第24話 別れ
旅立ちの朝は、降り積もった雪がきらきらと輝き、陽の光がまぶしい日でした。
レメーニがいつものように窓をあけると、ボスカイオーロが飼っている小鳥は、待ってましたとばかりに外へ翔びだしていきました。
「さよなら」
レメーニは、なんともいえない気持ちで小鳥を見送りました。
ボスカイオーロはわざと背を向け、レメーニを見ないようにしながら火かき棒で暖炉の灰をかきまわしていました。
ボスカイオーロがレメーニを森のはずれまで送っていく途中、
(こんなけわしい道を、私は通ってきたのかしら?)
あの猛吹雪の中、いくら前後を見失っていたからといえ、レメーニ一人で山越えしてきたとはとても思えない道なのです。
これはレメーニの感覚が正しく、じつは別れを惜しんだボスカイオーロが、帰り道にわざと長く険しい道を選んでいたからなのでした。
(俺はいったい、なにを考えているのだ)
ボスカイオーロは無言のまま山道を歩みつつ、混乱する胸の内に戸惑っていました。
別れのときは、覚悟してきたはずでした。
しかしそれにしても、大きな
レメーニを手放すことは、それほどつらく悲しく、耐えがたい痛みをともなうものでした。
(ちきしょう、これじゃあまるで……)
しかしボスカイオーロは激しく首をふり、その言葉の先を打ち消しました。
もう何年も前のことになりますが、ボスカイオーロにも妻がいました。
小柄で、美しい女でしたが、気が強く、怠惰で、大酒飲みで、下品な言葉をつかいました。
毎日のように、二人はけんかしました。
しかしあるとき、激しい口論は次第にエスカレートし、ボスカイオーロが女の髪の毛をひっぱり、女は逆上してナイフを持ちだしました。
もちろんボスカイオーロが腕力で負けるわけもなく、女からナイフを取りあげると、後ろに放りすてました。
「お前はまいにちまいにち俺の顔を見てため息ばかりついて、飯もつくらず、掃除もせず、文句ばかりだ。他の女たちをみろ、恥ずかしいと思わないのか!?」
女は、ぎりぎりと男を睨みつけ、
「おまえも恥ずかしいと思わないのか!? 顔をみれば私の悪いところばかりをあげつらって、男のくせに
と、言い返しました。
「お前のせいで、私の人生は不幸になった! お前が私を不幸にしたんだ! もういやだこんな人生、なにもかもいやになった! お前のせいで、お前のせいで!」
そう言って、落ちたナイフを拾いあげ、あっと思うまもなく自らの喉を切って死んでしまったのです。
……ボスカイオーロには、思い出したくもない記憶でした。
自分にも、だれかを幸せにできるかも知れないと思うことは、ボスカイオーロにとってただの幻想にすぎませんでした。
(自分には、できない。他人の人生を背負うことは……。そんな勇気は、もうない)
ましてやレメーニは外見だけでなく、心の中まで美しい、天使のような少女なのです。
山賊がするように彼女をここで略奪し、自らの「愛情」を貫いても、それははたして彼女も自分も、「幸福」をつかむ道となるのだろうか?
……そうはならない。
ボスカイオーロは、ただ彼女の幸福とすこやかな日常を守りたいのです。
彼女を心から恋い慕うからこそ、触れるのをためらうのです。
彼はいまこそ、ふかくふかく、ジョルジョ・モニートという男の気持ちを理解することができました。
なぜ彼が、とうとつにレメーニの前から姿を消したのか。
レメーニを捨てて、吹雪のなかを去ったのか。
それはレメーニという光の存在が、あまりに眩しすぎたからなのでした。
光とははかなく、自らの手の中で弱り、やがて消えてなくなってしまうかもしれません。
心から彼女を愛するからこそ、いつかくるかもしれないその絶望の瞬間は、耐えがたいほどの恐怖であったことでしょう。
ボスカイオーロは、見たことも会ったこともないながら、自分とよく似たジョルジョという男のことを想い、まぶたの奥で涙を流しました。
「ここで、さよならだ」
ボスカイオーロは、森のはずれまでレメーニを送っていきました。ほんのすぐ目と鼻の先に、レメーニの家のぶどう畑が見えます。
「あなたも、一緒にいらして? お礼をしなければ」
レメーニは、ボスカイオーロの手を引きました。
しかしボスカイオーロは素早く手をひっこめ、
「いいや、礼などいらない。ここで別れよう。お前は元気に暮らすんだぞ」
と、早口で言いました。
レメーニは急に心を閉ざしたボスカイオーロを怪訝に思いながらも、なつかしいお城を遠目に見て、ここで押し問答するよりも早く家に帰りたい気持ちが勝ちました。
「あなたには感謝しています。またいつか会えるかしら?」
レメーニは尋ねました。
「いいや。もう会うこともない」
ボスカイオーロはそっけなく答えました。
レメーニは少しうつむき、ちいさく頷きました。
「あなたに作ってもらったこの手袋、いただいてもいいかしら?」
レメーニはいま自分の手にはまっている、野うさぎの手袋をさしていいました。
「だめだ。これはやらない」
ボスカイオーロは怖い顔をして、レメーニの手から手袋を剥ぎとりました。
「こんなもんはさっさと忘れて、お前は家に帰るんだ。お前の親父がもっといい絹の手袋を買ってくれるさ。さあ行け! 行っちまえ!」
早く行くよう、レメーニを追いたてました。
しかしボスカイオーロは、去っていくレメーニの後ろ姿をいつまでもいつまでも見送っていました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます