葉鳴

小松加籟

葉鳴

「 私は在る。私を在らしめる風を感じられるものは何か。風に鳴るもの。葉。それは二つの葉だ。私の内部の『たった一つの種子』が、種子のなかの種子とでも呼びたいものが、私の夢とも言えるものなのだ。一つの種子でなければならない。では、その総体が私の種子なのか。生きているかぎり、見つからぬというものなのか。夢は種子だ。種子の探究。求めるものではない。私には、究めるものなのだ。既に在るものだ。生きる限り探究しよう。生きている限り。


  時の上を歩く、それは私を在らしめるものが移り変わることと同義で、私の見る夢が、時の上において未完であることを証している。たった一つの種子など表現できる筈ない。それは……、私自身ではないか。死ぬまでを含む、私という一個の存在そのものだ。が、『そのとき』を切り取れば、あるいは……。時の上においては時間は不可逆的、連続的なもののように感じる。しかし重要なのは、時間の連続性ではないように思う。重要なのは種子から成長したものという、成長上にある(時間上ではなく成長上に)。昨日から見たらいろんな今日が在る。今日から見たら、昨日が在った。昨日からは複数の今日の可能性があるが、今日からは昨日はたった一つの昨日だ。


  時間は物ではないが種子は物でありえる。時間の上を語るのではなく、種子の上を物語るのだろう。時間の上において存在は明滅するが、種子の上では、存在は、たしかにそこに在続する。時の上の存在の儚さよ。美しい、存在の明滅よ……。


  樹が在る。風が在る。風にゆられる樹という一つが在る。それで一つの生物のように在る。一本の枝から樹を再現できても、風にゆられる姿は、そのひびきは再現できない。


  生存、それは既に行為だ。とすればただ在ることのみによって風とふれあうべきではないのか。ふれあうという殊更な行為によってではなく。樹が在る以上風が在り、風は在る以上樹を在らしめる。


  なびけば風はやむ。在るものにこそ、風はより風として感じられる――。風になびくとは私から私が流出するということで――そのようなもので――それが樹の枝葉を風にさらわれ、私そのものがグラグラしてしまうことになる。流出した私は風と似る。在るのみという触れ方。


  個体に視える存在そのものというものが、個体の生存と在らしめるものの統一体ありうる。ああ、個体である以上は、夢を見ているにすぎないのだ。そして夢とは私と私に感じられる風なのだ――。私に感じられる風とは私と相対する全てだ。


  私はもう紙の上に移住でもした方がいいのではないかと思った。紙の上において、私はさびしくなったことなど一度としてないのだから。さびしくなったと書けば、書いたそばからさびしくなくなるのだ。待て、これはどういうわけか。……紙が受け止めてくれたということではないか? 紙が在って、私がいる。私が紙を在らしめるのか。紙が私を在らしめるのか。なんにせよ、紙の上の私だけが、この儚い現身の私を救いえるだろう。むしろ私の本体は紙の上に在ったほうが私は生きやすいのではなかろうか。少なくとも……。


  風と相対するところは光明透徹在るのみ。そうでないところは全て翳。無ではない。翳は全体に対する一部だが――これは言葉の綾かもしれないが細部でもある。私の感覚では全体は明るいが細部はくらい。風に相対するのは全体――風に相対しえなかった全体が細部あらしむ。明暗。明(全体)から暗(一部)へ。


  私を在らしめるものは、私以外にとっては仮定にすぎない。『君にとってはそうかもしれないが……』


  私は在る。『君はそこに居るじゃないか』


  私はただここに在る。それが風との約束だった気さえするのだ――それが私をこの世に運んだ風との。夢に対し私はただ在るという行為のみ。計画とは何にふれようとする心であって、ふれてない。そこに透明はない。ふれあうところに透明がある。つまり私にはふれることでしかわからないものが多すぎる。


  ひびきのない文体などというものは、簡単に再現できる。少なくとも簡単に再現できるといいたくなるものだ。


  私の種子に種概念は存在するか。『在るもの』と『在らしめるもの』の関係をはっきりさせねばならぬ。しかし私はもう答えを見出している。私をこの世に運んだのは風に外ならない。私が今『在る』のは、風の為したこと。つまり風ありきだ。『風』に対する『樹』――。存在は風に従属する。


  風になびくのとゆれるのとはあまりに異なる。ただ在るだけという処女性。


 私を探究することは風を感じられる私を探究することでもある。私に感じられる風を愛すること。愛されているという感じ。風と一つになる、それは在るものの夢。存在そのものに対する『私』。


  風と一つになる。


  如何に? そんなものはとっくに出ている。遊んでいるのだ。風と一つになるために。遊んでいて、楽しくって、うれしくって、しあわせで、時間も空間も忘れて、そうしていつか風と一つになっている。そんな、夢を、私は見ようとして、夢を書いているのか。それは風に対する私の恋文。


  善からぬ風を感じ易い葉より、善き風を感じ易い葉の方がいい。善き風の吹くところへ――清らかに葉の鳴る方へ。


  大きな樹 その実の一つ一つが星々で、その実から私たちは生まれた。大きな樹に恋をした。今も探している。未だ見ぬ、愛する樹を。


  私は風と遊ぼう。そうして楽しく時を過ごそう。夢を書こう。そうして風と一つになろう。そのひびきが、私以外の存在の、風を楽しいものにできればいい。風邪を引いたような、涙を感じているようなものたちの、やすらぎになればいい。


  在らしめるものに対する私という一面――、私という一個。人間という生存を在らしめるものが、その相対が、片想いでなくなる、そのようになればいい。人間という生存に吹く風が、やさしければいい……。もっと言えば、存在に吹く風が、愛しければいい。


  他者からすれば私も一つの風にすぎない。私に感じられる風がやさしければ、私という風も、やさしく感じられるだろうか。


  芸術の上では、現実の上の人間の形が在るほど、見るに堪えない。その霊とでも言いたいものは、身体を透き通って伝わるために。


  舞台の上では、役者でなければならない。舞台の下に在るときの人間を感じさせては、舞台に立つべきではない……。


  生温い風は不快に感じられる。


  人間の体温みたいな生温い風はいやだ。私にとっては、風はひんやりといて欲しい。清らかであって欲しい。


  舞台の上で、人間は在らしめるもので在る、そうありえるのか。純粋に風になりえる……。そもそも霊に体温はない。霊の形 肉体以外の者を得た人間の霊。


  花は色香 樹は風に鳴る枝葉。


  形をもたなければ解け合ってしまいそうだ。


  舞台の上で、私は樹で在りたい。人間という生存に、私という樹に吹く風の音を、加えて、一しょに、人間という生存が少しでも、楽しく時を過ごせるようにできればいい。というのも私は偶々人間なので、私の声は人間に最も理解されるので……。救いになればいいと私は思う。私という樹に吹く風の音が、夢が、存在にひびけばいい。在らしめるものに対して、片想いに涙する人々が、相愛に感じられるように、そのように。


  ところで私には風と相愛に感じられるので、最早風と一つになってもいい。しかし未だ風と一つにならないようなので、私は、風と遊んでいよう。そのときまで」



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葉鳴 小松加籟 @tanpopo79

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