神楽の森―田舎でスローライフは難しい―

守屋咲良

第1話

新しいインクの匂い、やわらかい紙の感触、製本された色とりどりの本たち。

 磐永 花にとって、出版社の仕事は天職だった。新宿に本社を構える清玄館は、中小ながらも堅実な仕事ぶりでその方面では評価の高い企業であった。本社といっても、ここ新宿の狭い路地に続く、古びた建物である。しかし、そんな風貌さえも花は気に入っていた。なんとも、レトロでいいじゃないか。エアコンが爆音をたてながら、たいした働きをしないまま生ぬるい風を送ろうが、立て付けの悪い窓に、いよいよヒビが入っていようが。木製の玄関扉の、メッキのはがれたドアノブに【売り地】の看板がぶら下がっているまでは―――。


「・・・・・・は?どういうこと?」


【売り地】の看板がぶら下がったドアノブを回してみると、施錠されているらしい。それでも諦めきれずに、何度かドアノブを回してみるが、やはり職場に入ることはできない。当然である。怒りをぶつけるように扉を思い切り叩いて、花はその場に座り込んだ。

「あらあ、花ちゃん。災難だったねえ。」

向かいのアパートに住む石井さんが水やりの途中らしく、じょうろを持ってこちらにやってきた。石井さんは向かいのアパートの管理人で、花が外回りや帰宅のときには、たまに顔を合わせて挨拶する間柄だ。清玄館の社長とは知り合いらしいと、話の折に聞いたことがある。

「石井さん、なにか知りませんか?来たらこんな状態で、何がなにやら・・・・・・。」

困惑している花に、石井は少し考えると、思い出したように話し始めた。

「そういえばね、昨日の真夜中に人の声と物音があってね。何かしらと思って外をみたら清玄館に明かりがついてたのよ。私、てっきり残業かなにかだと思って、そのまま寝ちゃったんだけどね。」

「昨日って会社お休みでしたよ。今はそこまで忙しい時期じゃないですし、」

「夜逃げ、だったのかしらねえ。」

「夜逃げって・・・・・・」

うなだれる花の鞄でスマートフォンの着信が鳴った。ディスプレイには吉岡くんと表示されている。

「もしもし、」

『もしもし磐永?メール見た?朝起きて、もう俺びっくしりしちゃって。どっきりかと思ったけど課長も部長も俺たちと一緒で何も知らなかったらしいしさー。』

「え、なに?メールってどういうこと?」

『まだメール見てない?まさか迷惑メール振り分けされてるんじゃない?タイトルに会社名が入ってるやつだよ。』 

通話をマイクに変えて、メールの受信履歴を開く。吉岡くんの言うとおり、迷惑メールフォルダに清玄館がタイトルのメールが一通届いていた。




株式会社 清玄館【6月15日 2:37】


件名: 株式会社 清玄館 倒産に関する重要なお知らせ




拝啓、清玄館社員および、関係各所の皆様、


私たち清玄館の取引先・関係者の皆様に、心よりお礼申し上げます。長い間、ご支援・ご協力いただき、誠にありがとうございました。


残念ながら、この度、弊社は業績の悪化により、倒産せざるを得ない状況に陥りましたことをお知らせいたします。この決断は困難なものであり、全社員にとって非常に痛ましい出来事です。


ご理解いただきたいとともに、心からお詫び申し上げます。我々は、常に最善を尽くす努力を重ねてまいりましたが、競争激化や経済状況の変化により、持続可能な経営を維持することができませんでした。


これまでの間、清玄館を支え、応援してくださったお客様、取引先、地域の皆様には深く感謝の意を表します。私たちの使命は、信頼と品質の高いサービスを提供することでしたが、今回の状況によりそれを果たせなかったことを重く受け止めております。


現在、清玄館では、倒産手続きを進めるために必要な措置を講じております。関連する全ての手続きを遵守し、債権者への対応に誠実に取り組んでまいります。


終息までにかかる期間や個々の状況については、現時点では詳細をお伝えすることができませんが、進展があれば速やかにお知らせする所存です。


最後に、長い間清玄館を支えてくださり、誠にありがとうございました。皆様のご理解とお力添えに心から感謝申し上げます。


心からのお礼とお詫びを込めて。


清玄館代表取締役 

館岡 清玄





「うそ・・・・・・」

『ほんと信じられないよな。・・・・・・まあ、色々設備とか直せなかったところをみると、やばそうではあったと思うわ。いよいよ来たか!って感じではあるけどさ。転職の準備始めてた奴らは正解だったってことだな。』

「転職なんて聞いたことないんだけど!まさか吉岡君も?」

『薄々分かってはいたし。むしろ気付いてなかったの磐永ぐらいしゃないか?このレトロ感がいい!って。まあ、お前もがんばれよ!』

元気な声でエールを送られ、そこにいた石井さんも同じく、じょうろを片手にエールを送ってくれた。「がんばって!」と。






新緑の木々の匂い、眩しい初夏の日差し、整理された和室の調度品たち。

今は亡き祖母の屋敷で、花は大の字になっていた。2年前、祖母が亡くなってから手つかずになっていた家に、東京にあった自分の荷物を、全て引っ越しトラックに載せて、ここへやってきた。あの後、社長の消息は誰もつかめず、残った社員たちで退職金の工面をと思ったところが、口座は残高0円。すべてを持ち逃げした社長から何も保証されることなく、社員は路頭に迷うことになったのだ。花が知っているのは同じ部署だった数名と同僚の事だけであるが、若手や技能のある者は早々に別の出版社へ内定を決め、他には、実家の稼業を継ぐと地元へ帰った者や、未だ転職活動を続けている者もいる。

 花はその中でも実家の稼業を継ぐ選択肢をとったことになる。昔からこの地で農業を営んでいたが、なり手もおらず、最後は祖母が細々と続けていた畑。昔は季節の野菜を育てていたが、今は、雑草がうっそうと茂り、花の背丈ほどになっているため、先が見えないほどだ。これを整え、まずはトマトやキュウリを育ててみるか、と種はすでに用意してある。

 東京での暮らしに未練がないのか?そう聞かれれば未練はもちろんある。ただ、一夜にして無職という衝撃的な展開に、花の心は癒やしを求めていた。

 緑豊かな田舎でスローライフ。生きていくのに必要な分があれば、それでいいじゃないか。東京のきらめきより、自然の星々の輝きでこの心を癒やしたい。


「そうだ、引っ越しの挨拶しなきゃ。」


花は畳に投げ出していた体を、がばっと起こした。この田舎でご近所といえば、隣が50メートルは離れている、まさに限界集落。花の両親が住む実家はここより離れた住宅地のため、並ぶように家が建っているが、このあたりでは近所の家は3、4軒あったはず。少し多めに準備をした引っ越し蕎麦を手に、花は挨拶回りに出かけた。


 紙袋に入れた桐箱の蕎麦が、かたかたと、花の足取りと同じように軽やかな音を立てている。両脇にある田んぼには水が張られ、空の景色をそのまま写している。向かっている方から、さあっと、風が吹いた。田んぼの水面が風で揺れ、そこから涼しい風が花の体を優しくなでていった。緑の匂い。水の匂い。久しぶりに感じる自然の匂いをめいいっぱい吸った。

 近いお宅から、といっても徒歩数分はかかる距離の近所から順番に挨拶をした。幼いときに見知った人たちばかりで、ほとんどは祖母と同じくらいの年代の人たちだ。孫が帰ってきたような気持ちなのか、歓迎してくれ、昔話で盛り上がりながら一通りの挨拶をすませた。近所の中で、唯一花と同じ年代の人間といえば、中村家の光太郎だ。幼なじみの光太郎が結婚して、農家を継いでいるそうだ。あいにく、作業中で中村のおばあさんに挨拶しただけであったが、幼なじみがいると思うと、心強かった。

 近所の挨拶が終わり、空を見ると、日が西へ向かっているところであった。家を出たときには日が真上に差していたのが、夕方近くなっている。久しぶりに会えた人たちばかりで、少し話し込んでしまった。こんな風にゆったり時間を使うなんて、多忙な東京の生活では考えられないことだ。住む場所が変わると時間の使い方まで変わってしまうようだ。こんな生活も悪くないな、と感じると帰りの足取りも軽くなる。新しい住人が増えているときのために、と多めに用意していた蕎麦は2箱余ってしまった。仕方ないので、今日の夕飯と備蓄にしてしまうか、と考えて花は元来た道を戻った。

 先ほど青空を移していた田んぼの水面は、夕日になる前の金を混ぜこんだ鈍い光を放つ太陽を鈍く写している。後ろから吹いた風が背中を抜け、行きとおなじく田んぼの水面を揺らしていく。ぼんやりとした輪郭を写した水面から、風の流れに沿うように視線を動かした。ひやり、とした風が道を抜け、花の住む屋敷に届くと、裏山の木々を下から上へと揺らしていった。まるで空へと向かうような風の動きを追うと、ふと忘れていた記憶がよみがえってきた。


裏山にある小さな祠。苔むした石の祠が脳裏に浮かんだ。


そうだ、まだ祠に挨拶をしていない。


幼い頃は、祖母の家に来るたびに、そこに必ず挨拶をしていたというのに。大人になって、すっかり忘れていた。『うちを守ってくださる』と言う祖母の言葉を信じて、小さい時はお供え物を持って、挨拶をしていたものだ。何を祀っているのか分からないが、かなり古い祠だった事は覚えている。農家を営んでいたのだから、土地神様か豊穣の神様か。これから花もこの地でお世話になるならば、ここにも挨拶がいるだろう。丁度いいことにお供えできるものはこの手にある。日が落ちてしまう前に挨拶をしてしまおう。花は屋敷のすぐ脇にある森へと続く小道へと足を進めた。

森へと足を踏み入れる。背の高い木々によって日を遮られ、薄暗い。どことなく、遠くから聞こえる鳥の鳴き声が、いつもと違うように思える。こんな不気味なところだっただろうか・・・・・・。心の隅でそんな事を思いながらも、ばかばかしいと自分でその考えを打ち消した。花は、かろうじて道として整えられているのを辿っていく。幼い頃の記憶では山を登ってすぐにあったと思っていた祠は、なかなか見えてこない。小さい時の方は身軽で動けていたのか、はたまた都会の生活で体がなまったのか、息が上がってきたところで、2メートル四方ほどの広場に突き当たった。その奥には記憶にあった祠が鎮座している。祠は周りの木々に守られるように根が絡みつき、その上からしっとりと水を含んだような青々とした苔に覆われている。薄暗い森の中でも、祠の周りはさらに影が深くなっているようだ。今、こうして見ると、幼い頃の自分はどうしてこんな場所へ毎回挨拶に来れていたのだろうか。たぶん、心霊スポットとして紹介されても違和感のない雰囲気だ。裏山に入るまでは幼い頃の記憶が美化されていたこともあってか、軽い気持ちでいたが、今は激しく後悔している。一人肝試しをしている気分だ。ただ、ここまで来た手前、手ぶらで帰るのも祟られそうで怖い。花は短く息を吐いた。そして、意を決して、祠に近づいた。

大きな岩と一体化したような祠には手前に供物を置けるように平たい岩がある。幼いときも、そこに果物やら、ご飯やらを供えていた。そこにおそるおそる桐箱の蕎麦を捧げた。

「今日からお世話になります、磐永 花です。よろしくお願いします。」

手を合わせて、早口で挨拶を済ませる。一刻も早く帰りたいため、すぐに回れ右をする。その瞬間、目の端に白いものが通ったように見えた。

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