血の白百合先輩の消息
砂藪
第1話 血の白百合先輩の噂
やっと判別できたその女性の顔は、金の重しと木の持ち手だった。
つまりは、やっと見たその人の顔は、シーリングスタンプだったのだ。
「血の白百合先輩?」
「そう。私も襲われたし、他のクラスの子も何人か襲われているの」
そう
普段は晒されないその肘の内側には何か所も小さな虫刺されの痕があった。よくよく顔を近づけてみると、それは注射針の痕だと分かる。
問題はその注射針の痕が五個、いや、七個も蛍の肘の裏にあることだ。
彼女は、ごしごしとその痕を袖の布でこするようにしながら、袖を伸ばし、ターンナップカフスのボタンを留めた。
「そんな吸血鬼みたいな……」
「吸血鬼は首から血を吸うでしょう? 眠らせて腕から血をとっているから、これは人間の仕業よ」
「そんな身も蓋もない……」
茜が蛍とルームメイトの部屋の中を見回す。部屋の中は隣の茜の部屋と大した違いはない。ベッドが二つと机が二つ、それに合わせた椅子が二つ。机の上には教科書と文房具。
茜が椅子に座ると、蛍は彼女が使っていると思われるベッドに腰かけた。
「蛍さんがその、血の先輩」
「血の白百合先輩」
「血の白百合先輩に襲われたのは」
「襲われる……背徳的な響き……」
両手で自分の頬を包み込むようにして恍惚とした表情をする蛍に茜は口をつぐんだ。構わず、蛍は説明を開始した。
「血の白百合先輩に襲われたのは、約四人。全員が一年生で、Bクラスに二人、Cに一人、Dに一人」
白い枕の下に突っ込んだ蛍の手には濃い緑色のリングノートがあった。サイズはB5。表紙には茶色のテープが貼られており、そこには黒いペンで「血の白百合先輩」と書かれていた。
果たして、彼女から聞いたばかりで噂にもなっていないその事件の犯人について、リングノートの全頁を埋めるほどの話が出てくるのかと茜は気になったが、彼女の思考を置いて、蛍がノートを開く。
「一人目、先月末の三十日に北の図書館で襲われたBクラスの島田さん。二人目、今月二日に北の図書館で襲われたDクラスの横溝さん。三人目、今月五日に北の時計塔の中で襲われたCクラスの井口さん。そして、昨日、八日に北の図書館で襲われたBクラスの渡部さん」
ベッドに腰かけた蛍の手元は茜からは見えず、ただそのノートにはぎっしりと文字が書き込まれていることが分かった。
蛍はくいと顔の中心あたりに手を当てて、指で何かを押し上げる仕草をした。それが眼鏡を押し上げる仕草だと茜が理解すると同時にようやく、茜の目には蛍の顔にかけられた縁の細い丸眼鏡が映った。
「……眼鏡していたの」
「え? もしかして、顔が認識できないだけじゃなくて、眼鏡や小物も見えないの?」
「全部が顔だと認識してるから」
「今のところ、私はなんだっけ?」
「固形石鹸」
蛍は肩を竦めた。
「私、特別噂好きってわけじゃないんだけど……とりあえず、噂の検証をしたいのなら、ルームメイトと話したら?」
「待って待って!」
椅子から立ち上がりかけた茜の袖を蛍がノートから手を離して掴む。
「今回の血の白百合先輩の話を茜さんに持ちかけたのは、これを機にお姉様を作れるかと思ったからなの!」
茜はゆっくりと目の前の長方形の固形石鹸の輪郭をなぞるように視線をめぐらすと、腰を椅子に落ち着けた。
お姉様、というのは実際に血の繋がった姉ではない。この全寮制の女学院にて、先輩と後輩がペアを組み、至らない後輩を先輩が優しく導くという理想の姉妹像を体現した姉妹制度のことを言う。
学院が姉妹を作れと言っているわけではないが、この女学院には昔から学院公認でそのような繋がりが認められている。
必須ではないが、姉妹制度で繋がった先輩から各教師の試験の傾向や行事の際の注意事項など、事細かに教えてもらい、学院生活を円滑に進めるために、アドバイスをしてくれるという存在を求めているのは確かだった。
「茜さん、結局、紹介してもらった先輩の一人も顔が覚えられなかったんだって小耳に挟んだの」
「噂に聡いことで……」
茜は嘆息した。
彼女は人の顔が判別できない。
こうやって、名前や性格や声などを認識した上でその人個人を認識した場合は、顔が固形石鹸になっていたり、万年筆や消しゴムになっていたりとある程度の判別はつくようになるが、まったく知らない相手の場合、霞がかって見えるだけで、他の人物との判別ができないのだ。
それが原因で断ることも断られることも多数。
そうこうしている間に周囲の生徒はほとんどが姉妹として成立していた。
「ということで! 血の白百合先輩候補の二人の先輩がまだ妹を持っていないから、茜さんに調べてもらうと同時に姉候補としてどうかなって」
「……どうして蛍さんは自分で調べないの?」
真正面にあった固形石鹸がその平らな面を少しだけ背けた。
「それは……ちょっと……顔面に自信がなくて……」
「はい?」
「茜さんなら人の顔が見えないから緊張することもないと思うの! だから、お願い! 二人の……この学院一の美女、
学院一が二人もいるのか、と少々穿った思考をしながらも、茜は一つ息を吐いて、椅子の背もたれに背をつけた。
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