野地 牧


 蛙は、薄暗い岩屋の中で物思いに耽っていた。この場所での娯楽といえば、せいぜい苔や黴を眺める程度であり、心を喜ばせるには頭を動かすしかないのである。

 彼の輝かしい日々は、数年前のある夏の日に、心ない者によって突然奪われた。そして、今も自由を取り戻せずにいる。

 彼の苦痛の根源たる岩は、その岩屋の唯一の窓を塞ぎながら、ただひたすらに外の世界を見つめているらしい。顔いっぱいに柔らかな日差しを浴びているのだろう。流れに逆らって懸命に泳ぐめだかの姿も、風にゆらめく水面から降る光も、憎き岩の眼を喜ばせているのだろうか。


 「今、どういうことを考えているのか」

 独り言のように発した岩の質問は、川音に紛れて、およそこのように聞き取れた。蛙は実際、初めて目を開いた時のことを思い出していた。


 仄かに明るい水の中で、彼は初めての自分の体を感じた。小さな身体をくねらせて泳ぎ、水面に浮かぶ藻をひたすら食べた。彼はそうやって、自分がこの世界で生きていくために必要な力をつけた。

 ある時彼は、同じ色で同じ形の生き物が、同じ場所に集められ、同じように泳いでいることを不思議に思った。そのくせ、流れに従い漂うこの生き物たちは、近づきつつ離れつつ、それがまるで自分の意思であるかのように振る舞っていた。彼は、この小さな世界から逃げ出したいと感じるようになっていた。


 ある日彼は、川の向こうで、夕陽がちらちらと反射するのを見つけた。その一瞬のきらめきの内に、まだ見たことのない広い世界があると直感した彼は、心のままに、生まれた場所を飛び出した。川の水が絶えず流れるものと知らないまま飛び込んだ彼は、待ち構えていた急流に、最も簡単に巻き込まれた。激しい流れに身体が揺られ、水しぶきが顔に当たり、無数の泡を生んだ。彼は、小さな体をくるりと回転させ、流されまいと踏ん張るが、水流は激しさを増し、終には耐えきれずに大きな岩にぶつかり、意識を失った。

 彼は、目を覚ました後もしばらくの間は自分がどこにいるのかわからなかった。やがてゆっくりと起き上がり、目の前に流れる川を見つめた。ぼやけた視界の中からでも、目的の場所に辿り着いたことを確信した。水草の隙間から想像していたよりもずっと広い世界に、彼は忽ち魅了された。


 ゆるやかに川の水が流れ込むその池の周りには、深い緑に覆われた木々が立ち並んでいた。自在に泳ぎ回る鮮やかな色合いの魚たちの小さな波紋が、水面に映り込む空や雲の色、赤や黄の花たちを、不規則に揺らめかせた。その命の営みを見つめながら、露に傾く葉の下で漏れる光を浴びていた彼は、これまで見たことのない美しい光景に感動し、初めて心から自由を得たと感じた。そして彼はもっと広い世界をたくさん見たいと願った。


 ある日、池と川のちょうど中間あたりに、大きな岩があるのを見つけた。表面に苔や藻が生い茂り、年月の経過を感じさせるような表情をしていた。彼はその不思議な魅力に惹かれるままに、ぐるっと周りを泳いでみると、小さな穴を見つけた。その穴は、滑らかな石のようなものによって、内側から栓をされているようだった。

 「中に入れるかもしれない」

 その考えに支配された彼は、一晩中岩屋の中を想像した。


 彼が再び岩を訪れると、栓を失くした穴が、彼を呼び込んでいるように見えた。そっと中を覗くと、奥にはただ暗闇が広がっていた。彼は、いつの間にか自分の呼吸が大きくなっていることに気付いた。それを誤魔化すように、奥に向かって話しかけてみたが、その声はただ水に吸収されるだけで、反応はなかった。

 やがて、目の前の穴に吸い込まれるように、一歩ずつ前に進んだ。そして、全身を使って息を吸い込むと、身体を前に投げ出し、穴の中に飛び込んだ。その瞬間、穴の栓の役目を放棄したはずの岩が現れ、出入り口を塞いだ。その岩は、彼に振り向いて宣言した。

 「一生涯ここに閉じ込めてやる!」

 そして今日まで、彼はその中で過ごしていた。


 彼はまた、この部屋の壁の一部と化した小さな岩の、ヒステリックな口癖を咀嚼していた。

 「おまえはばかだ」


 彼の中にもう怒りはなかった。それを岩に伝えようとしたが、声になったかは分からなかった。窓の隙間から漏れる光に目を細めた彼は、楽しそうに踊る小エビに誘われるように岩屋の外に出る夢を、何度も繰り返し見た。

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