第9話 二つの自殺未遂
前日に見た夢を思い出してみると、そこで姉が何を言いたかったのか、なんとか思い出そうとした。
確かあの頃姉には付き合ってる人がいると言っていたような気がする。その人は確か年下だったと言っていた。冗談かも知れないが、
「あの子、ちょっとかわいいから女の子によくモテるのよね。そこが気になるところだわね」
と言って笑っていたっけ。
さらに、お姉ちゃんがちょうどあの頃、交通事故に遭ったのも覚えている。確か急に道に飛び出したとかで、普段冷静なお姉ちゃんには考えられないことだった。
お姉ちゃんは、高校の頃から何か物語を作るのが好きだったので、大学では映像サークルに入って、シナリオを書いたりしていたっけ。そんなものを書いていたのかハッキリは知らないけど、彼氏が褒めてくれたって、悦んでいた。
年下の彼氏は三つくらい年下だと言っていた。大学二年生の頃に自殺未遂した姉より三つくらい下だったとすれば、高校三年生くらいだっただろうか。大人と言えば大人かも知れないが、まだまだ子供、あいりがその彼のことをほとんど知らないということは、姉の見舞いにも来なかったのだろう。
何よともお姉ちゃんの自殺未遂をしたという時のことを思い出すのに、
「あの頃、お姉ちゃんには彼氏がいた」
ということをどうして思い出さなかったのかということが気になったのと、もう一つ気になったのは、
「あの時思い出そうとしなかったくせに、どうして今になって思い出してしまうのだろうか?」
ということだった。
確かに友達である真美が自殺未遂したことで、同じ光景を目の当たりにしたことで姉のことも思い出したのだ。だが、もっといえば、それだけの衝撃的な情景を、最近までずっと思い出すことがなかったというのは、これはやはり自分で記憶を封印していたからに違いない。
記憶を封印するということはどういうことなのか?
あいりは今まで、どちらかというと、記憶力の悪い方だと思っていた。しかも、覚えていなければいけないような肝心なことを、すぐに忘れてしまうようなところがあると思っていた。
例えば、人に頼まれたことを、つい忘れてしまっていたり、その日必要なものを家に忘れてきたり、さらには、化粧もせずに、会社に来てしまったということもあったくらいである。
確かに、そう何度も繰り返してはいけないミスと言われても仕方のないことであるが、だからと言って、誰かが危険に晒されたりするような重大なことではない。中には真剣になって怒られたこともあったが、その大部分は、笑ってすまされるくらいのことであった。
その理由をあいりは、自分なりに分かっているつもりだった。
――集中力が欠如していたんだ――
ということは分かっていた。
しなければいけないということに対して、意識が散漫だった。特に本能で覚えるようなことではなく、意識していなければ覚えられないことに対して、あいりは時々集中力が散漫なために忘れてしまう。これは、あいりの短所であった。
それをあいりはずっと気にしてきた。
――どうして私は覚えられないんだろう?
と悩んでいたと言ってもいい。
しかし、今回真美の自殺を見て、真美が記憶喪失に陥ったのを見て、その状況を自分に当て嵌めて見た時、少し突飛であるが、ある仮説が湧いてきた。それが、
「記憶喪失の循環性」
であり、そのために、時々、記憶がリセットされ、それは自分の集中力とは関係のないところで起こることだった。
小説を書いているあいりにとって、集中力がないなどということは信じられない。いくら忘れっぽいとはいえ、それが集中力がないからだという理由にするとすれば、小説が書けている自分への理屈が成り立たないと思えるからだった。
真美の場合は原因がハッキリと分かっている記憶喪失、自殺未遂が招いた後遺症としての記憶喪失なのだが、果たしてそうなのかと、あいりは思った。
確かに、自殺するまでの最後に遭った真美は、記憶を失っているなどという素振りはなかったので、健常状態だったのだろう。
しかし、自殺未遂を発見し、治療が終わってみれば、そこには後遺症として記憶喪失というものが残った。
記憶喪失に陥った時期は、本当に自殺の後だったのかと言われると、違う発想も生まれてくる。
自殺しようとする人間は、精神的にもかなり不安定であり、意識も朦朧としていたと考えられないだろうか。
しかも、今までに何度も自殺未遂の経験があり、リストカットの後が手首に見られるような人なので、その時の精神状態が尋常でなかったと考える方が、普通なのかも知れない。となると、自殺を試みた時はすでに記憶を失っていたという錯乱状態だったのかも知れない。
記憶を失ってしまうと、見た目は意識が朦朧としているように見えるが、その内心は、恐怖や不安で頭の中が混乱し、表面上に出てくる感情がマヒして見えるだけなのかも知れない。。
そういう意味では、普段よりも記憶を失ってしまってからの方が、実しようとする精神状態には近いと言ってもいいだろう。
――真美ちゃんの自殺は、本当の意味での衝動的な行動だったんだ?
と思うと、よく遺書が残っていたとも思う。
しかし、それが本当に遺書だったのだろうか?
遺書だったら、イニシャルなどを使わずに、ちゃんと実名を書くのではないだろうか。実名を書かないくらいなら、遺書などしたためる必要もない。そもそも真美のようにどちらかという結論を先にみたいと考えている人に、遺書など似合わないのだ。それはあいりにも言えることで、きっと自分が自殺を試みるとすれば、遺書など残すはずなどないと思うからだった。
あの遺書と思われたのは、ただ、彼女が心の安定を図ろうとした一つの一巻なのではないだろうか、そう思うと、後で誰かに見られたとしても、イニシャルであれば、恥ずかしくもないと思ったのだろう。遺書であれば、恥ずかしいも何もないだろうからである。
あいりは今、自分の過去と真美の過去を結び付けて考えていた。
あいりは、姉の自殺の原因となった男が、川本晋三であるということを、ここまで考えてきて、もう疑う余地もないと思うようになっていた。
あいりが、どうして晋三を外人と比較してしまうのかを思い出そうとしていた。
――そういえば、私、大学に入学して最初のバイト先で、一緒になった外人のお兄さんと仲良くなったような気がしたわ――
ということを思い出した。
これは、裏の記憶ではなく、普段の記憶、つまり今あるはずの記憶なのに、どうしてすぐに思い出せなかったのか。川本晋三を思い出すことで世間一般の外人を意識していると思っていたが、実はそうではないようだ。
裏の記憶、つまり記憶喪失の間にあった記憶にその秘密が隠されているのだろうが、そもそも外国人を意識することすら記憶の奥に封印されていたことだったので、それが裏の記憶にどう影響しているのか、大いに関係がありそうだが、果たして思い出すことができるというのだろうあ。
――いや、今がそれを思い出すために、用意された時間だとすればどうだろうか?
とあいりは感じた。
今では、外人すべてに対して大きな嫌悪感を抱いている。それはきっと、誰が見ても気持ち悪いと思っている虫だけが嫌いなのに、一般的に虫と言われているものすべてに嫌悪を感じているようなものではないだろうか。
あいりは、大学時代に誰かと付き合ったという意識はない。好きになった人はいたような気がしているし、自分を好きになってくれて告白してくれた男性もいたはずだった。
その人のことを嫌いだったわけでもなく、一度は承諾したはずなのに、いざとなると拒否をあらわにし、相手に豹変した態度を見せて、そのまま引かれてしまったという過去も思い出してきた。
「やっぱいr、私は心の中にトラウマがあるんだ。そのトラウマには、外人というキーワードが絡んできているに違いないんだわ」
と感じていた。
昔から、肝心なことは、何一つ覚えていないというのが、あいりの短所であり、長所のようにも思えていた。
「短所は長所の裏返し」
と言われているが、まさしくその通り、
野球選手でもよく言うではないか、
「苦手なコースは得意なコースのボール一つ隣だ」
などというのも、その一つではないだろうか。
あいりは、高校時代の冬休みに一時期コンビニでアルバイトをしたことがあった。もうその頃には、コンビニのバイトというと外人が多く、留学生と言う名目ではあるが、どうも下等な民族としてのイメージしかなかったので、あまり近寄らないようにしていた。
しかも、日本語もまともに喋れない連中なので、客との会話もまともにできそうにもなく、たまにトラブルになりかけると、あいりが仲裁に入って、客に詫びを入れさせられた。
外人に対して文句をいうこともなかったが、やつらは、ありがたいと本当に思っているのか、礼すら言わない。そんなやつらにモラルを求める方がおかしいのではないかと思ったが、本当にそうだろうか?
悪いことをしたという意識はなさそうだし、自分がなぜこんなに惨めな思いをしなければいけないのか、その理屈も分からずにただ卑屈になっている姿は、見ていて苛立ちしかないものだった。
そんな連中がある日何を勘違いしたのか、あいりに対して何かプレゼントをするという。普段は毛嫌いしていた連中であったが、何かをしようとする気持ちが本当であれば、それはそれで嬉しい。
しかし、実際にもらえるようなものではなかった。言葉で表現するのが難しく、
「民族性の違い」
という言葉だけで片づけられるものではなかったが、その時の怒りがどのようにあいりの表情に浮かんでいたかは、相手がまたしても、理由も分からずに卑屈になっている状況に似ていた。
あまりにも苛立ったので、さすがに大声で罵倒した。普段大声を出さないあいりが急に大声を出したものだから、店長もビックリして寄ってくる。そこは何とか宥めてもらえたが、あいりの怒りは収まるわけもなく、苛立ちのまま帰宅した。
夜も遅くなったが、いつもの道を帰宅した。普段から人通りが少なく、怖いと思っていたので、細心の注意を払っていたのだが、その日は怒りに任せて、それほど注意をしていなかった。背後やまわりから、厭らしい目が寄せられるのが分かっていなかった。
影が蠢いて、数人が同時にあいりに襲い掛かる。何が起こったのか分からぬまま、必死に抵抗していると、どれだけ時間が経ったのか、少しだけ冷静になり、襲ってきた連中が三人であり、その全員がマスクをしていたが、外人であることはやつらの目を見れば分かった。
しかし、コンビニで見る目とは違い、完全に血走っている。
――男って、肌の色が違っても、悪いことをする時の目って同じ目をしているんだわ――
と、日本人の悪いことをしている人の目をまるで知っているかのように感じた。
すでに大声を出して誰かに助けを求めるという気持ちは失せていた。どちらかというと、
――早く終わらせて――
という諦めの境地に近かったが、それは、相手が外人であるということを知るまでの感覚だった。
相手が外人だと思うと、必死に抗ってみた。
やつらは何かを言っているが、何を言っているのか分からない。どうせ、ロクなことを口にしているわけがないのだ。
それでも、やつらの抑える指を思い切り噛んで、相手がひるんでいる間に、必死になってここぞとばかりに大声を出した。
「誰か、助けて!」
と声を張り上げると、ちょうど近くにいた人が入ってきた。
「なんだ、なんだ?」
という具合に一組のカップルだったが、この二人の出現によって、外人どもは蜘蛛の子を散らすように立ち去った。皆同じ方向ではなかったのは、きっとこういうことには慣れていて、皆が別々に逃げ出せば、逃げられる確率は高いとでも思っているのかも知れない気がした。
アベックに助けられたあいりはそのまま気を失い、病院に担ぎ込まれたが、ちょうど親が旅行中で、身元引受人に姉がなってくれたので助かった。姉もちょうど二十歳を超えていたので、十分に身元引受人となれたのだ。
「お姉ちゃん。ごめん」
tと一言言ったが、
「何言ってるの。何もなくてよかったじゃない。けがの方もちょっとしたかすり傷のようなので、大丈夫。逃げた連中は警察が今捜査しているらしいわ」
と言っていた。
その後警察から、軽い事情聴取はあったが、何もされていないことでとりあえず、暴行の被害届程度を出すに留めた。
「なるべく早く忘れることだね」
と付き添ってくれた警官からも言われ、
「そうね。忘れること」
と姉からも言われたので、とにかく忘れることに終始したあいりだった。
実際にその後、変な外外人が捕まったというウワサは聞かなかった。ただ実際には当時から外人の素行が悪く、毎日のように数人は検挙されているくらいだったので、暴行未遂などは日常茶飯事、正直無法地帯と化していた。そんな中、犯人を特定するのは難しく、あいりとすれば、
「やられ損」
というわけだ。
「未遂で終わったからいいものの」
というわけだが、明らかにトラウマが残った。
街を歩いていても、外人を見かけただけで、身体を避けるようになった。もちろん、バイトはすぐに辞めた。店長には誰にも言わないということを約束させ、事情を説明した。店長側も事を荒立てたくないという気持ちから、普通に辞めれたのだが、あいりがコンビニに足を踏み入れることができるようになるまで、かなりの時間が掛かった。完全に海神恐怖症になっていた。
日本に来ている同年代の外人皆が悪いわけではないのだろうが、みんな同じに見えてしかたがない。実際に大学に入学してから、外人のいない場所でアルバイトを始めたが、同じようにアルバイトを始めた人の中にも、
「ここなら外人がいないから」
という同じ理由で始めた人もいて、よくよく聞いてみると、その人もあいりのような外人恐怖症というトラウマを持った人だった。
「同じような人も結構いたりするんでしょうか?」
と聞くと、
「結構いるんじゃないかな? 私もまわりにも数人いたもの」
とその人は言っていた。
あいりが外人に対して感じているトラウマや恐怖症と似たような感覚を、日本人の中に感じている人もいる。
お姉ちゃんもその一人だったのだろう。
自殺未遂までしたのは、一言でいえば、
「男に裏切られたから」
というもので、人によっては、
「それくらいのことで自殺しようとするなんて」
と、まわりに与えた迷惑を思い、憤慨する人もいるかも知れないが、あいりはそうは思えなかった。
まだ自分が外人に襲われる前だったので、どちらかというと、他人事のイメージがあったが、すぐにお姉ちゃんの気持ちが分かる気がしてきた。
だが、すでに姉はもう自分の世界に閉じこもってしまって、人を受け入れようとはしない。
一体姉に何があったというのか、少なくとも自殺まで使用などと思いもしないあいりと、自殺を試みた姉との間には、大きな溝ができてしまったのを感じずには終われないだろう。
しかし、一つだけ言えることは、その頃のあいりは、彼氏などほしいとは思っていなかったことで、当然裏切られることなどもないはずなので、
「姉の気持ちが永遠に分からないのではないか」
と感じることだった。
つまり、交わることのない平行線を、姉妹の間で敷いてしまったということになるのだった。
「それを敷いてしまったのは誰だろう?」
誰でもない、あいり本人だった。
だから、、姉に対して、
「悪いことをした」
という思いがずっと消えずに、この思いも一種のトラウマとして残ってしまった。
あいりが真美の自殺を見た時、
「なんとかしてあげたい」
と思ったのは、姉に対しての自責の念と、真美との間にも自らで平行線を描かないようにしないといけないという思いとが、皮肉にも交錯していたということである。
この二つの姉と、真美の自殺未遂。交わることのない平行線を交錯させるとすれば、それはあいりのトラウマによるものなのかも知れない。
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