魂を売る黒い天使と名前のない恋人
乃木ちひろ
Ⅰ 早く帰りたい!
最近、オーナーの帰宅が早い。
ルゥが作る早めの夕食を火葬場のオーナー室で食べた後、郵便物を開けたり雑務を片付けるのがフランのルーティンなのだが、それを翌日に持ち越して帰ってしまうのだ。
「今日も何か用事がおありなんですか?」
ルゥはフランの秘書兼専属料理人だ。
以前、フランを事件現場に一人で行かせ、事件の黒幕と接触という危険な目に遭わせてしまったことがある。それ以来オーナーの行動を知らなかったでは済まされないと肝に銘じ、秘書としてオーナーの変化には敏感でなければならないと意識している。
しかしプライベートなところに立ち入るべきかは正直迷う。
「うん。今日も待ってるだろうから帰らないと」
白い歯を見せた笑顔の嬉しそうなこと。”まるで”なんて言葉はいらない。ふわんふわんの白金髪もあいまって、天使そのものだ。
「へぇ。いいですね、いつからですか?」
「うーんと、十日くらい前かな。夕方になるとうちに来てくれて」
「毎日ですか」
「たまに来ない時もあるんだけど、そうすると心配になっちゃってさ。今日はどうしたんだろうって居ても立っても居られなくて」
「その気持ちは分かりますけど」
「早く帰って一緒にいてあげないと。彼女には僕しかいないから」
これには閉口してしまった。従業員を抱えるオーナーの生活が恋愛中心になっていて、絵になる顔とセリフでのろけるだと。さて、これを聞かされた秘書はなんと答えるべきか。
ルゥが沈黙している間に、フランはさっさとオーナー室から出て行ってしまった。
あくる日、フランは目の下にクマを作って出勤だった。いつものようにガスストーブに火を入れておき、朝食にはアーモンドミルクの温かいスープを用意したのだが、フランは食が進まずあくびばかりしている。
「寝不足ですか?」
「昨日は一晩中寝かせてもらえなくてさ」
「そっ、それは激しいですね……」
「甘えてきてかわいいんだけどね」
もうベタ惚れじゃないか。
フランは一年ほど前に
アーモンドミルクは作るのに手間暇かかってんだぞ。
割れたり欠けてしまった大量のアーモンドを安く譲ってもらった。砕いてパスタにかけたり、蜂蜜で炒ったりして毎日出し続けていたら「リスじゃないんだからさ」と文句を言われてしまったので、ミルクにしてみたのだ。一晩水につけてふやかしたのをひたすらすりこぎで砕いて、布でギューッと絞って濾す。作業には根気と腕力が必要だが、フランの健康維持のためと頑張った。
その徒労をわざわざアピールするようなことはしないが、ちょっとくらい気にかけてくれてもいいんじゃないかと思う。おいしいよとか、一言あってもよくないか?
「行ってくるね」
「……行ってらっしゃい」
しかし完全スルーされ、いつものように仕事用の黒服に着替えて炉裏へ向かうフランの背中を見送った。
一人になると早速ぶちまける。
「なんだよ! フランさんを寝不足なんかにさせて、おれの努力を水の泡にしやがって! オーナーの健康維持もおれの仕事なんだだぞ!」
まだ見ぬ相手にはっきりとイラついている。
「付き合ってまだ十日だろ⁉ フランさんの偏食とワガママぶりを知らないだろうな! そんな女にごはんなんか作れるもんか」
そこで慄然とする。
もし彼女と一緒に暮らして生活を共にするようになったら、食事はやっぱり彼女が作ることになるだろう。そうしたらもう、ルゥのごはんなど必要なくなるのか。
「そしたらおれ、お払い箱……?」
考えてもみなかったが失職だ。いや、元の通り火葬場の厨房で働かせてもらえるだろうが、それは従業員のためだ。フランのごはんを作ることはない。フランを元気にするのが自分の使命と思っていたが、それがオーナーの幸せと引き換えに失われるのだ。
雑巾を手にしたまま、突然の虚無感に襲われる。
もちろん、フランには幸せになってもらいたい。その気持ちに嘘偽りはないけれど、こんなにあっさり自分の存在価値を失うことになるなんて考えもしなかった。
「フランさんが専属料理人に認めてくれて、おれのごはんを選んでくれたのに」
火葬場の厨房には熟練の料理長がいる。ルゥの師匠でもあるが、フランはなぜか料理長よりルゥのごはんを食べたいと言ってくれたのだ。気まぐれに専属料理人に選んでもらえていい気なっていたのが、急に浅はかに思えてくる。
もう、知らぬふりはできない。これはルゥにとっても重大な問題だ。
厨房に向かうと、すぐに昼食作りと夕食の仕込みを始めた。
炉裏での一日を終えたフランがオーナー室に戻ってきた。しかもこれから彼女に会うからか、入浴まで済ませている。
「あ、玉ねぎのスープだ」
黒鉄のぽってりした形のガスストーブ前のテーブルについて、蓋を開けたフランが笑顔になる。今日の夕食はフランが一番好きな玉ねぎのスープにした。
一時間以上弱火で炒めて飴色にした玉ねぎと、半日かけて仕上げたブイヨンのハーモニーはルゥ渾身の逸品だ。
——これで負けるなら潔く身を退こう。作っているうちにそんな気になった。
「うん、やっぱりおいしいなぁ。幸せ」
半年前に体調を崩して倒れたフランの命を繋いだのが、たまたま提供したこの一杯だったと後から聞かされた。その時ルゥは自信を失っていたが、おいしいと、また食べたいと言ってくれたのがほかでもないフランなのだ。
だから二人にとって特別な料理で、きっと自分だけの勝手な思い込みではないはずだと信じていた。今日までは。
「あの、もしご迷惑じゃなければ、この後ご自宅に伺ってもいいですか」
「別にいいよ。神妙な顔してどうしたの? 何か相談ごと?」
「いらっしゃるんですよね」
「え?」
フランの自宅は火葬場の敷地の端っこにある。重厚な白亜の石造りの火葬場とは対照的に、こちらは小さな木造の平屋で、玄関前の黒鉄のアーチには
「あ、今日も来てる。驚くかもしれないからそっとね」
そう言われて足音を忍ばせて向かうと、彼女はアーチの下にちょこんと座っていた。フランが近づくと「待ってたのよ」と言わんばかりに、ぴんとしたしっぽで足元へ体をすりつけている。
「にゃあん」
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