた。

 もちろん、年貢を真面目に払っている村が誘われることもなく、さらには、バレてしまって、チクられても困るということで、他言無用の状態だった。

 だが、どこから漏れたのか?

 たぶんには、内部告発だったのだろうが、一揆は失敗に終わった。

 村人の多くは見せしめに磔になり、村は全滅した。その村を引き継いだのは、年貢に遅延のない村だったのだ。

 領地が二倍になっても、年後はきちんと払っていた。

「なぜだ、あれだけ作物が摂れない土地だったのに」

 と、他の村の連中はうそぶいていた。

 年貢を納めても、まだあまりがあるほどのコメだったのだから、彼らはまわりの村に分け与えた。

「ああ、何とも慈悲武器ことで」

 と、まわりの村は感動した。

 それでも、

「どうして、やつらが耕すと、作物ができるんだ?」

 とばかりに、怪しむ人はいたが、さすがに嫉妬から逆らうようなことはしなかった。

 だが、確かに彼らが耕すと不思議と作物ができる。何か特別な肥料でもあるのだろうか?

 そんな時、南蛮往来の薬があるということを伝え聞いた人がいて。

「お前たちも村にはその秘伝の薬がるのだろう?」

 と聞いたが、

「いいs、そんなものは存在しません」

 と言って、相手にしなかったが、聞いた連中も、これまでの搾取に耐えられないという思いがあったのと、

「一つの村が摂りつぶされた」

 という事実を目の当たりにしたことで、身動きができなくなっていた。

 精神的には大きなジレンマになっていくが、どうしていいのか分からなかった。

 そんな時は、

「下手に動いては、自分たちが摂りつぶされる」

 という思いが強く、とりあえず、様子を見るしかなかった。

「あの村に密偵でも送り込むか?」

 と画策した人がいた。

 一人の婦人が、盗賊に襲われているという設定で、何とか村に潜り込ませるというもので、今の時代なら、ベタに思えることであった。

 それでも、この村の住民は、疑うことを知らないのか、女がけがをしているのを見ると、村に呼んで手当をしてあげることにした。

 女もしばらくは動けないということで、助けてくれた村人の家に厄介になることにした。

 話を聞くと、

「村を追われるように出てきたので、どこにも行くところがない」

 ということ。

 助けた村人は、それを聞いて、

「それじゃあ、お前がいたいのであれば、いつまでもいるがよい」

 と声をかけてくれた。

 いかにも朴念仁という風に見えるが、それだけに、優しさが感じられるのであった。

 女は、

「それでは、お言葉に甘えて、まずはけがが治るまで」

 というと、

「気にしなくてもいいから、心配することはない」

 と言って声をかけたのだった。

 どうやらこの男は、色仕掛けでは引っかからないタイプであるが、相手が助けを求めてくれば、疑うことを知らないように感じられた。

 それだけ人が好い人なのだ。

 女の方とすれば、色仕掛けに引っかかってくれる男であれば、罪悪感はないのだが、親切心を持ち出してこられると、戸惑ってしまうのだった。

 この女は、元々忍者の子孫で、先祖から、

「くのいち」

 としての、秘儀などを伝授されていたが、それはあくまでも、

「女を武器に」

 というところであったので、戸惑いも当然であった。

 彼女は、次第に迷いが深まってくる。

「私は一体、何をやっているのだろう?」

 依頼主である村の長は、権力をかさに着て、自分を凌辱し、

「このまま生きていたいなら、私の命令に従うのだ」

 という脅迫で、女を従わせていた。

 彼女は、

「それが定めであり、自分の運命なんだ」

 と感じたが、それは、相手が、

「くのいち戦法」

 に引っかかる男であればこそなのだが、そちらにはまったく反応せず、一向にこちらが怪しいと疑っている素振りもない。

 くのいちとしての訓練も受けていることから、相手がウソをついているかどうかということもある程度まで分かるようになっていたが、この男性がウソをついているようにはどうしても思えなかった。

「どうして、そんな」

 と、自分のやっていること、そして、それを命令した村の長と、目の前の男を比べれば、どちらが本当にいい人なのかは、誰にだって一目瞭然であろう。

 その時に、女は初めて、生きるためではなく、自分の気持ちに正直になりたいと思ったのだと感じたのだ。

 女は聞いた。

「どうして私を助けてくださったんですか?」

 と聞くと、

「目の前に困っている人がいたからだよ。運命のようなものを感じたと言えばいいかな?」

 と言って、その男が微笑んだ。

 その顔を見た時、

「どうしたのかしら? 私は」

 と、瞬きもできないほど、驚いた顔になっていることに気づいていた。

 これまで無表情の訓練はずっとしてきたが、ここまで感情をあらわにしてしまう自分がいるのが怖かった。

 しかも、相手は一番気持ちを読まれてはいけない相手ではないか。それを思うと、

「依頼人を裏切るわけにはいかないが、自分を助けてくれた目の前の男性を殺めることは私にはできない」

 と感じた。

 それが、彼女にとってのジレンマだったのだ。

 そのうちに、彼女はそのまま居つくことになった。元々、そのような指令を受けてここにやってきたのだった。

 男を骨抜きにして、その土地の秘密を探り当てれば、最後はその男を葬って、土地を自分のものにするというのが、作戦だった。

 男が死んだからと言って、どうしてその土地が自分のところに転がり込んでくるのかいうことは、最初から計算ずくだった。

「俺って悪知恵は結構働くからな」

 とうそぶいていたが。確かに、やつの言う通りに、もし土地の主が殺されたりすれば、土地は、まず間違いなく、この男のものになるだろう。

 そういう意味で、この男はしたたかで、計算が立つことに関しては、頭がいいといってもいいだろう。

 そんな男の言いなりになっている、この女は、自分が生き残るためには、これくらいしたたかな男のそばにいるのがいいのだと思い込んでいた。

 どこかこの男に、悪党の臭いを漢字ながらも、自分が惹かれていることに気づいているのだろう。言いなりということも、彼女には快感の一つだった。

 彼女のような女は、誰か強い男に簡単になびいてしまう。本心はあんなに強いのに、一人の男に支配されりというのはどういうことなのだろう?

 いや、逆に彼女のような女を相手にできる男が、実際には少ないからではないだろうか?

 普通の男であれば、相手にはならない。気持ちが動くはずもないし、彼女を分かるはずもない。

 そういう意味で、この騙している男も、

「普通の男だったら、どんなによかったか」

 と考えるのだ。

 彼女が一番嫌いなのは、

「中途半端な男」

 そして、騙しやすいのも、

「中途半端な男」

 なのだ。

 優しさをひけらかしてはいるが、実際には、何かあれば、真っ先に逃げてしまうような男、しかし、言いなりになっている男は違った。

 彼は悪党だが、

「徹底した悪党」

 なのだ。

 その意思を、曲げrことはない。

「これが俺の生き方さ」

 と、枕元で、不敵な笑みを浮かべながら、自分の野望を聞かせてくれるこの大悪党、しかし、彼は彼なりに徹底しているのだ。

 そんな男のひめゴトは、実に激しいものだった。

 密偵であることを忘れ、女であることを思い出させる。男がこの女を抱くのは、決して愛しているからではない。抱くことで、自分がやらせている、

「男をたぶらかす」

 というこの女の戦法に、さらに磨きを掛けようというのだ。

 もちろん、この男だって、一人の男なのだ。女のテクニックに思わず、心を許しそうになるが、この男の徹底ぶりはすごいものがあり、果てた後も、決して女に嬢を移したりはしない。

 だから、絶倫なのだ。

 さすがに女もこの男の絶倫さに参ってしまっていた。それが、この男の相手を愛していない証拠だということも分かっていた。

 だから、この男との関係は、男女の関係ではない。身体を使った契約という関係なのだ。

 女は男に奉仕の心、男は女に安心と快楽を与えていると思っている。それが契約であり、「それ以上でも、それ以下でもない」

 と思っているのだった。

 この女がこれまで非情になりきれたのは、そんな思いがあったからだ。

 だが、この思いはこの女にとっても、願ったり叶ったりであった。

 変な同情や、甘い戯言などを考えてしまうと、せっかく生きるということが自分にとってどういうことなのかを、分かってくる気がしていた。

 ここから先、自分がいかに生きていくのかということを考えた時、

「今以外の将来しか見えない」

 と、まるで、予知能力を持っているのではないかと思うほどに、将来の進む道に確信のようなものを持っていた。

 そんな村に密偵として入り込み、その男から秘密を聞き出そうとしていた彼女だったが、足が治るにしたがって、気持ちが逆に病んできていることを、この男は看破していた。

 実は、女は自分のことを、

「私、自分が誰だか分からないいんです」

 と、ベタなウソをついたのだが、それを聞いて、男は、

「そうか、それは気の毒だな。でも、名前がないのは何て呼んでいいのか分からないので、お唯ということにしよう」

 と言われて女は、

「お唯……。いい名前ですね」

 と言って、何だか癒される気分になった、

 その理由がこの男の視線にあることに気づいた、お唯は、ハッと、自分の顔が真っ赤になるのを感じた。

「どうして? 私は、まさか、この男に心が動いているのかしら?」

 と感じた。

 そして次の瞬間、

「私は、この人と本当に初めて出会ったのかしら? 記憶がないというウソをついたはずなのに、まさか、そのウソが本当のことだっただなんて、そんな結末、それはきついわよ」

 と思うのだった。

ただ、彼女は、

「このままこの人をだまし続けることは私にはできない。もし、彼にウソが分かって、出ていけと言われたとしても、私はこのまま、この人と一緒にいたい」

 と思ったのだ。

 こんな気持ちになったのは、

「この人と初めて会ったという感じがしない」

 という思いからであったが、

「もし、命令がなければ、この人に会うこともなかったはずなんだわ。だから、それだけに板挟みの気分になってしまうんだけど、でも、このままではいけない」

 と思うのだった。

 ただ、正直に彼に対して。自分が密偵であることを明かしてどうなるのだろう?

 それをとがめられて、出ていけと言われるのであれば、それは自分の運命だから仕方がない。

 お唯は、彼がそんなことは言わない人だと信じて疑わないつもりでいるので、それで言われたのであれば、それは自分の見る目がなかったということでもあり、諦めがつくという意味で、ある意味気が楽であった。

「どこかおかしい感覚だわ」

 と感じたが、お唯は、彼に従って生きていくことに決めたのだから、逆に彼に突っぱねられれば、

「そこで、自分のくのいちとしての命は終わりだ」

 とまで感じていた。

 だが、彼はお唯を突き放すこともなく、しばらくしてから、

「俺と一緒にここで、ずっと暮らさないか?」

 と言った。

 いつものように淡々とはしていたが、お唯には分かっていた。

「この人、人生で最大に緊張している瞬間なんだわ」

 ということをである。

「ありがとうございます。お唯は幸せです」

 というと、

「お唯。実はな。お唯というその名前は、前に亡くなった、私の元伴侶の名前なんだ。隠していてすまないい」

 と言われた。

 お唯には、彼のそれくらいの心のうちは分かっていた。いきなりお唯という名前を思いついたところが、きっと、大切な人の名前だと、すぐに気づいたからだ。

 お唯は、その名前を、自分のものにしようと思っていた。前の名前も捨てて、自分に命令をしたあの男も切って、自分は、この人のために尽くすと決めたのだ。

 あの男からの嫌がらせのようなものはあったが、その都度旦那が切り抜けてくれる。お唯は、そんな男を頼もしく思っている。

「この人、私のことを最初から怪しいと思っていたのかも知れないわ」

 と、感じたが、もうそんなことはどうでもいいことであった。

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