取って付けたような
「……」
だが、田中氏の警戒は一向に解ける気配はなく、カクテルもあまり進んでいないように見える。
「私があそこに通うようになったのは、不眠症が原因でね」
心を許す相手を求めるならば、此方もまた相応の態度や言動をしなければならない。それはつまり、身の丈を述懐し、田中氏が俺の懐に飛び込むだけの余裕と余白を与えることだ。
「去年の今頃かな。季節の折り目で過ごしやすい気温だった」
白々しく遠い目をする俺は、ありもしない情景を紡ぐ。
「同僚と歓楽街を歩いている時に、雑居ビルの窓ガラスを不意に見たんだ」
就労時間内でしか付き合いがない同僚と、私的な関係を築いたことは今まで一度もない。
「夢クリニック。一見して思ったよ。胡散臭っ! ってね」
喜劇の語り手さながらに身振り手振りを駆使しながら語っていると、田中氏の口角が僅かに上がったのが見えた。そして、グラスのくびれに指を挟み、俺の話を酒の肴にし出す。
「その日は同僚と笑い話にして帰った覚えがある」
前述の通り、これは真っ赤の嘘である。俺が通うきっかけをくれたのは、学生時代のクラスメイトだ。何年も前に同窓会が催された。とある女子生徒が幹事を取り仕切る同窓会は、クラスメイトの全員が参加することを所望し、教室で孤立していた俺はにすら接触を図った。人間関係が極めて疎かったとはいえ、このような行事に参加を促されることは吝かではなかった。座敷がある居酒屋に何十人ものクラスメイトが集まったものの、俺はほとんど名前や顔を覚えておらず、目の前のビールを呷ることでしか、居場所を見つけられなかった。そんな中で、一人の男から声を掛けられた。
「久しぶりだな。井手口」
その面差しに見覚えはなかった。浅黒い肌に太い眉。鋭い目付きを形作る厚ぼったい目蓋に一重が際立ち、一見すると近付き難い雰囲気があった。
「嗚呼、久しぶり」
同窓会という場でなければ、口を利くこともない風貌をした目の前の男に対して、昔馴染みとの再会を喜んでいるかのような笑顔を作る。どこに地雷が埋まっているかも定かではない、綱渡りの会話がこれから始まることへ冷や汗が先んじて流れ出す。
「目の下の隈が酷いな。寝てないんじゃないか?」
他人から体調の案配を心配されるような注目を長らく浴びてこなかった俺は、このような言葉が心身共に染み渡る。
「そうだねぇ。最近はなかなか忙しくて」
まるで自分以外の人間より遥かに忙殺を極める立場にあるかのような言い草をし、親切心に泥を塗るような真似をした。言下に立つ瀬がなくなり、俺は紅潮する顔を酒気のせいにしてビールを三度傾ける。
「それは難儀だ」
それでも、クラスメイトは嫌味の一つも言わずに、俺の阿呆らしい理由を受け入れてくれた。神経質で切羽詰まった相手ならば、睨み合いに発展してもおかしくない。目の前にあるのは、心に余裕がある者の特有の寛大さだ。
「僕もつい最近までは悩まされたよ。不眠症に」
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