君はクララ
小豆沢Q
君はクララ
君はクララ
堤防の雑な道に、夏の風が煙を運んできた。
河川敷では、刈り取った草を老人が焚火にくべている。
水蒸気を含んだ白煙に、抱きつくようにまとわりつく植物の臭い。
何万もの化学式が鼻腔をくすぐる。
名前も知らない草が炎の中でくすぶっている。
ヨモギが焼けている。
なぜだかわかった。
ここから目視はできない。普段、そんな匂いを嗅いでもいない。
どくり。
途端に鼓動が早まる。サビついた記憶の蓋――いや、自ら重しを置き、閉じ込めていた蓋が、ものすごい力で開かれた。
今、この場所、この状況。そんな「普通」や「普段」を制御する理性が狂う。
何も理解できていない頭を差し置いて、感情はサージする。
クララ……。
頭に、コリーヌ・ベイリー・レイのPut your records onが流れ始め、世界がぐにゃりと歪んだ。
ブロンドの少女のぎこちない日本語が、甘くやわらかく僕を包む。
「キミは忘れるの……。ワタシのこと。幸せになるために。……ネ」
クララが笑う。あの時と同じように。全てを見通した神さまみたいに優しい唇で。
透き通るような肌が、ゆっくりと僕から離れてゆく。
なぜか僕は動けず、声も出せない。
クララは儀式を執り行うように、ゆっくりと服を着けていく。
頭に竿を通されて、日向に放り出されたような、無防備で無力なひと時。
「おじさん、大丈夫?」
いつの間にか、僕は堤防の道に座り込んでいた。親子なのだろう、母親によく似た小さな男の子が声をかけてきた。
「ありがとう。大丈夫だよ……」
重い頭を持ち上げ、僕は子供に笑いかけた。一握り分残った理性で、母親にも頭を下げる。
ヨモギの焼ける匂い。
すでに小さく見える親子は、楽しそうに何を話しているのだろう。今を、未来を、振り返る過去の少ない完成された世界を。
「クララ……」
とうとう口に出してしまった美しい名前をかみしめ、僕は、絶望的に赤い西の空を見上げた。頬を伝う思い出のかけらはとても温かかった。
高校二年の一学期は、誰も予想していなかった展開で幕を開けた。進学校であるわがマナビヤは、担任は持ち上がるし、成績順で決まるクラス編成も、よっぽどのことがない限りほとんど変化がない。つまり、勉強の内容以外は同じ三年間を過ごす予定で、みんな青春の覚悟を決めている。
「ハロー。ワタシは、クララ・レイです。アメリカから着ました。マアムはジャパニーズです。仲良くしてくださいネ!」
クララが先生に連れられて教室に入ってきてから、自己紹介を終えるまでずっと、クラスのざわめきは続いていた。平坦な三年間に転がり込んできた想定外の異分子。
「外人?」
「キレイ……」
「顔ちっちゃ!」
黙っているのは隣の席のマジメな委員長ぐらいだ。彼女はいつもの倍ぐらいに目を見開いたまま固まっている。
それらしい光源がどこにもないのに、クララのポニーテールはキラキラと輝いて見える。青みがかった瞳は空を吸い込んだように自由だし、白い肌は無垢そのものだった。端正なのにどこか親しみやすい顔は、彼女がハーフであることを強く物語っている。
「気持ちはよく分かるが、お静かに。ご家庭の事情で一学期の間だけ本クラスで一緒に学ぶことになった短期留学生のクララさんだ。すでに分かったと思うが、日本語もある程度話せる。高校生の君たちに言うようなセリフではないが、一応言っておく。みんな仲良くするように」
先生が騒ぎを収める祝詞を唱える。
「ハイ! ザッツライ! 先生! みなさん仲良くしてください! たぶん、みなさんよりちょとだけ英語が上手いくしゃべれます!」
クララの笑顔に、人柄に、僕はやられた。いや、もちろん、僕だけではないんだろうけど。
クララはあっという間にクラスに馴染んだ。みんなが興味津々でしゃべりかけにいくし、クララもクララで物おじしないころころとした笑みでコミュニケーションをとる。
同級生が知己から友達、親友へとステップアップする中、僕はとんでもなく出遅れていた。一か月たっても、クララとは数えるほどしか話せていなかった。席も近かったし、帰る方向も同じだった。機会は誰よりも沢山あった。
スターを目の当たりにしたかのように意識してしまい、うまく彼女の目を見ることができなかったのだ。
きっかけは些細なことだった。
五月後半のある日、クララといつも一緒に帰っているクラスメイトが風邪で休んだ。帰宅するため、下駄箱から靴を取り出そうとしていたとき、ふわりといい匂いが僕を包んだ。
「ハロー! ジュンイチ!」
クララが屈託のない顔で僕をのぞき込んできた。かがんで靴をとる彼女の胸元が少し開き、あわてて目をそらした。
「か、帰るとこ?」
聞いた瞬間、アホな質問をしたと後悔した。当たり前だ。下校時間に下駄箱にいる。帰るところ以外のなんだというのか。
「イエス! 今日、ナオミいない。ジュンイチ、一緒に帰ろ!」
クララはしゃがんだまま、僕を見上げた。
あまりにもストレートで嬉しい申し出に、ひっくり返りそうになった。僕の名前を憶えていてくれて、帰り道が同じだということまでちゃんと把握してくれている。
「う、うん。もちろん」
「サンキュー! 一人はさみし! カモン!」
クララが勢いよく立ち上がると、どこからかひらりと紙片が落ちた。彼女は気づかず、スキップしながら歩き出す。僕は紙を拾い、少しの罪悪感と大きな好奇心から、素早く中身を確認した。
プリントアウトされたクッキーのレシピだった。内容に確信はもてないが、全て英語だったのでクララの落としものだろう。
彼女の秘密か何かかもしれないと淡く期待していた僕は拍子抜けし、置いて行かれないように彼女の背中を追った。
クララとのおしゃべりは楽しかった。話しが上手いし、聞くのも上手い。何より一つ一つの言葉に感情が宿っている。悲しいトーン。嬉しいトーン。路地の全ての音を伴奏に変えて、クララは物語を紡いでいる。
道行く人もクララのストーリィに振り返る。関係ないのに僕も誇らしくなる。
「ジュンイチはおうちで何してる? いつも」
「そうだね……うーん……あるにはある。でもあんまり言いたくなくて、みんなにはヒミツにしてるんだけど……」
「おっけ! 言いたくない、みんなある! だいじょぶ! 聞かない!」
クララは両手を前に出し、僕の言葉を遮った。笑顔は携えていたが、いつもの彼女と違う仕草に、僕はクララの本音を見た気がした。
少しの間、物語が途切れる。
何か話をしなくちゃと焦った僕は、レシピの件を思い出した。
「く、クララは家でクッキー焼いてるの?」
「……え? な、なぜそう思う?」
クララの深い瞳が雷に打たれたように大きく開かれた。さらに余計なことを言ったのかもしれない。
「え? い、いや、さっきクララが落とした紙……下駄箱でさ、拾って……ごめん、中をちょっとだけ見ちゃったんだ……」
僕はポケットから紙を取り出し、クララに渡した。
クララは口を半開きにしたまま、紙片を受け取った。
僕は青春の早すぎる終わりを感じ、もう一度「ごめん」と頭を下げた。絶望を十分に堪能できるほど長い時間、クララは無言だった。
「ジュンイチは……今から時間ある?」
「え?」
僕が顔を上げると、クララはいつもの笑顔だった。
「ワタシの家、ジュンイチの家の途中と思う。寄って欲しい」
「う、うん! ほんとごめん!」
「なぜ謝る? 落としたのワタシ。ジュンイチは拾ってくれた。サンキュ」
状況は理解できないが、クララは怒っているわけではなさそうだ。上がったり下がったり。青春のトレイルはやたらと胸が苦しい。
意外にもクララの家は、普通の、よくある、目立たない、中堅どころのハウスメーカーが作ったような、日本家屋だった。近所だったので、前を通ったことだってある。
おそらく魂が抜けたようなぼんやりした顔をしていたのだろう、クララが答え合わせをするように僕を促した。
「マアムの生まれた家。グランマが住んでた家。ヘイ! カムイン!」
僕はクララの背中に隠れるように玄関に入った。
「アイムホーム! エニワンヒア?」
澄んだ通る声が家にこだまする。奥からパタパタと足音がした。
「ヘイクララ……オゥ? お友達?」
クララによく似た女性が僕に微笑みかけてきた。母親だろう。
「あ、は、はい。同じクラスの加藤純一と言います」
僕が答えると、クララと母親は早口の英語で何かをしゃべりはじめた。残念ながら英検を準二級までしか持っていない僕では、何を言っているのかまるでわからない。
二人は顔を見合わせて笑ったあと、クララは靴を脱ぎ、上がりかまちに軽やかに飛び上がった。
「ヘイ! ジュンイチ! フォロミ!」
僕はとまどい、クララの母を見た。
「純一君……。大変なことになったわね。無事を祈るわ」
彼女はいたずらっぽく笑う。本当にクララとそっくりだ。
「ど、どういうことですか?」
「いけばわかる。答えがわかってるクイズほど退屈なものもないでしょ?」
クララの母のウインクに背中を押され、僕はとうとう家にあがりこんだ。
「プリーズ ハバ シート」
「え?」
「座って!」
楽しそうに笑うクララに僕が座らされたのは、ダイニングだった。今時とは言えない古い作りで、電気をつけないと昼間でも少々薄暗い。
「ヒアズ ザ メニュ」
クララは低い声を作って、さっきのプリントアウトを僕の目の前に置いた。
「……もしかして。クララが作ったクッキーが今から出てくるの?」
クララはウインクで僕の問いに答える。
「え! ほんと? めちゃくちゃ嬉しい!」
気になっている子の手料理が食べられるなんて、漫画みたいだ。どう頑張っても口元が緩んでしまい、口角が下がらない。
クララは冷蔵庫から大きなお皿を取り出した。ラップを外し、ウェイタのように左の前腕に皿を置き、右手でサーブしてくる。
「エンジョイ ユア ミール」
上がっていた口の端が下がった。
おそらくチョコクッキーだろう。レシピはクッキーだったし、色がこげ茶だからそう思った。一応花のような模様もつけてあった。形はいびつで大きさもまちまち。食べ物と言われなければ、工事現場のバラスと勘違いしそうだった。
レストランごっこは終わったようで、クララは向かいに座り、にこにこしながら僕が食べるのを待っている。
形は問題じゃない。味は美味しいかもしれない。しかし、現状を目の当たりにすると、さきほどクララの母に言われた「無事を祈る」という言葉が、やたらに重くのしかかる。
「いただき……ます」
覚悟を決めて口に一つ放り込んだ。
固く不味かった。
焼き加減も分量も何もかも間違っているとしか思えない味がした。
「ドゥユ ライキット? おいし?」
「……クララにしか……出せない味だと思う」
「……どゆ意味? 難し」
嘘はつきたくない。でも、なんとか良い所を探したい。すると、どうにも曖昧な言い回しが出来上がる。
「クララの味は世界で一つだけのものってこと」
「オウ! サンキュ」
クララは頬を抑えた。
僕はなんとか乗り切り、家に帰ることができた。辞去する際に、クララの母が僕にこっそりと耳打ちをしてくれた。
「下手の横好きって良い日本語よね。英語にはそんな便利な言い回しはないの」
僕とクララの関係は、この試食会を機にねじが巻かれ、ぐるぐると勢いよく回転して進んでいくことになった。
毎日一緒に帰り、教室で話をする。ときどきクララがお菓子を作り、僕が食べる。
後から本人に聞いた話だが、クララは自分の作るお菓子に自信がなく、今まで家族以外には食べさせたことがなかったそうだ。あの時たまたま、レシピを拾った僕に――ヒミツを持っている僕に――自分の秘密を打ち明けてみようと思ったらしい。
慣れとは恐ろしいもので、夏休みに入る頃には、クララの作るお菓子の味に対し、心の底から「世界で一つだけの味だ!」と伝えられるようになった。
そう、たった一度のクララとの夏休み。
クラスメイトの有志でキャンプに行こうと言い出したのはクララだった。
彼女が学校に在籍しているのは八月いっぱい。その後クララがどうするのかは誰も知らなかった。そもそも、なぜ転校してきたのかも。
夏休みとは言え、昼間はほとんど学校で補習。わいわいしゃべっていると、世界の形だって百億年前からずっとこのままだったような感覚になる。
夕方、クララとの別れ道。「シーユ!」と言い合うたび、意識が現実に戻り、あと何回「シーユ!」なんだろう? と落ち込んだ。
「湖、必要! 山で泳ぐ、お得!」
「得とか損とかじゃないよ」
「クサマクラ! やりたい! 自然大事!」
「そんな言葉よく知ってるね……」
どこに行くか決めるのも、「クララの希望が全て叶う場所」という一点張り。みんなで地図とにらめっこして探した。
結局十人集まった。うち五人の親が車を出してくれるということで、僕たちは分乗して、のどかな山の中のキャンプ場に出かけた。僕とクララは同じ車に乗ることができた。本当にあと少ししかない彼女との思い出を、少しでも重ねたかった。
八月二十日の朝に出て、二十一日の夕方に帰る。一泊二日の大イベント。これが終わり、十日もすればクララはいなくなる。信じられる? 僕は毎日自分に問いかけていた。
着いた瞬間、クララは車から走り出し、湖に飛び込んだ。
あまりに突飛だったけれど、みんなクララに続いて水遊びを始めた。
クララはじめとした女子五人は、最初からこのサプライズを計画していたようで、下に水着を着こんでいた。マヌケな男子五人は上から下まですっぽり濡れて、びしょびしょになった服を乾かしながら、バーベキューをするはめになった。
思ったよりも冷たくて疲れたのか、クララは日陰で寝転びながら、少しだけ沈んだトーンでみんなと話をしている。
夜になる前にテントを張った。僕は一人用の小さなテントを、見晴らしの良さそうな草原の真ん中に建てた。キャンプなんてしたことなかったし、この日のために無理を言って買ってもらったため、やたらと手こずった。
「そーいうのスタイルじゃない、ジュンイチは」
僕の苦労する横でクララが笑った。
「じゃあ、どういう人に見える?」
「エー……ライタ!」
「ライタ? 小説家?」
「イエ! ペパバックライタ!」
クララの言葉に何かが溶けていく。
「クララさ……覚えてるかな? 僕が初めてクララのお菓子を食べた日のこと」
「オフコース!」
「今、あの時の君の質問にちゃんと胸をはって答えたい。僕は……小説を書いてるんだ」
数か月前の話。覚えてなくても当然。だから、わからなくてもいいやと思った。でも、ちゃんと伝えたかった。
「恥ずかしくってさ。誰にも言えてない。よくわかんないストーリィだし、レトリックも良くない。プロの小説読んだ後だと、なんでこんなに下手なんだろうってげっそりすることもある。でも……好きなんだよ。書くことが。だからさ、書いてる。自分では悪くない趣味だなって思ってる」
気恥ずかしくて、少し目線を外してしゃべった。
「それが家でしてるジュンイチのヒミツ……」
驚いてクララを見た。あの会話を覚えていたのか。
クララは美しく微笑んでいた。夕日が彼女の顔を染め、青い瞳が別の世界の入り口のようにきらめいていた。
「ステキなヒミツ……。全部のヒミツがこんな風にステキでビューティフルだといい……」
崩れそうだ。そう思った。
クララの中の何かが、あの時のように、そう。乱れている。
「クララー! 純一君ー! そろそろ晩御飯だよぉー!」
遠くからクラスメイトの声が聞こえた。
「おっけぇー!」
少しだけ姿を現しそうだったクララの中の何かは、霧のように消え去り、いつものクララが明るい声を出した。
「いこ」
クララが僕に手を出した。
僕は彼女の華奢な手を握り、立ち上がった。
晩御飯を終え、ひとしきりみんなでしゃべった。時間はわからないが、おそらく十時は回っていただろう。もう寝ようということになり、それぞれのテントに三々五々散っていった。
僕は星を見るために草原の真ん中を選んでいた。テントから頭を出し、それこそ草枕で寝転んだ。ぼんやりとしたもやのような天の川が空を割っている。白鳥座は優雅に泳ぐ。
織姫と彦星も見える。近いのに遠い。一年に一回しか会えないといっても、会えるだけましだろう。
僕とクララも、一年に一回でもいいから会えたらな……。
目を開けると、星の位置が変わっていた。どうやら寝てしまっていたらしい。ぼんやりとした頭は、ここがどこなのかを理解するのに必死になる。星を見ていた。外。ああ、そうか。キャンプに来ていたんだ。
風の音が不自然だった。右側がくぐもっているし、優しいメロディが聴こえてくる。
いや、風じゃない。口笛だ。
僕は音の方に首を曲げる。
「起きた?」
「……クララ?」
そこにはクララの顔があった。ただし僕とは南北が逆になっている。
クララは身体を起こした。ふわりとした髪の匂いが舞う。
「いい曲でしょ? コリーヌ・ベイリー・レイ Put your records on。ワタシと同じファミリィネィム」
クララは口笛を辞めて、鈴のような声で歌い出した。辺り一面に物悲しい音が広がった。
「……このてんてこ舞いな世の中で……唯一落ち着けるって言っていいぐらい……いい歌だ」
「テント、はいっていい?」
クララの目は深い色に変わっている。
「……せまいよ?」
僕は中にもぐり、クララも隣に寝た。どうやっても、僕のどこかがクララのどこかに触れてしまう。
「ジュンイチ……ワタシのヒミツはなんだと思う?」
堕ちていけそうな瞳。僕はまっすぐに見る。
「クララが……本当は何かにおびえてること」
まつ毛の動きが止まった。目に宿った輝きが失われる。
「……ライ」
クララの唇が近づき、僕の鼻に触れた。
「僕は……君を知りたい」
なぜか涙があふれてきた。感情は、頭より先に理解しているらしい。クララのヒミツを。
「ワタシ……ジュンイチのこと知りたい。もっともっと、まだ世界、知りたい……」
同じように涙を流すクララの頬を、僕は親指でぬぐった。首の後ろに手を回し、彼女の顔を近づける。
クララは歯磨き粉の味がした。
僕の顔を見ると、くすりと笑った。
「特別で……大切なこと……しましょ」
クララにいざなわれ、僕は何かを失い、何かを手に入れた。
「クララ……。僕は、君のことをまだまだ……まだまだ知らない。君のことを……知りたい。大人になっても……ずっと忘れないし……どこかでいつか……また……」
嗚咽で声にならなかった。
クララが僕の頭をなでる。
「キミは忘れるの……。ワタシのこと。幸せになるために。……ネ」
服を着たクララは、「ちょっと待って」と言いテントから出た。
一分程度で帰ってきた彼女は、手にヨモギを持っていた。
「スペル……おまじない。アメリカのグランマから教えてもらった。願いがかなう」
クララはポケットからライタを取り出すと、ヨモギの葉を燃やし始めた。テントの中がくすぶりはじめる。
「ジュンイチが幸せになれますように……」
朝になると、クララはいなくなっていた。
日の出前の早朝、クララの母が迎えにきて、帰ったらしい。
引率してくれた同級生の親は最初から事情を知っていた。僕たちには黙っていてくれとクララから言われていたらしい。
もともとそういう計画。
クララが僕たちの町を去るのは今日、二十一日だったのだ。
クラスメイトは動揺したが、湿っぽい別れは嫌だったのだろうと、クララの気持ちをポジティブに汲んだ。
クララの家は魂が抜けたように空っぽになっていた。
二学期は、何事もなかったように始まった。僕たちの世界のピースは足りているらしい。
僕は大学生になった。
彼女の影を、名前を追い回し、少しだけ情報をつかんだ。
クララ・レイという少女が、ある期間、関東の病院に入院していたという。心臓手術で有名な外科医がいる病院だ。
「いた」というだけで、どうなったのかまではわからない。
死に怯え、一生懸命生と向き合ったクララ。
自分にまとわりつく死の臭いに、他人をさらしたくなかった少女。
病院にも行った。色んな人に話を聞いてはみたものの、結局何もわからなかった。
大人になった。
会社勤めの中で、美しかった思い出は色あせていき、「今」に忙殺された。
そんな中、僕は何とか小説を書き続けていた。
なんの賞にひっかかることもなく、くすぶった日々が十年分積みあがっただけだった。
二〇二三年、僕は三十二歳になっていた。
堤防で嗅いだヨモギは、クララの匂いだった。
遠い、つづら折りのような記憶が、押し寄せてきた。
僕は西の空に向かって、クララに向かってつぶやいた。
「クララ……君のスペルは間違いなく効いたみたいだ。僕は幸せだ。君のことを思い出せたんだから……君を……忘れてなかったろ?」
一生懸命、僕も生と向き合おう。もう一度、小説を書こう。どこかに僕らのクロスロードがあるかもしれない。
クララ……。君のことを書きたいんだ。もう二度と、少しの間も忘れないように。
いいだろ?
題名はもう決めた。
そう、君はクララ。
君はクララ 小豆沢Q @Qazukisawa
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