彼女と私の結索標本
こむらまこと
〈前編〉
僕は、一等機関士の北原
というのも、数日前から「明星丸」がドック入りしているからだ。「ドック」というのは船の建造や検査、修理などを行う施設のことで、このドックに船が入っている間、僕ら船員は「ドックハウス」に滞在する。そしてドック入りしている間だけは、朝起きて夕方帰るという普通の会社員のような生活を送ることとなるというわけだ。
ドック入りした「明星丸」での各種作業が一段落した、とある休日のこと。あいにくの雨のため部屋で映画鑑賞をしていたところ、同僚の二等航海士・奈良橋茜が訪ねてきた。
「茉子。今、大丈夫?」
控え目なノック音と共に届いた茜の声に、僕はすぐに映画を一時停止して扉を開ける。するとそこには、部屋着姿の茜が大きめの紙袋を後ろ手に提げて立っていた。
「ちょっと、頼みたいことがあるんだけど」
ひょこんと傾けた顔の横で、暗めのアッシュブラウンに染めた髪がさらさらと揺れる。
「入って」
僕は茜を招き入れると、部屋の隅に転がっていた座布団をちゃぶ台の前に敷いて、そこに座るように促した。船であれドックハウスであれ、こうして互いの部屋を訪れて暇を潰すことは僕と茜にとってはすっかり普通のこととなっていた。
茜は座布団の上に崩した姿勢で座ると、何気ない様子で小さな液晶テレビの画面を見やった。
「この映画、また観てたんだ」
「うん。英語の勉強も兼ねて、字幕無しにしてる……麦茶とオレンジジュースがあるけど」
「じゃあオレンジジュースで」
茜と軽く喋りながらお菓子とジュースを用意して、お盆に乗せてちゃぶ台に運ぶ。
「ん」
「ありがと」
僕は元いた場所に腰を下ろすと、リモコンの再生ボタンを押して、ついでに音量も下げる。そうして落ち着いたところで、ようやく本題に入るのだった。
「頼みって?」
「えっとね……」
茜はゴクンとお菓子を飲み込むと、紙袋の中身に手を伸ばす。
「……?」
紙袋から出てきたのは、肩幅より多少狭いくらいの大きさの額縁だった。
茜は胸の前で額縁を掲げると、こてんと顔を傾けながら僕に笑いかけてきた。
「
「……ふえ?」
その摩訶不思議な申し出に、僕はついつい間の抜けた声を出してしまった。
結索標本――ノットボードとも呼ぶ――とは、船やヨットなど海の上で使われるロープの結び方を、標本として額縁の中に飾ったもののことだ。海上自衛隊のものが比較的有名みたいだけど、世間一般にはほとんど知られていないし、個人で作るというのもあんまり聞かない気がする。
頭上にハテナマークを浮かべる僕をよそに、茜は紙袋の中からロープの束や接着剤などを次々に取り出してちゃぶ台の上に並べていく。
「どうしてまた……」
「うーん、ちょっとね」
無口な僕の口をついて出た素朴な疑問に、茜は曖昧な返事を返しただけだった。
(茜のことだから、何の意味もなくこんなことをするはずがない)
そう考えた僕は、疑問を一旦脇へ置いておくことにする。それに、結索標本の手作りという物珍しい取り組みに、純粋な興味を惹かれてしまったというのもある。というわけで、そのまま素直に茜の申し出に付き合うことにした。
「必要なものは全部用意してあるから、あとは標本を作って額縁に並べるだけよ」
「わざわざ発注したの?」
茜が取り出した小箱の中身に、僕は目を丸くした。そこには、文字が刻印された小さな真鍮プレートがいくつも入っていた。
(標本にする結び方の名前だ)
僕の驚き顔を見て、茜が得意げな表情を見せる。
「作るからには、こだわりたいもの。そんなに高くなかったし」
「でもすごいよ、さすがは茜」
「へへっ」
茜は恥ずかしそうにペロリと舌を出すと、ロープの束を手に取って僕に差し出してきた。
「茉子は、基本のロープワークを頼んでも良い? 私はマットを作るから」
「うん」
僕はロープの束を受け取ると、早速標本作りに取り掛かった。
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