第8話 約束だ
その日の晩。
初陣の前日の夜。
早めに寝ようとベッドに入るも、どことなく落ち着かない。
それでも休もうとベッドの中でずっと横になっていた時のことだった。
唐突に部屋がノックされた。
もう遅い時間だ。点呼の時間も過ぎている。
僕は少し警戒しながらも扉を開ける。
そこにいたのは、
「ウィリアム。少しいい?」
ソフィアだった。
寝間着なのか、いつもよりひらひらとしていて、どことなく煽情的な格好。
時間も相まって、少しばかり鼓動が高まった。
「ど、どうぞ」
「ごめんね」
謝りながら、人目に付かないように彼女はそそくさと僕の部屋に入る。
僕の部屋はとても質素だ。
物なんて鍛錬でも使うような実用的で軍人なら全員が持っている物しかない。
他と違うのは精々が日記程度だろうか。
ソフィアは部屋を見渡すとクスリと笑った。
「ウィリアムの部屋って、何もないのね。なんだからしいわ」
「それは僕がつまらない男だって言いたいの?」
いつもの軽口。
だと思ったのに、
「いいえ、優しくて人を守ろうとするウィリアムらしい部屋だなと思っただけよ」
急な優しい言葉に、僕は言葉に詰まってしまった。
「な、なに言ってるのさ。僕は優しくなんてないよ。オスカーやソフィアのほうがよっぽど優しい」
「いいえ、あなたは誰よりも優しくて勇気のある人よ。この傷が証明してくれてるわ」
ソフィアが僕の左手を取り、包帯の巻かれた傷口に触れる。
「カットスから守ってくれたとき。とてもかっこよかったわ。言いそびれちゃったけど本当にありがとう」
照れくさくて、顔を背けて頬をかく。
「いつも二人には世話になってるからさ。あんなふうにソフィアを貶められて、我慢ならなかったんだ」
「ほら、優しいじゃない。人のために血を流すことも厭わないなんて、誰にでもできることじゃない。あなたは優しくて強い人。私を守ってくれる大事な家族」
「……どうしたの? 大丈夫?」
いつになくセンチメンタルな彼女が心配で、彼女の顔を覗き込む。
「大丈夫よ。あなたに伝えたいことがあって」
彼女は笑って、僕の手を握る。
「私と家族になろう?」
彼女の手はとても冷たかった。
「……っ」
いつかと同じ言葉。
とてもうれしくて。
……だけど、素直に受け取れない言葉。
「ごめん、ソフィア」
「……え?」
ソフィアが目を見開き驚愕に満ちた表情を浮かべた。
僕は目を伏せる。
「ソフィアの気持ちはすごく嬉しい。こんなに強くて賢い、優しいソフィアがそう言ってくれる。一にも二にも頷きを返したいくらいなんだ」
「じゃあ!」
「でも、だからダメなんだ」
僕はソフィアとオスカーが大好きだ。
二人を貶めるようなことをするのはカットスだろうが誰だろうが許さない。
たとえ、それが僕自身であっても。
「僕は記憶が無い。二人のように元の世界の知識を活かしてこの国に貢献することはできないし、魔法を使って再現することも天上人として胸を張れるほどの実力もない。精々がこの体だけ。一般兵ならともかく、天上人として二人に釣り合えるほどの人間とは思えないんだ」
僕と彼女では釣り合わない。
彼女の手を取ること。
それは、彼女を僕のいる場所までひきずり落とすことに他ならない。
僕は、僕の手が届かないところまで二人が天上人として高みに上るのを見てみたいんだ。
僕はきっと寂しいと思うかもしれない。
だけどそれは、間違いなく僕が見たい未来。
「僕はソフィアの足を引っ張りたくない。ソフィアなら、もっといい人がいるはずなんだ。強くて賢くて優しい、物語の英雄のような人が」
「…………」
ソフィアが俯いた。
一瞬見えたその口元は、横にきゅっと引き結ばれていた。
今言ったことは、勝手な僕の願望だ。
もしかしたら、彼女は怒るかもしれない。だけど、僕も譲る気はない。
僕は、人が堕ちるのを見たくない。
薄暗い部屋の中、沈黙が落ちる。
やがて彼女は顔を上げた。
その顔は、笑っていた。
「私が元の世界でどういう人間だったか、知ってるわよね」
言われた言葉は怒りでも悲しみでもない、ただの確認の言葉。
「確か、脳外科医だったっけ。記憶に詳しいんだったよね」
そう、と。
ソフィアは覚えていたことが嬉しいのか、ぱっと笑顔の華を咲かせた。
元の世界。
天上人はみな、この世界の人間じゃない。
ある日、元の世界で死んで、気づけばこの世界にやってきていたらしい。
僕には元の世界の記憶がすべてないけれど、彼女は覚えている。
脳に関する研究を行っている医者だった。
でもそれが今なんだというのだろうか。
「私は外科医、っていうと少し違うけどね。研究者だったわ。研究のために、何人もの記憶喪失の人と話したことがあるの」
「記憶喪失? 僕と同じ?」
「そうよ。みんなと話をして、わかったことはいくつもあるの」
彼女は言いながら、握っていた僕の手を開き、ごつごつとした手のひらを撫でる。
「記憶をなくしても、人の本質は変わらない。創作なんかではよくある、記憶を失ったら人が変わったかのようにいい人になったりして、過去のジレンマと戦うなんてものがあるけれど、あんなのはフィクションだけよ。実際には違う」
傷だらけの手を愛おしそうに撫でられる。
「あなたはとてもやさしい人よ。記憶をなくす前から、それは一緒だったんでしょう。優しくて、人を守るためにどんなことも厭わない。こんなに傷だらけになってまで私たちを守ろうとしてくれるんだもの」
照れくさくて、僕は視線を泳がせた。
「それは、まあ……。記憶のない僕にとって、二人の存在は本当に大きかったんだ。二人がいなきゃ、僕はこうして生きている理由すらもわからないんだ」
「私も記憶が無い寂しさは知ってるわ。……いいえ、知った気でいるだけね」
ソフィアは顔を上げた。
笑顔を引っ込めた真剣な顔。
「何人もの記憶喪失の人に会ったって言ったわよね。そのときにわかったことがもう一つあるの」
「それは?」
「それはね。みんな孤独にさいなまれているってことよ」
その言葉には、心臓を直接掴まれたかのような衝撃があった。
まさしく、その通りだったから。
「それもそのはずよね。だって家族も友人も自分のことすらわからない。帰る場所もわからないし、何が正しいのかもわからない。何ができるのかも何をすればいいのかも、どうして今ここにいるのかも。みんな口をそろえて言うことがあるの」
――自分は世界でたった一人なんじゃないか。
「……」
「記憶を失った人は、誰しもが孤独に苛まれる。私はそれを知っていた。だから、記憶のないあなたの辛さをどうにかしたかったの。職業病って言ってもいいかもね」
困ったように笑う彼女を見て、僕は笑うことはできなかった。
「言ってみれば、私はあなたが弱っていることを知っていたのよ。優しくして付け込もうとしたのかも」
少しだけ茶化したソフィアの言葉に、ようやく僕は笑い、首を横に振る。
「そんなつもりはないくせに」
「いいえ? もしかしたら本当に弱みに付け込むつもりだったかもしれないわよ? これなら簡単に自分の男にできるなーって。ウィリアム、顔は悪くないし」
珍しい彼女の下手な冗談。
僕は彼女の手を握りなおして。
「もし弱みに付け込むつもりだったとしても、それでも僕は君に感謝する。こうして一緒にいられること、心の底から嬉しいと思う」
「……本当に? 弱みに付け込むなんて最低なことをしてるのよ?」
「最低なもんか」
即答する。
ソフィアは少しきょとんとした顔を浮かべる。
僕は精一杯笑う。
「弱さを知っても、それでもなお一緒にいてくれる。これ以上に嬉しいことは他にない」
「……ぁっ」
ソフィアが息を飲み、目を見開いた。
そのまま、数秒だけ固まって、
「……馬鹿」
蚊の鳴くような声で言った。
僕は聞こえないふりをした。
彼女がこういうということは、そのつもりはなかったとはいえ、どこか後ろめたかったかもしれない。
……優しいのは僕じゃなく、彼女の方だ。
ソフィアは一度深呼吸して、またいつものように話し出す。
「ウィリアム。あなたは私と釣り合わないから断るって言ったわよね」
「そうだけど」
「じゃあ、もし記憶が戻るとしたら……どうする?」
「え――」
いたずらっぽく微笑む彼女に対して、僕は一瞬固まった。
そんな荒唐無稽な話があるものか、と。
でも、逆にもしそんな夢のようなことがあるならば。
「記憶が戻ったら、そのときは僕から君へ言葉を贈る。家族になろうって」
いうやいなや、僕てのを握るソフィアの手が急に熱くなり、顔が一気に綻んだ。
「言ったわね! じゃあ約束ね!」
「え? ほんとに?」
冗談、とは少し違うけれど、あり得るとは思わなかったから、思わず疑いの声が出た。
するとソフィアは僕から手を離して、鼻歌でも歌いそうに足取り軽く部屋の中を歩きだす。
「言ったでしょ? 私は脳科学者。そして魔法使いなのよ? この数年、ひたすら私は記憶に関する魔法を探して探して探ったの」
彼女の言葉に、否応なく心が沸き立つ。
「そして、ついに見つけた」
全身に鳥肌が立った。
「そ、それじゃあ!」
「でもまだ安全性が確保できないから、今すぐには無理よ。もう少しだけ待ってね」
「そ、そっか……」
少しだけ焦りすぎてしまった。
でも、彼女の言葉は、僕にとってこれ以上ないほどの朗報だ。
記憶を取り戻して、天上人として胸を張れる。
そして――
「明日の戦いが終わったら、私はあなたの記憶を戻す」
「僕の記憶が戻ったら、僕は胸を張って君に言う」
彼女の手を取り、小さな体を抱き寄せる。
僕は必ず、彼女を守る。
オスカーと一緒に、三人でここに帰ってくる。
必ず果たす。
約束だ。
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