寝入りの理由
部屋に一人残されて尚、俺にはこの場を脱しようという心持ちを抱けなかった。身体を鍛えようと購入したダンベルが両手足に牙を剥き、赤黒く変色したせいも大いに関係し、俺の部屋は離島さながらに隔絶された。これは眠気眼だろうか。妙に目蓋が重く、今にも意識が途絶しそうな気配があり、視界を断つにはそれこそ諦観を携える気構えが必要だ。
「……」
これほど物音がしないのは珍しい。時が止まったかのような森閑とした部屋は、ここに引っ越してから一度も味わったことがない。逼迫した精神が弱音を吐いたことによる合併症を疑うものの、女が歩く足音すら聞こえてこないのは、首を傾げるところだ。もしやすると、五感すべてが曖昧になるような命の危険を訴える信号を脳が送ってきており、それを間に受けた身体の反応なのだとしたら、俺はまさしく鈍感としか言いようがない。五体満足とはいかない状況に晒されながらも、その末路を想像できていない。物事を楽観視する太平楽な思想を有し、常日頃から平和ボケに浸っているつもりはなかった。だがしかし、まるで自分を物語の登場人物のように据え、無意識下で助かる見込みを図っているとすれば、あまりに救い難い馬鹿げた考えだ。
俺は今の状態をどのように捉え、考え、そして気持ちの整理を付けようとしているのだろうか。自己を正しく認識し、身体に起きている出来事を仔細に把握した上、混沌に口を開けてうつけた顔とは一線を画した極めて平易な感覚を買い物袋のように腕へ下げている。これを達観や諦観などと呼んで、定義付けるのは些か乱暴のように思えてならず、もし仮に思考の発展を望むのなら、鵜の目鷹の目で部屋から脱する機会を自ら模索する必要があった。ただし、これはあくまでも、健康を害する手前の女と出会ったばかりの頃に行うべきことであり、数日も経って衰弱しかかった身体では凡そ似つかわしくない。ならば、こう考えてみたらどうか。これは悪夢に因んだ幻想だと。最近は寝ても覚めても、身体は気怠さを覚え、出勤に際して常に鬱憤が吹き溜まる退廃的な日々を過ごしていた。年功序列という杓子定規なシステムに甘んじて、この世に数多いる馬齢を重ねるだけの家畜に自ら誘い込まれたはずなのだが、心身は「不満」をひとえに訴えてこのような悪夢を見せてきている。一連の出来事を甘んじて享受するより、醸成された夢現の一つに数えるのは、最も建設的な答えと言えるだろう。著しく鈍い五感や、当初の目論みから大きく逸脱した不運な境遇全てが、夢だからこそ起きた事柄なのだ。今なら、目蓋を閉じても恐れることはない。さぁ、眠ろう——
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