永遠の香り

森本 晃次

第1話 小学生の頃の淡い記憶

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。


 朝倉静香は、今年で十九歳になる高校卒業し立てであった。高校時代は女子高だったので、まわりはすべて女子、彼氏がほしいと露骨に叫んでいる友達の声を聞きながら、それをあっさりと聞き流しているような女の子だった。

 彼氏をほしいと思ったのは中学時代だった。ただ、それも一年生の時だけで、二年生以降では、

「汚らしいだけだわ」

 と、男子を毛嫌いしていた。

 小学生の頃は背も低く、小柄だったことで、目立つ存在でもなかった。高学年になってくると、女子の成長は男子よりも発達してくるということで、男子よりも背の高い女の子がいるくらいだった。

 ガタイも大きく、男子であっても、一対一では負けてしまうのではないかと思えるほどの女の子は、そんな自分の成長にコンプレックスを感じているのかm静香には分からなかった。

 逆に学年が上がっても、ほとんど背も伸びず、発育を一切感じさせない自分の身体に、半分嫌気がさしていた。もう少し大きければ、男子に交じって遊ぶこともできるだろうが、女の子の中でも一回りは小さく感じられる静香など、誰が相手にするだろう。相手にしたとしても、体よく利用されるだけになってしまうのがオチではないだろうか。

 そんなことを思っていると、いつの間にか一人でいることが多くなった。

 学校からの帰りもいつも一人だった。家に帰ってからすることといえば、本を読むのが好きだったので、それが救いだったかも知れない。女の子のくせに推理小説が好きで、テレビドラマでも、サスペンス物をよく見ていた。

――こういう性格だから、お友達ができないのかしら?

 と思ったこともあるが、まわりの友達のように、ミーハーだったりするのは嫌だった。皆が見ているものを見ていないと仲間外れにされるような雰囲気は、どうにも性に合わないと思っていた。

 静香は学校の帰り、時々近くにある公園に寄ることが多かった。その公園には、よくネコが集まってきていて、ネコたちと遊ぶのが好きだった。

 ネコというと、普通であれば、人間を見たり、人間が近づいてくると、一気に逃げてしまうものだが、その公園にいる一匹のネコだけは、静香に懐いていた。

「どこかで飼われているのかしら?」

 と思うほど、そのネコは慣れていて、最初こそ、じっとこちらを見つめていただけだったが、

――逃げないということは、近寄ってくるかも知れない――

 と思っていると、果たして近づいてきたので、心の中で、

「やった」

 と叫んでいた。

 ゆっくりゆっくり近づいてくるネコは、すでに懐いているのだろうと思うと、静香も顔がほころんでくるのを感じた。ネコは、

「ミャー」

 と一声鳴くと、そのまま静香の膝の上に乗ってきた。

 静香にはそれで十分だった。静香の膝の上で背中を丸くして佇んでいるネコの首筋を撫でてやると、またしても、

「ミャー」

 という声で鳴いている。

 顔は見えないが、本当に気持ちよさそうにしている背中を見るだけで、その顔が想像できるほど、自分がネコを好きだったのだということに、気付かされた気がした。

「ネコの額」

 と形容されるほと、ネコ派顔が小さいが、自分も小さいことにコンプレックスを感じていることで、ネコの気持ちも分かるし、ネコも自分の気持ちを分かってくれるのではないかと思ったのだ。

 普段は立ち寄ることもない公園だったが、その日立ち寄ったのは何か運命のようなものを感じたのは次の日も来てみると、まったく同じ場所にネコがいたのを見たからだった。

 種類は同じネコだったが、昨日と同じネコなのかと言われれば自信はない。しかし、まるで昨日を繰り返しているかのように、昨日のようにネコが近づいてくる。

「こういうのをデジャブというのかしら?」

 推理小説を読んでいると、時々心理学などの科学的な用語も出てくる。こんな難しい言葉を知っているというのも、その影響であった。

 次の日はネコはすぐには膝の上に乗ってこなかった。最初、脛の横に横顔を押し付けて、スリスリしていたが、指で昨日のように首筋を撫でてやると、

「ミャー」

 と昨日と同じ声を上げた。

 まさに、

「ネコナデ声:

 である。

「気持ちいい?」

 と言って声を掛けると、またしても甘えた声を出してくる。

 この日のネコ派少し甘い香りがした。何か拾って食べたのかも知れないが、背中から失費に掛けて撫でてやると、また背中を丸めて、気持ちよさそうだ、静香の方もネコの背中に生えている毛が心地よかった。触れるか触れないかというくらいの微妙なタッチがよかったのかも知れない。

 今度は顔が見えるので、その顔が昨日想像したような縦よりも横の方が広いのではないかと思えるほどの顔の広がり、そして、目は開こうともせずに、気持ちよさに身を委ねている感が果てしないその表情に、静香も見とれてしまって、身体を動かすことができなくなっていた。

 少しの時間が経ったのに気付いたのは、ネコが昨日のように、膝の上に乗ってきたからだ。膝の上ではいくら足を狭めているとはいえ、安定感がないはずだ。それを補うために、ネコ派背を丸めて、まるで臨戦態勢のようになっているのだろう。それでも膝の上に乗ってくるということは、それだけ膝の上が気持ちいいということであろう。それは誰のというわけではなく、静香の膝だからいいのではないだろうか。そんなネコを見ていると、少々のわがままは聞いてあげてもいいように思えてきた。「ミャー」

 とまた鳴いたのを見て。

「ヨシヨシ」

 と、また顎を撫でてやる。

 この繰り返しを何度となく続けてればいいのか、時間を忘れられる空間がそこに存在していた。

 その公園は、下校時間は子供が結構いるのだが、夕方の日が暮れる近くになると、一気に人が減っていく。夕暮れギリギリまで子供が遊んでいるということを裏付けているのだろうが、気が付けばまったく一人になってしまい、寂しさの風が吹いているのを感じさせられる。

 ほとんどの子供は親が迎えに来ていた。それだけ小さな子が多いのであって、ほとんどが低学年だった。

 四年生になっていた静香だったが、彼女も発育が遅かったので、見た目は二年生くらいに見られた。

「お嬢ちゃん、お母さんがまだ迎えに来てくれないの?」

 と心配して話しかけてくれるおばさんもいたが、

「おかあさん、お仕事でいないから。それに私はもう四年生なので、おかあさんが迎えにくることのない年齢なんだって思ってるわ」

 と言った。

 いかにも小さくて二年生くらいにしか見えないあどけない女の子がこんなことを言えば大人はどう感じるのだろう。

「大人びた子供だ」

 と感じるだろうか。

「生意気な子供だ」

 と思われたとしても、別に構わなかった。

 大人が子供をどんな目で見ているかということは子供の自分に分かるわけはないし、そんな何を考えているか分からない大人に気を遣う必要はないだろう。

 子供の中には明らかに大人に気を遣っているかのように見える子がいるが、いかにも気の毒で見ていられないところもある。しかし、本人がそれでいいのなら、別に問題はない。

――大人って何なのかしら?

 と考えるが、ネコの方がよほど子供たちのことを分かってくれているような気がする。

 同じ人間でも大人になるということは、自分が子供だった頃のことをすっかり忘れてしまうことをいうのだと思うと、ネコの方がなんぼかマシな気がした。

 そんな静香は、当時からあまり友達がいなかった。自分からまわりに溶け込むということが好きではなかったので、一人でいつも離れたところにいた。しかし、静香は人が寄ってくればそれを拒否するような性格ではなかった。

 どちらかというと、人が寄ってきてほしいと思っている方だと自覚もしていたが、それはネコと遊んでいた一件とも似ているかも知れない。

 そう、静香という女の子は相手が人間であっても、動物であっても、

「来る者は拒まず」

 という性格で、寄ってくるのがネコであれイヌであれ、人間であれ、大差のないものだったのだ。

 だが、さすがに自分に危害を加えたり、気持ちの悪い者は寄せ付けない。例えば、虫であったり爬虫類であったりすれば、さすがに他の人同様怖いと思うのであった。

 静香が思うのは、動物にしても人間にしても、自分に与えたいとか、何かを求めてくるのであれば、それは、

「来る者」

 として扱えるのではないだろうか、

 どうして皆は、人間と動物で差別するのか、それが分からなかった

 それと似た感覚であるが、男の子をどうしても意識できないでいた。気持ち悪いという思いもあったが、イヌやネコよりも男の子の方を、

「近い存在」

 として意識する意味が分からない。

 その分、女の子に対しては、イヌネコ同様に近しい存在であった。イヌやネコは、

「可愛がってあげたい」

 と思うのだが、女の子からは、

「可愛がってもらいたい」

 という意識があった。

 イヌやネコは自分が可愛がるものだという意識しかなかった。そのために、イヌやネコだけを相手にしていれば、自分を可愛がってくれる者はいないということになる。確かに親は祖母などは、自分を可愛がってくれているのだろうが(あくまでも皮肉だが)、自分が欲している可愛がってほしいという感情とはかけ離れていた。親や祖母にとってあくまでも自分は、

「目下の者」

 であり、その感覚は静香にとっての、イヌやネコに対してのものだ。

 それは嫌なのだ。上下関係があったとしても、それはあくまでも血のつながりのようなものではなく、相手を求める感覚がほしいのだった。

 好きになった相手を愛でる気持ち、そこには信頼関係がなければいけない。躾をするにしても、

「親の責務だから」

 などという遺伝的な感覚ではなく、もっと感情的な、激しく求めあう中での自分たちだけの法律のようなものがほしいのだ。

 親が嫌いというわけではないが、世の中の仕組みに従わなければいけないというような縛りを持っていて、しかもそれを子供に押し付けようとしているのだ。それを躾というのであれば、そんな躾はいらないと思う。

 ただ、大人に逆らえない部分があるのは確かだ。子供一人では生きてはいけない。子供を育てるのは、生んだ親の責務である。そういう意味での躾が必要だというのであれば、理屈は分かるが、それが、

「親の方が偉い」

 と履き違えているのだとすれば、それは飛んだ笑い種と言えるのではないだろうか。

「トンビがタカを生んだ」

 という言葉があるように、子供が天才として生を受けたのであれば、親の躾など、あってないようなもので、世間一般的な躾で、せっかくの天才児を潰してしまうとも限らない。

 そういえば、

「二十歳過ぎればただの人」

 という言葉もあるが、いくら子供の頃に神童と言われていても、環境や教育によって、天才がただの人に成り下がることだってあるのだ。

 そんな静香は、親を親とはほとんど思っていなかった。

「何て親不孝な娘なんだ」

 と言われるかも知れないが、静香の父親は義父であった。

 静香が幼稚園の時に母親が離婚、そして実家に戻ったのだが、その時スナックでアルバイトをして何とか、家にお金を入れて、生活をしていた。

 だが、そのスナックで知り合った男性と仲良くなったようで、その男がいう通り家を出て、同棲を始めた。

 それは、静香も実家に置いたままのことで、さすがに祖母が静香の母親のところに直談判に行き、

「結婚するのかしないのか。中途半端なことはしなさんな。あんたには娘がいるんでしょう」

 と言って諫めたが、さすがに母親も相手の男を説き伏せたようで。結婚することに決めたのだった。

 だが、父親になる人は結局は母の紐のようなものだった。仕事も定職についていないようで、母親がスナックのアルバイトだけではやっていけないので、昼はスーパーのレジをしていた。

「これがあんたの望んだことなのかい?」

 と言って、母親から静香を引き離して、一緒に暮らそうとも言ったが、母親は、

「自分が育てる」

 と言って聞かなかった。

 そこまで言われればいくら祖母でもどうしようもなく、

「お母さんがあまりにもひどかったら、おばあちゃんのところに来なさい」

 と言ってくれた。

 静香は、

「うん」

 と言ったが、実はあまりおばあちゃんのことを好きにはなれなかった。

 母親が今はあそこまでひどいので、おばあちゃんが何とか説得しているように見えるが、考えてみれば、母親もおばあちゃんに育てられたのではないか。元々の種を作ったのがおばあちゃんだという意識は小学四年生になった静香には、ウスウスではあったが分かっていたのだろう。

――おばあちゃんも信じられない――

 という思いが強かった。

 特におばあちゃんは、世間体を気にする人だった。服装や日ごろの言葉遣いなど、結構厳しく躾けられた。

――そこまでしなくても――

 とは、静香でなくても感じることであろう。

 世間体を気にする人は、上下関係に厳しいのではないだろうか。自分はまわりの世間に対してへいこらと低姿勢になるくせに、自分の身内に対しては、身内の中では自分が一番上だという意識を持っている。

 そのせいもあってか、まわりが一番強く、その次に自分がいて、そしてその下に家族がいるという階層を勝手に作ってしまい、それが差別的な発言をしても、何ら悪気がないという意識に立っているのではないかと思えた。

 特に、昔の人は差別教育などを受けていないので、今では禁止になっている差別や放送禁止用語などを、平気で口にしたりする。特に母親などは、その傾向が強かったに違いない。

 差別は用語というよりも、感情が口から出ただけで、その精神の異常さは、言葉の意味が分からなくても、それが差別であるということは分かるような気がした。差別を口にする時や、人を蔑んでいる時の口調は明らかに変であり、

「これがおばあちゃんの本当の口調なんだ」

 と思えて仕方がなかった。

 これほど気持ちの悪いものはなく、好き嫌い以前の問題で、聞いているだけで呼吸困難になるほどの胸糞悪さを感じていた。

 これは、また下品な言葉を使ったものだ。それほど自分の言葉に気付かぬほど、何度も聞かされた口調だったのかも知れない。

 特に相手が孫だと思うと、

「目に入れても痛くない」

 と言っているほどで、その気持ちに変わりはないだろう。

 だが、それがゆえに、

「自分の血を引いている」

 という意識が強く、その分、自分の気持ちは何でも分かるという錯覚に陥っているのではないだろうか。

 もしそうだとすれば、大人というものがどういうものなのか、自分が分かる時が来ると、絶対に自分の子供には、

「今自分が感じている思いをさせたくない」

 と思うに違いない。

 静香という女の子はそういう小学生だったのだ。

 そんな四年生の時、初めての経験をした。相手は女性だった。自分よりも少し年上、制服を着ていたことから近所の中学生のお姉さんだったようだ。

「お嬢ちゃん、いらっしゃい」

 そう言って、静香を怪しく誘う。

 その日の夕方の公園、いや、もう日が暮れかけていただろうか。静香の手を引っ張るように、どこかに連れて行こうというのだ。

 彼女は静香の手を引っ張りながら、掌を弄んでいた。指で掌の諮問をツーっと触っている。

「ああ」

 思わず漏れそうになる声を静香は堪えた。

「どこに行くんですか?」

 と訊ねるが、教えてはくれない。

 どうやら、近所のマンションのようだった。そこの扉をカギを使って開けた。どうやら彼女のマンションのようである。

「お邪魔します」

 と、言って部屋の中を見ると、静香の部屋とあまり変わりないような大きさであったが、家具の数は思ったよりも多く、自分よりも裕福なことは分かった。

 まずは、リビングに座らせてくれて、

「喉が渇いたでしょう? 何か飲む?」

 と言われたので、

「お茶でもあれば」

 というと、彼女は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、水屋の扉を開け、そこから取り出したグラスに注ぎ、

「さあ、どうぞ」

 と言って、進めてくれた。

「ありがとう」

 と言って、一口飲むと、思ったよりもおいしかった。

 おいしそうに飲む静香を横目に見ながら、いつの間にか自分もウーロン茶を注いでいて、一緒に飲んでいた。

「お嬢ちゃんは、いつもあの公園で一人のようだけど、お友達がいないのかしら?」

 と聞かれたので、

「ええ、私は一人でいる方が気が楽なので」

 というと、

「そうなのね。そんな感じがしたわ」

「どうして?」

「だって、あなたを見ていると、私、自分を見ているような気がしてくるから」

 と言って、静香を見つめた。

 すでにその視線は目がトロンとしていて、その視線が静香の身体を舐めるように見ているのが分かると、少し怖いというよりも気持ち悪かった。だが、逃げ出したくなる感覚ではなく、どちらかというと、気持ち悪さの中に心地よさがあった。気持ち悪いと言っても、滑っとした感覚があっただけで、気のせいと思うくらいうっすらとしたものだった。だが、心地よさはまるでハンモックの上に乗っているかのような揺れをともなうもので、公園のブランコのように揺れを伴うものは、心地よいのだとずっと思っていたので、まるで今それを証明しているかのようだった。

 そう思っていると、次第に身体が左右に揺れてくるような気がした。今のウーロン茶に何かが入っていたわけではないのだろうが、身体の力が抜けていくような感覚だ。

「あら? 大丈夫?」

 と、言って私の身体を支えてくれたお姉さんに、

「ええ、大丈夫です」

 というまでが、自分の意志だったような気がする。

 そこから先は、お姉さんのするがままだった。静香の小さな身体を抱きかかえるようにして、彼女はベッドのある部屋に連れていってくれた。その部屋には、アニメのポスターなどが貼ってあり、お姉さんの部屋であることは、ボンヤリとした感覚が捉えていた。

「大丈夫よ」

 と耳元で囁きながら、静香の身体をゆっくりと触っていた。

 服を脱がせるようなことまではしなかったが、身体を触る指がまるで虫のように這っていたのだが、嫌な気がしなかった。ただ、じっと身を委ねていると、呼吸が荒くなってきて、きっと声も漏れていたかも知れない。

 呼吸が荒くなると、鼻が敏感になるのだろうか、さっきまでは気付かなかったが、何か甘い香りがする。

 最初は彼女が香水でもつけているかと思ったが、その部屋に漂っている匂いのようだった。その香りが何かは分からなかったが、静香の身体が反応を始めた時、今度は鼻を突くツンとした臭いを感じた。その臭いが汗であることに気付くまで少し時間が掛かった。その臭いが自分の身体から発せられるものだと思うと恥ずかしく、恥ずかしいという思いがさらに恥じらいを持たせた。

 お姉さんは、相変わらずニッコリと微笑んで、静香を見下ろしている。部屋の中はまるで空気が薄くなったかのように、何も音がしていないが、耳鳴りのようなが聞こえてきた。それは薄い空気の中で必死に息をしようとしている証拠だったように思う。意識が薄れているのも、この空気の薄さが原因のように思えた。

 しかし、同じ世界で、一か所だけ空気が薄いなど、あり得ることではない。どこかの研究所でもあるまいし、そんなことありえないはずだ。

 となると、彼女の何かの術にでもかかっているというのか、それとも、自分が欲していたものが、目の前にあり、そして自分が想像している通りのストーリーが展開されているかのようで、

――今だったら、これを小説にでも書けそうだわ――

 と思うくらいに、先が読めている自分を不思議に感じていた。

 この状況で恐怖を感じないのは。自分が想像した通りに目の前のことが経過していってるからではないだろうか。それを思うと、静香はゆっくりと頭をもたげてきた妄想に、身体を委ねることが必然に思えた。

――これほどの快感なんてないんだわ――

 と思った。

 もちろん、こんなことが永久に続くわけもないし、身体がもつとも思えない。いずれどこかで終わりが来る。その前に、自分の気持ちが何に正直になっているのかを突き止めたいと思うのだったが、思考回路を働かせるには、あまりにも身体がいうことを聞かなかった。

 もっとも、思考回路が働いていれば、こんなにも快感が得られることはなかったと思うのだが、それが実に皮肉なことなのかと思うと、思わず笑ってしまうのを感じた。

「何かおかしい?」

 と彼女は言ったが、自分の今の心境が正直に顔に出ているようだった。

「いいえ」

 すぐに顔を元に戻して、静香は答えた。

 静香にとって、この時間は今までに感じたこともない時間で、心地よさに酔いしれている中で、香水の香りがしたことを気にしていた。

 香水の香りに汗の匂いが交り合い、本当は嫌いなはずの汗の匂いが妖艶な雰囲気とも相まって、ここまで不思議な感覚にするとは思わなかった。まったく違った種類の匂いが交り合えば、基本的には気持ちの悪いものという認識だった。それなのに、ここで感じた匂いはそれぞれに想像以上の効果をもたらしていた。汗の匂いも決して嫌ではない。感覚がマヒしてしまっているのかも知れない。

 だが、汗の匂いを意識していないと、香水の香りもしてこなかった。どちらかを意識すれば、どちらかも感じる。しかし、どちらも感じなければ、まったくの無臭の感覚だった。

 無臭の時間帯もあった。それが嗅覚をマヒさせているのかも知れない。

「いや、嗅覚がマヒしていたわけではなく、伝わった脳が、意識していなかっただけではないか」

 この思いは小学生の女の子には難しい感覚であるため、きっとその後のどこかでこの時のことを思い出して、そう思ったのかも知れない。思い出したとすれば思春期の時期なのだろうが、ある理由から、静香は、

「それもちょっと考えにくい」

 と、大人になって思い返すのだった。

 その時に、身体の感覚がマヒしているのは感じた。しかし、身体の感覚がマヒしている時というのは、意外と他の感覚は研ぎ澄まされていることも多いのではないだろうか。

 例えば目隠しをされている時など、臭いや音には敏感だったりするように、何かどこかの感覚がマヒしていると、他の場所が敏感に作用するというのは、人間の本能だと言ってもいいだろう。

 静香はお風呂に入っている時、熱で身体が敏感になりながら、聴覚が発達しているのではないかと思うことがあった。確かに風呂というのは、蒸気のせいで、音が反響しているのだが、その音がまるで遠くから聞こえてくるかのように感じた。その理由は考えたことがない。考えようとすると、のぼせてしまう気がするからだ。

 風呂場でのことはその場所でないと考えることができないと思っている。環境が変われば錯誤が怒り、まったく違った結論が導かれると思ったからだ。

 さすがにここまで綿密には思わないまでも、風呂場の感覚は自分の中で信じられる感覚だったということに間違いはないだろう。

 その日は、心地よさだけを感じ、身体が絶頂を迎えることはなかった。彼女にそこまでのテクニックがなかったのか、それともわざと寸止めの形になったのか。大人になれば、寸止めは耐えられないと思っていたが、子供の頃はそうでもなかったのだろう。

 そもそも絶頂というものを知らないはずなので、どうすれば得られるものなのか知る由もない。いや、それ以前に、絶頂というものの存在すら知らないのだ。だから、心地よさで満足していれば、それでよかったのだろう。

 しかも、まだ思春期にも満たない幼女と言ってもいい身体である。そんな女の子を思春期の女性が悪戯している。これがどれほどの罪なのかも分かるはずもなく、ただただ身を委ねていた。

 その日を境に、お姉さんとは数回お姉さんの家で、心地よさを味わった。そのせいなのか、まわりのクラスメイトの視線が違って感じられた。

「これを痛いというのかな?」

 視線が確かに痛がった。

 何かに突き刺される感覚で、チクチクするのだが、実際にはこそばゆいという感覚だった。

 あれは、毛糸のセーターを着ていたので冬だったと思うが、ドアのノブを触った時、ビリッとした感覚になったのに驚いたのを思い出した。あれを、

「静電気というんだ」

 ということは知っていた。

 そのチクチク感が、どこかその静電気に似ていて、静電気は一瞬だけバチッという痛みを伴うが、今感じているまわりからの視線には、こそばゆさがあった。まったく違うものではあるのだろうが、なぜか最初に思ったのは静電気だった。どこかにかかわりがあるのかも知れない。

 そんなまわりの視線の中で、自分が自然と背中に汗が滲んでいくのを感じた。臭いが背中から感じられるほどである。しかし実際には自分の汗の匂いを自分で感じるということはないので、気のせいであろうが、それと同時に今度は、香水の香りがしてきた。

 今度の香りは、お姉さんの部屋で嗅いだ、あの甘い匂いではなく、柑橘系のレモンかオレンジのような香りであった。どちらも嫌いな香りではないが、汗と交りあって感じると、柑橘系の方が、まだ好きになれそうな気がした。

 まだ、小学生ということもあり、香水の香りにはきついという思いしかなかったからである。

 香水にはいくつも種類があるだろう。その中でどれを好きになるか、その人の感覚である。お姉さんと一緒にいる時に感じた甘い香り、まわりからの痛いばかりの視線を浴びて描いた汗で感じた柑橘系の香り、どちらも意識としては静香の中に残っていた。だが、意識として残っている間は思い出すかも知れないが、それを記憶として別の場所に行ってしまうと、実際にその香りを嗅がない限りは思い出すことはないだろう。小学生の頃の静香はそんな女の子であったが、五年生になってから、お姉さんが誘いに来ることはなかった。

 自分以外の女の子に触手を伸ばしたのか、それとも自分が成長し、男性に身を委ねるようになったのか分からない。ひょっとすると、静香の成長に彼女の方が飽きたのかも知れないと思った。あくまでもお姉さんは幼女がよかったのだろう。

 それを思うと寂しいというよりも、ホッとした感覚になった。

 お姉さんとのことを忘れることはできないという思いはあるが、無理に思い出すこともないような気がした。こちらも、意識からいつの間にか記憶になる日がいつの間にかやってきていて、すでにお姉さんの顔がぼやけて思い出せないほどになっていた。

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