第2話
「ひぃ・・・・・・!!」
花は反射的に小さく悲鳴を上げた。何かが目の端を通っていたような気がする。白い、何か布のような着物のような・・・・・・。
突然頭上から烏の鳴き声が響いた。
「いぎゃあ・・・・・・!!」
花は蛙がつぶれたような、乙女とは思えぬような声を出して、咄嗟に頭を守るようにして身をかがめた。恐怖から感覚が過敏になっている。だから少しの音でさえも過剰に反応してしまう。烏は一声鳴いた後は、どこかへ飛んでいったのか、祠の周りには再び静寂が戻ってきた。周囲を確認して異常がないと分かると、ほっと一息ついた。こんな声、誰かに聞かれたら恥ずかしすぎる。先ほどまでは一人肝試しかと後悔していたが、今は一人で来たことが幸いだったと思えてくる。
もう一度空を見上げる。高い木々の隙間から茜色に染まった空が微かにのぞいている。一刻も早く帰ろう。花が来た道へと足を向けたところで、背後から声をかけられた。
「おい」
背中がぞわり、と逆立つような感覚。
さっきまで誰もいなかった場所から人の声がする。それだけで、恐怖がぶり返してくるには十分だった。指先からさっと血の気が引いていく感覚が鮮明に感じられ、冷や汗が全身から噴き出してくる。危険だ、と花の体が全身で訴えてくる。それにも関わらず、花はその場から逃げるのではなく、ゆっくり後ろを『振り返らされた』。決して興味本位での行動ではない。何かに操られるように体が勝手に声のする方へと方向転換したのだ。
「お前が生け贄か。」
振り返った先には美しい銀髪を背中に流した、整った顔立ちの男が立っていた。光を放つような滑らかな風合いの着物が長身の男に似合っていた。想像の斜め上を行く者の登場に、花は息をのんだ。その様子に男は不敵な笑みを浮かべた。
「贄にしては随分年増を寄越したものだ。」
値踏みするように花を見るようにして、男は近づいてきた。面白そうに笑みを浮かべているが、その瞳は射貫くようにまっすぐ花を見据えている。野生動物が飛びかかる寸前の、獲物を狙う目のように思えた。花は逃げるように後ずさりしようと試みたが、体が動かない。早鐘を打つように響く自分の心音と、ざり、ざり、と雪駄が地面を踏みしめる音。死ぬ、いや殺される。どうしよう、いやだ、来ないで。頭の中で拒絶の言葉が駆け巡ったが、舌が張り付いたように動かず、ただ男を見ていることしかできない。
「梅子よ、私を遣わす代償は大きいぞ。」
男が目の前まで来た。鼻先がふれあうような距離までくると、男の目を縁取る銀の睫毛まで見えた。筋の通った鼻先に形のいい唇が続き、その唇が大きく開かれた。首筋に柔らかな唇が触れ、すぐに鋭い犬歯が花の肌にずぷり、と深く入り込んだ。
「・・・ったああああああああ!!!」
体が強ばっていたことも忘れ、痛みに絶叫した。そこからは、無我夢中に花は男を引きはがそうと、全力で男の体を押し返した。しかし、男のたくましい腕によって腰を抱き抱えられた。さらに血を啜る音を耳元で聞かされ、不快感に悲鳴を上げた。
「ぃいいやああああ!!!梅子じゃないですー!!!」
じゅるじゅる、と自分の血が啜られる音と、血の気が引いてくる感覚は止まらない。このまま殺されるくらいなら、と手当たり次第、男の体を殴りつけ、足を動かした。すると、そのまま抱き上げられ、足は宙を切るばかりで、ただ状況が悪化しただけだった。
花の首筋にかみついている男の歯が、さらに食いつくように花の肌を突き破ってきた。もう死ぬしかないのか・・・・・・。血が足りなくなってきたせいか、体に力が入らなくなってきた。重力に従い、花の頭ががくり、と下がると、地面には持ち帰る予定だった紙袋が土にまみれて転がっているのが見えた。さきほどお供えした余りの蕎麦だ。
本当に祖母の言うように『神様が守ってくださる』なら今助けてくれないか。それとも蕎麦1箱では割に合わないのか。思考を巡らせていたが、どんどん視界がぼやけてくる。血が足りなくなっているのか、まともな打開策も考えられず、ただ男のされるままに腕の中で力が抜けていく。意識が途切れる寸前、花は向こうで祖母へ会ったら、こう言ってやろう。と、その言葉を頭に浮かべた。
おばあちゃん、ここの神様仕事してませんよ・・・・・・!
次に意識が戻ったとき、花が目にしたのは大きな満月とそれが映し出された湖だった。
今にも落ちてきそうな巨大な月が夜空からのぞき込むように空に浮かんでいる。そこから間を開けずに、巨大な月を映し出すほどに大きな湖が静かに横たわっている。まるで鏡のように湖の水面は動かず、穏やかだ。湖の周りには木々が生い茂っている。木々は月を避けるように曲線を描いて幹をしならせている。
不思議な光景だ。これが天国なのだろうか。昔から言われている三途の川とは様子が違うが、実際に来てみないことには実態は分からないものだ。
「傷は・・・・・・ない。」
先ほど男に食いちぎられた肩に目を向けると、薄く傷跡がみえるが、それ以外はけがをする前と変わらなかった。こっちに来てまで傷だらけで過ごすことにはならないようだ。新生活を始めようという矢先に、こんな結末は自分の運のなさを感じずにはいられない。しかし、死んでから、これほど美しい景色が見られるのもなかなか得がたい経験ではある。
死後の世界なら、現実ではできないこともできたりするのだろうか。ふと、興味が沸いて、巨大な月に手を伸ばしてみる。
「さあ、飛べ!!」
花は、力強く声を張り上げた。幽霊がちょっと体を浮かしたり、そういう類いはできると予想しての行動だった。しかし、花の声がこだますだけで、何かが起こることはなかった。
「飛びたいのか。」
どこからともなく、先ほどの男が現れた。
死ぬほど恥ずかしい。いや、死んでいるんだけれど。
「いえ、あの・・・・・・そういうわけでは」
しどろもどろに言い訳しているあいだに、男は花のすぐそばに近づいてきた。男が花と視線を合わせるように跪いた。男の整った顔が月明かりに照らされ、さらに神秘的な雰囲気を醸し出している。しかも、先ほどまであった殺気めいた視線はなりを潜め、ライトグレーの瞳が静かに花の顔を映し出していた。吸い込まれるように男の瞳を見つめてしまう。そうして、花が惚けていると、男に抱き抱えられた。そして、初動もなく、ふわりと男と花の体が舞い上がった。
羽が宙を舞うように規則性のない動きで男が湖の上を飛び回る。ゆっくりと心地の良い動きに合わせて柔らかな風が頬をなでる。先ほどまで自分を殺しにかかっていた者だと言うことも忘れ、つかの間の空を楽しむと、男はゆっくりと先ほどいた場所へと戻った。
「どうだ、満足したか?」
「え、はい。ありがとう・・・・・・ございます?」
「さあ、こっちだ。」
男は花の返答を特段気にすることもなく、花を腕から下ろすと、次は片手をつかんでどこかへ案内しようとする。何が起こっているのか混乱している花を尻目に男はずんずん森の中へと入っていく。下草を踏み分けて歩くたびに黄色いほのかな光が舞い上がる。闇夜でもこの光があたりを優しく照らしてくれている。蛍のような光だが、光の玉のようで、少し舞い上がって光ると、すうっと消えていく。幻想的な光の中で連れられるままに歩いて行く。男がしばらくして足を止める。前を歩く背中から顔を出すように、花は立ち止まった先を見た。
「わあ、きれい。」
目の前に現れた社では、宴が始まっていた。白拍子たちが楽にあわせて舞い踊り、女中たちが幾人も膳を持っては帰りを繰り返し、宴席に様々なものが運び込まれているようだ。男は花の手を引いて、宴席に用意された二席のうち一つに導いた。笛や鼓の音と白拍子の澄んだ歌声と、人々の楽しげな表情。目の前に用意された豪華な会席料理。
「何のお祭りですか?」
「お前を迎える宴だ。」
男に聞くと、当然のように答えた。
「どういうお迎えですか・・・・・・?あれですか?こっちの世界にお迎え的な?」
「我が社に迎え入れるということだ、梅子よ。」
さも当然,といわんばかりの男の言葉にさらに混乱してくる。しかし、男はそんな花の様子を気にかけることもなく、花に盃を持たせ、侍女に目配せすると、その侍女が盃ににごり酒を満たしていく。男も同じく盃を差し出して酒を満たす。
「さあ、祝いだ。飲もうぞ。」
男の言葉に、その場にいた者たちが歓声をあげ、楽の方もより楽しげな調べへと変わった。しかし、花、一人だけその盃を持ったまま、居づらい表情でいる。そのまま盃を持ったままでいる花の様子に、ようやく男は気がついたようで、花をうかがい見た。
「酒は苦手か?ならば果実水にしよう。」
「いえ、そうではなく・・・・・・あの、大変申し上げにくいのですが」
「別の酒がよいのか?まったくわがままなやつめ。」
「そうでもなくてですね、あの私、」
「葡萄酒だったか?あれならばお前も飲みやすかろう。」
いや!聞いてくれ!!花は内心でそう叫んだが、同じく口からも同じ叫びが出ていたらしい。男の言葉が止まった。その隙をついて花は言葉を続けた。
「私、梅子じゃありません。磐永 花と申します。」
花の言葉にその場にいた全員の動きが止まった。白拍子も楽の音も侍女たちのくるくる膳を上げ下げする動きもすべてが止まった。楽しそうな表情が一変、全員が口を横に結び、無表情で花を見つめた。
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