空色の紙ひこうき
南雲
空色の紙ひこうき
≪プロローグ≫
カチッ。
時計の針の音が部屋に響く。
ふと外に目をやると、空が白みかけていた。
どうしても寝付けなくて、いつも寝落ちするのに使っている本を開いてみたのだが、どうやら朝になってしまったみたいだ。
あと1時間後には家を出なくてはならない。
はあっとため息をついて、本を閉じる。
頭も体もくたくたなのに、動悸がはやくて、神経が逆立っている。
仕事に行く準備をする気にもなれず、ソファに腰を下ろすと、身体が重く沈みこんでいった。
≪第一章 失踪≫
デビューしたのはいつだったか。
ずっと前のような、ついこの間のような。
高校で出会った仲間たちと、楽器片手に上京してからというもの、目まぐるしく変化していく周囲や環境に、俺たちは必死で食らいついてきた。
決して楽な道ではなかった。
日常的に嘲笑されたり、追い返され、自分も仲間のことも信じきれなくなって、夢を見たことを後悔したことも、一度や二度じゃない。
何度も壁にぶつかる度に、積み上げてきたものを壊して、一からやり直した。
届きそうでいて、一生届かないのではないかと思われた夢が叶ったのは、そんな日常の小さな努力がきっかけだった。
メンバーの一人がバイト先に頼み込んで流してもらっていた俺たちの曲を、たまたま音楽事務所の人が耳にしたのだ。
ほんの小さな切れ目から水が溢れだすように、夢見ていたことが次々と現実となって押し寄せてきた。
ちゃんとしたレコーディングスタジオで、ちゃんとした機材で録った音源を聞いたときは、文字通り心が震えた。
曲が売れ始め、メジャーデビューをし、ライブではテンションが上がりすぎて、軽いむち打ちになった。
店頭に並ぶCDを目にする度に、写真を送り合ったりもした。
しかし音楽だけではなく、エンターテインメントも重視している所属事務所では、俺たちが想像していたよりも沢山の仕事が舞い込んできた。
ハードなスケジュール、どんどん増していくプレッシャーの中、沢山の『夢』に押しつぶされ、いつしか『日常』がわからなくなっていった。
「なんか・・ずっと宇宙空間に漂っているみたい。」
深夜のレコーディングスタジオで、そう呟いたのは誰だったか。
オンもオフも一緒に過ごしていたバンドメンバーとの時間も、個々の仕事が増えるにつれ、徐々に減っていった。
同じ夢を見ていた仲間が、いつの間にか『仕事仲間』になっていき、会っても事務的な話を手短に済ませるようになったのだ。
そうやって一緒に回っていたはずの歯車は、一つずつ離れて回りだし、ある日突然君は姿を消した。
≪第二章 過去≫
俺たち5人の出会いは高校生の時だった。
特に得意な事もやりたい事もなくて、毎日放課後に集まっては、くだらない話をして時間を潰していた。
その日もだりぃなんて言いながら、何をするでもなくグラウンドで汗を流している奴らを眺めていた。
ピーっとグラウンドを響き渡るホイッスルが途切れるのと同時に、佐野と小宮がバッと立ち上がった。
「あ、あのさ!!!!」
小宮が大きな眼鏡を何度もくいくい直しながら、上擦った声をあげた。
「うわ、びっくりした」と、女子テニスのコートにくぎ付けだった和田と須藤が振り返る。
小宮は隣で棒立ちになっている佐野の脇腹を肘で小突く。
「お前が言えよ」
「何だよ、お前が先に言ったんだろ」
と何だか二人でもぞもぞ言い合っている。
そういえばこいつら、朝からずっと何か言いたそうにソワソワしていたな。
「どっちでもいいから、早く言えよ」
和田が少しイライラしたように、ため息をつく。
小突き合っていた二人は慌てて姿勢を正すと、意を決したように目くばせをした。
そして
「バンドやろう!」と声高に言い放ったのだ。
「はあ!?バンド!?」
たっぷり5秒ほど開けて、俺らは口を揃えて叫んだ。
今まで佐野からも小宮からも音楽が好きだとか、音楽をしたいなんて話を聞いたことがなかった。
「お前、冗談は休み休み・・・」
と和田が鼻で笑いながら茶化そうとしたが、佐野の顔を見て言葉を詰まらせた。
いつもの死んだような目からは想像がつかないくらい、佐野の瞳はキラキラと輝いていたのだ。
ふうっと息を吐くと、真剣な顔になり濃い眉毛を寄せ、
「なんでまた急に。」
とどかっと地面に座りながら聞いた。
「日本一のバンドになろうや!」
さっきから興奮状態の佐野は、須藤の身体をガタガタ揺らしながら叫んでいる。
完全に和田のことは眼中に入っていないみたいだ。
はあ?って和田が気色ばむのを抑え、出来るだけ落ち着いた声で佐野に問いかける。
「佐野、ちょっと落ち着けって。大体皆音楽したことあんの?俺は未経験だよ?」
「俺と小宮はずっと音楽してんだ!」
「和田と須藤もだろ?」
さっきからずっと動きが止まらない佐野の横で、小宮がそう聞きながら和田と須藤に眼を遣る。
一年以上一緒にいるのに初耳だ。
しかもどうやらみんなはお互い知っていたみたいだ。
静かにショックを受けていると、佐野にポンっと肩を叩かれる。
「蒼井は頭良いから大丈夫だよ。な、やろうぜ!」
え?そういうもん?と思ったが、口に出ずに代わりにため息となって吐き出された。
佐野の突拍子の無い発言は今に始まった事ではない。
ただ慎重な小宮が乗っているとなると話は別だ。
かなり本気度の高い提案となる。
しかしそろそろ大学受験がちらつくこの時期に、こんな夢みたいな話誰が乗るだろうか。
「バンドか・・。」
低い声が響く。
顔を上げると、いつもだったら絶対笑い飛ばすだろう須藤が、顎に手を当てて考え込んでいる。
何となく集まっている俺らのリーダー的存在な須藤は、発言力が絶大だ。
その須藤の乗り気な様子に、嫌な予感がする。
「な、悪くないだろ?実はもう小宮と一緒に曲を作ってみたんだ。」
そう言うと、佐野は携帯を取り出した。
「ええ?いつのまに!?」とそれまで不貞腐れていた和田が身を乗り出す。
「俺もやるときゃやるのよ。」と小宮がふふんと得意気に鼻を鳴らす。
この間和田に「お前は山だな!動かざることってやつ!」と言われたことを根に持っているみたいだ。
「いわゆるデモテープってやつになんの?」
「すげえ!本格的じゃん」
わいわい言いながら集まっていく4人。
展開の速さに、ちょっと待って、と焦る僕を置いて、再生ボタンが押される。
小さな咳払いが聞こえると、ゆっくりギターの音が流れ始めた。
柔らかく暖かいギターの音と、佐野の耳馴染みの良い明るい声。
オレンジ色に染まった教室で、男5人が頭を寄せ合い、小さな箱から流れでるメロディーに耳を傾ける。
まるでそこだけ時が止まったような感覚に、鳥肌が立った。
お世辞にも良い出来とは言えなかったが、粗削りで理想のてんこ盛りみたいなその曲は、宝の地図のようにキラキラと輝いて聴こえた。
曲が終わっても、しばらく誰も声を出さずに、グラウンドから聞こえる声だけが遠くで聞こえた。
「担当は?」
和田が静かになった携帯から、目を離さずに聞く。
「和田はギター。ドラム、ピアノは須藤と小宮。俺がボーカルするから、蒼井はベースでどう?」
佐野の目がキラッと光る。
それを見て、
「最高じゃん。」
と和田が楽しそうに口の端をもちあげた。
これはバンドをやる流れに・・・
「おい。」
ずっと微動だにしていなかった須藤が口を開く。
初めて聞く、低く響く芯のこもったその声に、俺は大学受験ではなくベースの勉強に追われるだろう、ということを予感した。
みんなが須藤を見つめる。
その目は爛々と輝いていた。
「やるなら本気でやるぞ。」
そういうと須藤は佐野の頭に、大きな手をポンと乗せた。
教室に吹き込んだ風が、佐野の前髪を散らす。
オレンジ色に染まった顔が、太陽よりも明るく輝いた。
「「「「「やるぞ!」」」」」
日々を消費するだけだった僕たちの道は、そこから始まったのだった。
≪第三章 君が消えた日≫
その日は、別段特別なことがあったわけではなかった。
新曲のMV撮りで、久しぶりにメンバー全員と顔を合わせた。
いつものように、さして挨拶を交わすこともなく、個々の定位置に着き、各々の時間を過ごす。
決して仲が悪くなった訳では無い。
寧ろ仲良しグループとして名が通っているほどだ。
プライベートでの関わりはほとんど無くなったが、喧嘩らしい喧嘩をしたことはない。
仕事仲間でありながら、気を使わなくても良い、貴重な相手だ。
MV撮影が始まり、色々なパターンや動きを交えて演奏していく。
血の滲むような努力の結果、曲もパフォーマンスも年数を重ねるごとに洗練されていった。
しかし寄る年波には勝てず、20代のころに比べると体力が少しずつ衰えているのを感じる。
「少し休憩を取りましょう。」
ふうっとスタジオの端に置いてあった椅子に腰をかけ、水分補給をする。
どことなく疲れた雰囲気がスタジオに漂う中、明るい笑い声がスタジオに響き渡った。
振り返ると、メンバーの中で一番小さな体が、カメラの前で飛び回っていた。
「何やってんだアイツ」呆れながらも和田が笑う。
「佐野はずっと元気だよねえ、何食ってんだろ」と小宮がタブレットから目を離さずに、呟く。
休憩中も仕事をしている小宮も、充分体力おばけだと思う。
「おーい!佐野、映像チェック!」
須藤がモニターの前で手招きをしている。
「お、俺も行こう」和田が水分補給もほどほどに立ち上がる。
うちのメンバーはみんな仕事熱心だと、明日の仕事の資料に目を通しながら息を吐く。
「ほーい!ただいま参ります!」とダッシュで向かう佐野に「無駄な体力使うな!」と和田が突っこんでいる。
「佐野さんは、本当にムードメーカーですね」と横に居たスタッフさんが感心した様子で話しかけてきた。
確かにどれだけ仕事が忙しくなっても、疲れがたまっていても、疲れた様子を見たことがない。
常に明るく元気いっぱいだ。
疲れやすい俺としては、羨ましい限りだ。
「おい!お前また見切れてるじゃねえか!」と和田の怒鳴り声が聞こえてくる。
どうやら佐野が動き過ぎていたみたいだ。
「ま、元気すぎて困るときもありますけどね」と横に居たスタッフさんと一緒に笑う。
全ての映像を取り終わった後でも、佐野は最後まで楽屋に残っていた。
いつものように「ええ~!もう行くの?ちょっと駄弁ろうや~」と駄々をこねている。
「すまんな。引っ張りだこでな」ふははっと大魔王のように笑って去っていく和田に、「うぜー」って顔をしかめている。
次々と帰り支度を終えたメンバーが去っていく中、ぼんやりと出口を見つめる背中がやけに寂しそうだった。
「ほら、明日も会うから」と声をかけると、
「そうだけど・・・」と珍しく俯いてもごもごと言い淀んでいる。
「そう・・なんだけどね・・」
顔を覗くと真っ黒な目が虚空を眺めていた。
初めてみるその表情にざわっと嫌な予感がしたが、僕も次の現場に向かわなくてはいけない。
佐野だってそうなのに、背中を丸めたまま椅子に座っている。
様子がおかしい。
時計をチラッと確認して、「また・・明日」とおそるおそる反応を伺う。
すると、佐野は弾かれたようにこちらを振り返った。
「おう!」
そう元気よく言って、いつものようにクシャっと笑った顔に、ほっと胸を撫でおろす。
良かった、大丈夫そうだ。
考え過ぎだった、と思い直して、そのまま足早に楽屋を後にした。
≪第四章 失踪のあと≫
グループのメッセージが動いたのは、次の日の朝だった。
朝の情報番組の仕事を終え、楽屋に戻ると、マネージャーが焦った声で電話しているのが聞こえてきた。
「まだ連絡つかないんですか?え?・・・そんな・・・困りますよ・・・」
何かあったのかなって思いながら携帯を開くと、メッセージの通知が100件を超えていた。
それを目にした瞬間、頭で理解するより先に指先が痺れていくのを感じた。
冷や汗が流れる。
震える指でメッセージを開く。
「佐野が行方不明。」
目に飛び込んできたやり取りに、絞り出したような声が漏れでる。
昨日の佐野の目が、姿が、コマ送りで脳内に流れだす。
分かっていたはずだ。
気付いていたはずなのに。
「大丈夫」ではなかったのだ。
そこからは心も体も、何もかもがチグハグで、白昼夢を見ているようだった。
警察からは事件性は薄く、事故に巻き込まれたという報告もない、との説明を受けた。
誰とも視線が合わない静かな話し合いで、見つかるまでは佐野は病気で入院中と周りに説明するように言われた。
携帯も大好きな音楽も置いて、忽然と姿を消した佐野を、メンバーも手当たり次第探したが、見つからなかった。
それもそのはずだ。
普段佐野がどこに居て、誰と、何をしているのか、知っているメンバーは、一人もいなかったのだから。
君が見つかったのは、失踪してから数日後だった。
高速の横でふらふらと歩いているところを、保護されたらしい。
暗く重い雰囲気が垂れ込める楽屋に、マネージャーが「見つかりました!」と飛び込んできた時には、皆一斉にが飛び上がった。
ずっと張りつめていた楽屋に、安堵の吐息が溢れ、マネージャーはすぐさまメンバーの質問攻めにあった。
「精神状態が不安定らしくて、会えるのは暫く後になりそうです。」とマネージャーは興奮した和田に胸ぐらを掴まれながら、言った。
後から聞いた話だが、軽い脱水状態なだけで、怪我もなく発見されたのは奇跡に近かったそうだ。
それでも見つかったらすぐに会えると思っていた僕らは、がっくりと肩を落とした。
面会の許可が出た途端に、皆で病院に向かった。
病室で見た佐野はすっかり痩せていて、真っ黒な瞳には、何も映っていなかった。
焦点の合わない目で虚空を見つめる君と、あの日の楽屋での君が重なって見えた。
久しぶりに会える!と、意気揚々と病室に入っていったメンバーは、その姿を見て一様に言葉をなくした。
「あいつがいつでも帰ってこられる場所を、俺たちで作ろう。」
病室から出るなり、俺たちは涙を浮かべて肩を組んだ。
≪第五章 そして現在≫
「着きましたよ」
その声にはっと目を開けて、辺りを見渡す。
窓の外には新緑が広がっている。
あの後、結局一睡も出来ずに家を後にしたのだが、車で揺られているうちに、落ちてしまっていたみたいだ。
車から出ると、少しだけ暖かくなった風が迎えてくれる。
「蒼井さん、入られまーす」
「よろしくお願いします」
隈はファンデーションで隠し、笑顔で挨拶をする。
「お疲れ様です!車回して来るんで、少しお待ちください」
滞りなくロケが終わり、マネージャーがバタバタと走りながら声をかけてくる。
「あ、じゃあちょっとそこら辺散歩でもしてるから」
少し一人になりたくて、河川敷をぶらつく。
もう4月になのに、行儀よく並ぶ桜並木は、まだ蕾のままだ。
心地よい春の陽光に包まれ、疲れがじんわりと滲みでてくる。
気丈に振舞っているが、最近はメンバーも疲れの色を隠しきれていない。
ピンクの蕾を眺めながら、ちょこちょこと皆の間を駆けまわり、元気を振りまいていた佐野を思い出す。
あれから何度も病院へ通って、何度も空っぽの君に言葉をかけた。
あの日、佐野の異変に気付いていたのに、楽屋を後にしてしまった罪悪感と後悔を抱きながら。
固く閉じた蕾を見上げる。
「いつになったら咲くのかな」
ふっと呟いた言葉はやけに寂しく響いて、やりきれない感情をぶつけるように、俺は蕾に向かって乱暴に手を伸ばした。
「あー!!だめだよ!」
突然、河川敷に声が響き渡った。
それは少年のような、少女のような。
はたまた老人のような、不思議な声。
思わずびくっと身体を縮こまらせる。
そろりと声のした方を伺うと、よもぎ色の羽織が目に映った。
ゆっくりと上に目線をあげていくと、くりくりとした頭を揺らしながら、ソイツは笑っていた。
それは蜃気楼のように僅かに揺らめいていて、時折少年にも、少女にも、老人のようにも見えた。
何とも形容し難い。
空は空であるように、海は海であるように。
今目の前にある存在は、それ以上でも以下でもない。
そんな雰囲気を漂わせていた。
「今、寧ろうとしたでしょ。」
クスクスと笑っている。
答えられずにいると、「どうして?」と、心底わからないっというように首を傾げる。
直接頭に響いてきているみたな声に、脳が痺れていく。
どうして。
どうして?
何が?
何で責められてるの?
俺何か悪いことした?
何もしてないよね?
それなのに、
どうしてこの罪悪感はなんだ・・?
頭がぐるぐるして、心臓がもやもやして気持ち悪い。
息が荒くなる。
「・・・うるさいなぁ・・」
唸るような低い声。
初めて聞く自分の声に、少し驚く。
だけど、一度出かかった感情はダムが決壊したように溢れだして、止められなかった。
うるさい!
うるさい、うるさい!!!!!
「お前に何がわかるんだ!!!!!!!」
頭ががんがんして、血の味がする。
醜くひっくり返った声は、辺りに反響して、川面を滑っていった。
はあ、はあ、と肩を揺らしながら息を吐く。
さわさわと草花が揺れている音が聴こえる。
吐き出した感情なんて関係なく、世界はキラキラと太陽に照らされている。
はあ、はあ、という吐息だけが、世界から取り残され、浮いているように感じた。
何だか無性に虚しくなってきて、みるみるうちに視界がぼやけてくる。
全身の力が抜けてきて、蕾のままの桜の木の下で、わんわんと声をあげて泣く。
どうして、とか、なんで、とか。
そんなことを言いながら。
だってわからないんだ。
どうしたら良かったのか。
何を言えば君に届くのか。
どうして何も言ってくれなかったのか。
後悔とか罪悪感とか抱えながら、もしも・・・を頭の中で何度も繰り返した。
繰り返す中で、自分を責め、君を責めた。
それでも結局何もわからなくて、わからないことが何よりも辛かった。
散々泣いたあとにぽっかり空いた心に残ったのは、「会いたい」という気持ちだけだった。
≪第六章 河川敷で≫
「この子は何なんだろう」とか、「カッコ悪いとこ見られちゃったな」とか、色々思う所はあったが、そのまま去るのも何か違うような気がして、少し距離を置いて腰を下ろす。
川がキラキラと光っている。
2人しかいない河川敷で、さらさら、さわさわっと草の擦れる音がゆったりと流れている。
聞かれたわけでもないが、その音に誘われるように、僕はゆっくりと口を開いた。
壊れてしまった君のこと。
何もできなかった自分のこと。
話し終えると、くりくり頭は羽織をパタパタと振ってから「うーん」と天に向かって、目一杯伸びをした。
「良い天気だ」
空を見上げると、白みがかった春の青空に、飛行機雲が白い線を引いていた。
ぼーっと腫れた目でそれを眺めていると、ソイツはこちらを振り返り、「大丈夫。きっと咲くよ」と嬉しそうに笑った。
「そりゃ、色々あるさ。生きているんだもの」
くりくり頭を揺らしながら、良かったね、良かったね、とくふくふ笑う。
良いことがあるものかと思ったが、不思議と腹は立たなかった。
くりくりとした髪の毛が陽に照らされて、べっ甲色に輝いている。
「これ、あげる」
そう言うと、ソイツは羽織の袂から、一枚の紙を取り出した。
「折り紙?」
正方形のそれは、印刷された「青」というより、淡い、まさにそこにある春空のような色に見えた。
「伝えたいことを書くの。そうやって紙ひこうきを作ってご覧。」
鉛筆で書くんだよ。
インクは滲んじゃうからね。
と、楽しそうにソイツは声をひそめた。
「飛ばす前によく確かめるんだよ。一回しか飛ばないからね」
口を開こうとした時、
「蒼井さ~ん!次の現場に行きますよ~!」
と、遠くからマネージャーの呼ぶ声がした。
その途端身体が吸いだされるような、一気に現実に引き戻される感覚がして、眩暈がする。
歪んだ視界の中、ソイツはニカッと笑う。
「捻くれものは道に迷い、
重いものは地に落ちる。
軽い気持ちは空に散り、
真心込めれば必ず届く。」
そう口ずさむと、楽しそうに河原を駆けていく。
ぶわっと強い風が吹く。
「あ、あの・・・!!」
もう一度声をかけようとしたが、風の強さに思わず目を瞑る。
目を開くと、ソイツの姿は見えなくなっていて、空色の折り紙だけが手元に残っていた。
≪第七章 手紙≫
次の現場も、その次の現場でも、河川敷での出来事で頭が一杯だった。
夢かとも思ったが、空色の紙があれは現実だったのだと示してくる。
「どうした?」顔を上げると須藤がこちらを覗き込んでいた。
そういえば今日は4人の一緒の仕事だった。
「あ、いや」
「あんま抱え込みすぎんなよ」
ポンっと肩を叩いてきた須藤も、目の下に隈が出来ている。
「そっちこそ」
「俺は大丈夫」
どうしてうちのメンバーは、こんなに意地っ張りが多いのだろうか。
須藤の日に日に濃さを増す隈に、ふうっとため息がでる。
バンドのリーダーでもある彼は、洞察力が鋭い。
あの日病室を出たあと、廊下の端で唇を噛み締めながら、自分を責めるように何度も自分の足を叩いていた。
もしかしたら、須藤も佐野の異変に気付いていたかもしれない。
鞄から折り紙を取り出す。
今日は初めて佐野不在で行われる、グループ仕事だ。
未だに変化の無い君に、何を綴ったら良いのだろう。
手紙なんか随分長いこと書いていないから、何を書けば良いのかさっぱりわからない。
佐野へ・・・か・・。
佐野、佐野・・・。
空色の紙を見ながら、記憶の中の佐野を思い起こす。
「おう!蒼井!」
満面の笑みを浮かべた君の姿。
「蒼井!大丈夫!お前なら出来るよ!」
明るく透る声。
そうだ。
佐野は、いつも元気で突拍子がなくて、好き勝手やっているように見えて、誰よりも人のこと気を使う真面目なやつなんだ。
次から次へとあの、人懐っこい笑顔が浮かんでくる。
不思議だ。
佐野が居なくなってから、頭に浮かぶのはいつも、あの虚ろな目をした顔ばかりだった。
どうして忘れていたのだろう。
暖かな気持ちが溢れだし、抱いていた罪悪感や暗い感情が流されていく。
「お、おい!どうした?」
須藤の焦った声が聞こえて、初めて自分が泣いていることに気が付いた。
≪第八章 真心≫
「本当に届くかはわからない」
長机の端に集まって、4人頭を寄せ合う。
はじめこそ「お前疲れてるんか?」と心配されたが、僕の真剣な顔を見て、少しずつメンバーの表情も本気になっていった。
「確かにこんな色の折り紙、見たことないな」
空色の紙を、みんなでまじまじと眺める。
「綺麗だな」
「本当に空をそのまま、紙に閉じ込めた感じ」
「でもさ」
小宮が顔を上げ、口を開く。
「本当だとして、貰った本人しか手紙書けない、とかはないの?」
全員の視線が俺に注がれる。
「そこのところは、確かめていないからわからない」
「じゃあ・・」
「でも本当に佐野に届くなら、みんなも伝えたいことないのか?」
触れてこなかったけど、この際だからずっと気になっていたことを口にする。
「正直みんな薄々気付いていたんじゃないか?佐野の様子がおかしいことに」
その問いに楽屋が静まり返る。
ずっと思案顔をしていた須藤が、口を開いた。
「アイツは中々弱ってるとこ見せないし、もしかしたらアイツ自身は気付いてなかったかもしれない」
言葉を区切ると、
「でも俺は、いつもと何かが違うことは、気付いていた」
と須藤の顔が苦しそうに歪んだ。
「まいったな」
小宮が詰めていた息を吐いた。
「確かに今思うと、いつもと違うことがあったかもな」
おしゃれになったメガネをくいっと正して、
「でも忙しくてちゃんと見てなかったよ」と自嘲気味に笑った。
「アイツも人間だもんな。いつもうるさいんで、すっかり忘れてたよ」
と和田が頭をガシガシと掻く。
気付いていたふりをしているが、和田は気付いていなかっただろうということは、言わないであげよう。
「アイツさ。みんなが楽屋から出ていくの寂しそうに見てたんだよ」
丸まった小さな背中を思い出す。
チッと和田は舌打ちをすると、
「おい!いつまで湿っぽい面並べてんだ!」と俯いたままの須藤の肩を叩いた。
「書くぞ!みんなで」
そう笑った和田の顔は、泣きそうに歪んでいた。
≪第九章 空色の紙ひこうき≫
あれから数日後、僕はまたあの河川敷に立っている。
満開の桜は連日の雨により、瞬く間に散ってしまい、見物客で賑わっていた河川敷は、閑散としている。
あれから俺らは仕事が一緒になる度に、手紙について話し合った。
何度も書いては消して、最終的に今の気持ちを素直にそのまま、書いた。
以前来た時よりも緑が濃くなった河川敷を、紙ひこうき片手に歩いていく。
「捻くれものは道に迷い、
重いものは地に落ちる。
軽い気持ちは空に散り、
真心こめれば必ず届く。」
あの一節を口ずさみながら。
何も飾らず、足さない、そのままの気持ちを書こうと決めてから、俺たちは泣いた。
君への思いは、あまりにも単純で暖かく、真っすぐに君へと向かっていたから。
例えこの手紙が届かなかったとしても、あの時間は俺たちに取って必要だったのだと思う。
日常の喧騒で滞った心が、するすると溶けて、忘れていた心の根っこの部分だけが残った。
本当はみんなで紙ひこうきを飛ばしたかったが、スケジュール上集まるのは無理だったから、俺が代表して飛ばすよ。
薄い雲が棚引く空に向かって、空色の紙ひこうきをかざす。
紙ひこうきは貰ったときよりも少し青が濃くなっていて、今日の空と同じ色をしていた。
俺は思いっきり手を振り、佐野の名前を呼ぶ。
飛べ!
飛んでいけ!
君の元へ!
皆で折った紙ひこうきは、ぐんぐんと空の中を進んでいって、そのうち溶けて見えなくなった。
≪第十章 その後≫
「おい、聞け!さっき病院寄ったんだけど、佐野の目がちょっと動いてた気がする!」
和田が興奮気味に楽屋に入ってくる。
「いや、気のせいだよ。俺の時は確実に反応してたけどね。」
小宮はふふんと鼻を鳴らし、わけのわからない張り合いが始めた。
皆仕事の合間を縫って、佐野の病室へこまめに通っている。
紙ひこうきを飛ばしてから、数日が経った。
相変わらず佐野は虚空を眺めているけれど、楽屋の雰囲気は以前より明るくなった。
多分どんな状況になったとしても、君と向き合う覚悟が出来たからかもしれない。
少し活気の戻った楽屋で、一つ空いた鏡台を眺める。
須藤は新曲の構想を練っている。
雑誌やテレビの仕事ばかりしていたから、そろそろメンバーも音楽をしたくてうずうずしているのだ。
それでも俺らのバンドのボーカルは佐野しかいない。
夕焼けに染まった教室を思い出す。
俺は開いていた本をそっと閉じると、
「佐野、早く一緒にバンドやろうよ」
と呟いた。
≪第十一章 佐野≫
いつからだっけ。
何かが軋んだような音が聴こえるようになったのは。
最初は身体の調子が悪いのかと思ったけど、どうも違うみたいだ。
気にはなったけど、仕事に影響なさそうだし、「ま、いっか」と深く考えないことにした。
それよりも、久しぶりのメンバーとの仕事に気合が入る。
「ねえねえ!これ見て!やばくね?」
メンバーのそばに寄っていって、最近ハマっている動画を見せる。
「あ~、はいはい。やばい、やばい」と、答えるその目は雑誌から逸らされることはない。
ちぇ、と口を尖らす。
他のメンバーの所に行こう、と楽屋を見渡すと、どこか空気が淀んでいるように感じた。
こうなると発作のように、活気づけたくなるのが俺の性。
「うぇーい!」と言って無理矢理メンバーに絡みにいく。
鬱陶しそうな顔をしながらも、何だかんだかまってくれ、そうやってはしゃぎまくっていると、楽屋に笑いがおこる。
空気が和らいぎ、活気が戻った楽屋にホッと息をはく。
ギシッ。
あ、また。
どうもおかしいな、と首を傾げていると、「どうした?」と須藤が顔を覗き込んでくる。
「ん~、いや別に」とぶんぶん頭を振ると、何かを見極めるようにじっと顔を眺めてから「ま、無理すんなよ」と肩を叩き、スタジオへと向かっていった。
心配させちゃったかな、と少し不安になる。
平気だと思うのだが、最近笑う時に頬が小さく痙攣することがあるのだ。
でもこれからMV撮影だ。
切り替えていかなければ。
俺は頬をパンと叩くと、皆の後を追った。
久しぶりのMV撮影は凄く楽しかった。
飛び回る俺に、「お前マジで元気だな」と和田が呆れ顔で笑う。
みんなで作った曲を、みんなと演奏する瞬間が、一番楽しい。
「うん!楽しいからめっちゃ元気!」と言うと、
「信じられん」と、和田は目を見張り首を捻る。
楽しい時間はあっという間で、撮影が終わるなりメンバーはバタバタと荷物をまとめ始めた。
「ええ~!もう行くの?」となんて文句を言うと、「引っ張りだこなもんで」とマウントを取られる。
うぜえって笑いながら、去っていくメンバーを見送る。
俺も次の仕事に向かわないとな、って椅子に腰かけると、身体が鉛のように沈みこんでいった。
あれ?身体が、重い。
びっくりしていると、「じゃあ僕も行くね」と蒼井の声が聞こえた。
声色に微かに疲れが滲んでいる。
元気付けようと、無理矢理テンションを上げる絡む。
「お!蒼井も引っ張りだこなんか?」うりうりって肘でつついた。
メキッ。
頭の中で、音が鳴る。
「ほら、明日も会うから」
と優しくほほ笑んでいる姿が、酷く遠くに感じる。
何だろう。
何かがおかしい。
「そうだけど・・・」
力が上手く入らない。
「そうなんだけどね・・・」
言葉が吐息とともに滑り出る。
「また・・・明日・・・」
不安そうに呟く声に、身体が反応する。
答えろ。
いつものように。
「おう!」
うまく焦点の合わない目を隠すように、思いっきり笑う。
ぼやけた視界の先に、ホッとした顔が映る。
良かった。
うまく笑えたみたいだ。
そう思った瞬間、
バキッ
と大きな音が響いた。
≪第十二章 メンバー≫
「疲れたんだよ」
黒いくりくりの髪の毛が、視界の端で揺れている。
「エネルギーの使い過ぎだね」
少年のような、少女のような、老人のような、不思議な声。
「あっちは考え過ぎだし、きみは考えなさすぎだね」とクスクス笑っている。
ちゃんと見たいけど、身体が動かない。
「泣いてたよ。きみの友だち」
友だち?
ここはどこだ?
「もうすぐ届くよ」
さっきから何のことを言っているのだろうか。
「受け取るかはきみ次第、きみ次第」
ソイツはくふくふ笑いながら、歌うように言葉を並べる。
「真っすぐな心は、真っすぐな心にしか受け取れない」
足をバタバタとさせているのか、裸足がチラチラと見えたり消えたりする。
「大丈夫。きっと届くよ、届くよ」
ソイツは嬉しそうに、楽しそうに何度も繰り返すと、それっきりその声は聞こえなくなった。
≪第十三章 和田≫
一体何だったのだろう。
そしてここは何処なのだろう。
病院っぽいけど。
そういえば、あの楽屋から記憶がない。
動きたいのに、意識が身体の中に閉じ込められたみたいで、目を動かすこともままならない。
人形のように固まったまま考えを巡らせる。
泣いていたって言ってたな。
俺のせいなのかな。
メンバーの顔が思い浮かぶ。
みんなをこの世界に引きずり込んだ責任感もあって、物凄いプレッシャーに押しつぶされそうだった。
小宮みたいに器用でもない俺は、せめてメンバーを笑顔にしたくて、その為だったら何だって出来た。
「疲れたんだよ」
さっきの言葉が、頭の中で反芻される。
疲れていたのか、俺。
だから壊れちゃったのかな。
何やってるんだろ、俺。
動かなくなった身体を前に、気持ちがどんどん沈んでいく。
そうやってしばらく落ち込んでいると、誰かがやってくる音がした。
「おいっす」
落ち着いた声。
「どう?気分は」
和田!
不安に押しつぶされそうな中、見知った顔に安心して飛びつこうとするが、微動だにしない。
「前言ってたブランド!新作入れてたんだよ」とか、
「蒼井のやつさ、最近口悪くなってて困るわ」とか、
ひたすら話していると思ったら、突然俺の目の前でスルメを齧りだした。
「いやあ、やっぱ仕事終わりには炙ったスルメとビールよ」
俺の好物を、上手そうに食べている姿に、軽く殺意が芽生える。
自由奔放さで、この男の右に出るものはいないと思う。
和田!お前あとで覚えてろよ!と、きっと睨む。
するとパチッと焦点が合い、スルメがくっきりと目に映った。
「お?」
じーっと和田が見つめてくるが、まだうまく動かせない目は、ずっとスルメにフォーカスされたままだ。
「食べ物作戦、良いかもしれない。」
和田はブツブツと呟き、「悔しかったら、早く戻ってこい。」と言ってデコピンした。
なんだかんだ言って、この男は優しいところがあるのだ。
高校のとき一番最初に声をかけてくれたのも和田だった。
昔はよく一緒にゲーセン行ったな、なんて思い出にほっこりしていると、
「あ、そういえば、手紙届いたらちゃんと言えよ」と言って和田は病室を後にした。
来てくれてありがとう!って言いたかったが、相変わらず身体はピクリとも動かない。
結局俺は和田の不器用な優しさに、少しも応えることが出来ずに心の中で項垂れた。
≪第十四章 須藤≫
疑問と罪悪感で、頭をぐるぐるさせていると、「よう」と大きな身体が扉を開けた。
「お前また痩せた?」
入ってくるなり、須藤が顔を覗き込んでくる。
「ったく。ちゃんと食えって言ったろ?」
と、まるで会話しているかのように一方的に話してくる。
面倒見の良い彼は、「長い間同じ体制だと床ずれするから」と言って、ひょいっと俺の身体を持ち上げると、人形のように動かし始めた。
そういえば須藤はいつもこうやって、俺らのこと気にかけてくれていたな、なんてじーんとしていると、そのうち楽しくなってきた須藤が、「ゴリラ!」とか「鳥!」とか色んな恰好をさせてきた。
抵抗したくても出来ずに、ぐわー!っと襲い来る羞恥心に、身体の中でのたうち回る。
おのれ!須藤め!
散々弄んで気が済んだのか、ふうっと息を吐き、俺の身体をベッドへと戻した。
ため息をつきたいのは俺の方だと、心の中でひとりごちっていると、「なんかスルメ臭くね?」と、くんくんと部屋の中を嗅ぎ出した。
今さら気付いたのか、と呆れる。
須藤は洞察力はあるのだが、嗅覚が鈍い。
「ま、もしかしたら今日届くかもしれないし、窓開けたままにしとくよ」
そう言うと俺の頭に手を置いて、じっと顔を見て「昨日より少し表情が変わっているかな」と、呟いた。
須藤が身体を動かしてくれたおかげか、少し身体が軽くなったように感じる。
「戻って来るの、信じてるから。一人でしょいこむな」とポンと頭を叩くと、帰っていった。
置かれた手にひらの大きさにじんわりと心がほぐれる。
あの時も、みんなにバンドをしようと言ったあの時も、須藤は緊張で震え続けていた俺の頭に手を置いて、信じてくれた。
早く、早く!
頑張ってみんなのところに!
一人になった病室で、どうにかして身体を動かせられないか試行錯誤していたら、再びガラッと扉が開く音がした。
「ごめん。ちょっと遅くなった」
≪第十五章 小宮≫
「歌詞はまだだけど、曲作ってきたんだ」
そう言うと小宮は携帯を取り出し、俺の耳にあてた。
Eマイナー。
1分ほどの短い旋律は、甘く切なく鼓膜に響いた。
「情けないけどさ、佐野が居ないと完成しそうにないわ」
携帯を握りしめると、寂しそうに笑う。
そうだよ。初めての曲も小宮と二人で作って。
この道は俺らから始まってるんだから。
「早く戻ってきてほしいけど、今はゆっくり休んで」
いつも俺が肩組もうとすると嫌がるくせに、小宮は涙目で何度も何度も、優しく肩を叩いてくる。
まるで寝ている俺を呼び起こそうとしているみたいに。
俺も早く戻りたいよ。
心がぐちゃぐちゃで、泣きたいのにちっとも泣けない。
さっきからずっと身体の中で、心が暴れまわっている。
「え?佐野?」
驚いた声をあげ、顔を掴み覗き込んでくる。
小宮の顔がぼやけて見える。
「泣いてるの?俺のことわかる?」
その言葉ではじめて、自分が泣いていることに気が付いた。
涙は流れるのに、身体は動かない。
静かに溢れる涙をゆっくりと拭って、俺の反応をじっと待っている。
応答のない様子を確かめると、深く息を吐いて「ゆっくりで良いから」と頭を撫でられた。
俺の涙が止まったのを確認すると、「また来るから。その時には手紙、届いてると良いな」
と言って病室を後にした。
皆の優しさが、じんわりと身体中を飽和する。
静かになった病室で、ボーっと今までの事を思い返す。
メンバーのためなら、無理をしても苦ではなかった。
皆が笑っていればそれで良いって。
元気が取り柄だからってムキになって。
「君は考えなさすぎだね」
自分の名前を呼ぶ声がする。
温かくて優しい声。
止まっていた涙が頬を伝う。
何故自分にもっと向き合わなかったのか。
大事にしなかったのか。
頭の中で響いた音。
心の悲鳴を無視したの他の誰でもない、僕だ。
≪第十六章 そして君の元へ≫
それにしても窓から手紙って、まさか鳩じゃないだろうな。
少し気持ちが落ち着いて、再び身体を何とか動かそうともがいていたら、目の端に何かが映った。
その何かは風と共に、すーっと綺麗な線を描き、膝の上にポトリと落ちた。
何だろう?
紙ひこうき?
もしかして手紙って、これ?
開いて確かめたかったが、手が動かない。
ぐーっと力を全身に込める。
手がわずかに震える。
嫌だ。
諦めたくない。
みんなに会いに行きたい!
心の中で叫んだ瞬間、手がピクッと動いた。
窓から温かな風が吹いて、白いカーテンを揺らす。
それに呼応するように、固まっていた腕がふわっと持ち上がる。
カチリ
縛られていたものが、一つ一つ解かれていく。
止まっていた歯車が合わさり、動いていくように身体が動きだす。
小さく震える手で、膝の上の空色の紙ひこうきを手に取る。
ゆっくりと開くと、ぶわっ!と暖かな感情が一気になだれ込んできた。
それを受け止めてから手の中の紙に目を落とす。
いくつもの涙の跡と、何度も消した跡が残る紙には、
「会いたい」
と書かれていた。
≪第十七章 蒼井≫
「あいつ泣いてた」
メッセージを目にした途端、居てもたってもいられなくなって、スタジオから直接タクシーに乗り込んだ。
もしかしたら・・、という淡い期待と不安。
はやる気持ちを必死で抑えながら、佐野の病室へと向かう。
届いていてくれ!と願いながら取っ手にかけた手は、小刻みに震えていた。
深く息を吐いて、ゆっくりと扉を開く。
目に映った病室は夕陽に照らされ、オレンジ色に染まっていた。
カーテンが風になびいて揺れている。
窓の方を眺めていた君が振り返る。
手元にはオレンジ色に染まった紙ひこうき。
キラキラと輝く目が僕の姿を捉えると、花が咲くようにふわっと笑った。
「おう!蒼井!」
久しぶりに聞いた君の声は、涙でよれていて
「おかえり」
と言った俺の声と同じで、かっこわるかった。
≪エピローグ≫
佐野が居なくなってから永遠のように感じた日々は、数えてみると一か月足らずだった。
「お、ちょっと戻って来たかな?」
佐野は須藤と、筋力トレーニングをしている。
「今週号は、泣き虫コンビの特集か~」
雑誌を見ていた和田が茶化してくる。
「泣き虫じゃねーよ!ていうかお前らだって泣いてただろう!」
腕立てを中断して、佐野が口をとがらせる。
佐野が目覚めたあの日、二人で抱き合ってわんわん泣いた。
何事かと、病室から出て来た人で廊下が一杯になったほどに。
後日、「号泣したんだって?」と茶化してきたメンバーも、目を真っ赤に腫らしていた。
佐野の家の玄関に飾ってあるという、あの空色の紙ひこうきは、いつの間にかただの白い紙になっていて、「会いたい」という文字だけが、くっきりと残っていた。
相変わらず仕事は忙しいし、全員が揃うことは少ないけれど、雑談が増え、楽屋には温かく明るい空気が流れている。
あの日僕たちは自分の心と向き合い、ただひたすらに言葉を探した。
空色の紙ひこうきはもうないけれど、大切な
空色の紙ひこうき 南雲 @weiss-blau
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