第19話 わたしが支えて、傍にいるから
春臣side
彩冷さんからの陵辱から数日。何もしなくてもいい、と彼女から言われ続けた室内は、噎せ返るほどの悪臭。
この異常性に満ちた室内に缶詰め状態の為、兎に角、外の空気が吸いたい。
そんな思いも虚しく、体は疲弊して動かせない。それは監禁されてるから当たり前だ。ここが自分の部屋だというのに。
ただ、唯一許されたスマホを手に取って眺める。
「地獄だな……」
絞り出す声も、自分のものだと思えないほど掠れた老人のようだった。
画面を見つめるのも億劫で、途中で電源を落とす。
同時に黒く映し出される自身の顔に驚いた。明らかに頬がコケ、老いている。
「ストレスとは……怖いものだな……」
思わず声に出し、嘲笑する。自分の情け無さと、不甲斐無さに、何も出来ない愚かさに。
思いを綴りながら、スマホを床に置いた。
「――っ」
その瞬間、スマホが鳴り出し、着信が入る。スマホの画面には、妹の名前が書かれている。
美春だ。
鳴り続ける着信に、電話である事が分かる。いつもはメールのやり取り、休日には自宅まで来るのが最近のルーティンとなっている。
俺は迷わず美春の電話に出た。
「も、もしもし……?」
久し振りの妹との電話で、声が裏返る。
妹相手に何を躊躇しているのか、上擦った声に恥ずかしさを抱えながら返答を待つ。
「お兄……?」
美春の声だ。
躊躇いがちな声ではあるが、凛とした鈴の音が懐かしく感じる。俺は思わず力が抜け、大きく溜息を漏らしていた。
その溜息が美春にも聞こえたのか、優しく問いかけてくれた。
「ねぇ、お兄……大丈夫?」
「あぁ……」
今は、それ以上言葉が出てこなかった。
身内の声で、ここまで安心する日が来るとは思いもしなかったからだ。
しかも、妹の美春の声に。
「お兄、今どこにいるの?」
「家にいる……」
「今はお兄だけ?」
美春が心配するのも無理はないだろう。今までの素っ気ない態度、一ヶ月近くの欠勤。
怪しまれても仕方がない。
誰かに監禁されていると考えるのが妥当だろう。
だが、それは言えない。美春を巻き込みたくないのもあるが、彩冷さんに何をされるのか分からない。ただ自分が怖いだけ。
だから、ゴメン美春……。
「……そう、だな」
「……」
俺の言葉に、美春の返答は無い。
スピーカーから美春の息遣いが流れて数秒後。
「お兄……携帯繋いだまま、スピーカー音にしてくれない?」
「何か意図でもあるのか……?」
「いいから。言う通りにしてっ……」
普段のお茶らけた口調ではなく、語気を強める妹に少し戸惑う。
俺は透かさず美春の言葉に従う。
「わ、わかった……」
「それと、悟られないようにスマホは何処かに隠して聴こえる場所に置いてもらえば大丈夫――」
「ただいま〜」
美春が言い終える途中、玄関の音と同時に彩冷さんが帰宅する。
マズイっ、早く携帯をどこかに――。
「春臣くん……。ナニか探し物……?」
背中の至近距離から、彩冷さんの声が聴こえる。
冷たく無機質な声に体が固まり、振り返る事も動く事も出来なかった。
そして、肩に重みを感じ、恐る恐る顔を回転させる。
そこには人の限界を超えた双眸が、俺を捉えていた。瞬きもしない瞳は、俺を睨みつけて眉一つ動かさず、ただ見ている。
「ねぇ……黙ってたらナニもワカラナイヨ……?」
一部分しか動かない人形のように口を開き、今も尚、ジッとこちらを傍観する彼女。
怖い……とてつもなく恐い。
全身から冷たい何かが噴き出し、恐怖で口を開くことが出来ない。
それでも何か、何か喋らないとっ。
「……な、なんでもない、です……」
「じゃあ、誰と喋ってたの?」
何で……。どこでバレた……?
そう開きかけた口を遮るように、俺の体は仰向けに倒されていた。背中の激痛に耐えながら、揺れる視界を戻そうと頭を振る。
そして、下半身に重量が加わり、彼女は馬乗りになっていた。
「私が帰る時、女の声が聞こえた……。どこに隠してるの? ねえッ!」
叫声と共に顔を近付け、俺の瞳を覗き込む。
血走った双眸は、ギョロギョロと動かして問いただしてくる。
だが、幸いにスマホで連絡を取っていた事はバレてはいない。このまま有耶無耶に出来れば、何とか――。
「教えてくれないんだ……。私はこんなに愛してるのに……春臣くんは家に女を連れ込むんだ。私が仕事に行ってる間に……」
「何を――」
言いかけた言葉を遮り、俺は両腕を抑えつけられていた。
抵抗しようと動かすが、微動だにしない。部屋で満足に動かす事が出来なかった為か、全く力が入らない。それとも、彼女の力が強過ぎるのか、もう分からない。
拘束を解こうと躍起になり、不意に彼女の顔を見て驚いた。
犬歯を剥き出し、ガリガリと歯音を立てて殺意が滲み出ている。その憎悪に満ちた素顔に、抵抗の意志が削がれていき、腕を緩めていた。
「罰として、またお仕置きの時間かなぁ……♡ どれだけキミを愛シテルカ、教えてあげなきゃ♡」
その言葉を聞いて、鳥肌が立つ。
またあの時間が流れる、満足するまで止まらない、あの凌辱が……。
彩冷さんは指を滑らせ、俺の体を撫でまわす。濁りきった沼のような黒い瞳で見下ろし、恍惚とした表情で覆い被さるように倒れる。
「スキスキスキスキッ♡ 愛シテル愛シテル愛シテル愛シテル……愛シテルッ♡ キミの為の体だよ? 治してくれたキミの、健康な体♡ ほらっ、こんな動かしても心臓も痛くないよ? キミのお陰で正常に、正確に、刻んでる♡ あぁ……春臣くぅん♡ ハルオミクゥン……♡」
どれぐらい経った……?
布団で重なり合って、そんなに経ってないはずだが、もう体が痛い。彼女が馬乗りで上下を繰り返して、狂気を帯びた瞳を向け続けられて時間が止まっているように感じる。
彼女が抱き着く度に、俺の体中に爪痕で
これ自体、彼女にとって気持ちのいい行為に変換されるのか、何度も体を震わせて達していた。
「あぁ……ぁぁ……♡ 罰とか言って、私が気持ちよくなってるだけだよね? 春臣くんも、すぐに逝かせてあげるからぁ……♡ あぁむっ♡」
「いッ――!」
声を上げる程の衝撃が走る。
肩に歯が食い込み、噛まれた箇所が徐々に熱を増していく。信じれない痛みに、俺はただ堪えることしか出来ない。
痛みで意識が朦朧とし、視界がボヤける。彼女の腰が上下に乱舞し、肩にはどんどん歯が食い入り、快感と激痛で俺の頭は可笑しくなり始めていた。
もう、やめてくれ……。痛みで可笑しくなりそうだ……。
意識を手放そうとした時、足音がバタバタと外から聞こえてくる。それに気付いた彼女は肩を手放して、周りをキョロキョロ見渡す。
彩冷さんは部屋を飛び出し、インターホンが鳴り響き何か受け答えをしていた。
誰と喋ってるんだ……?
美春side
お兄っ……。わたしが助けるからっ、待ってて。
心の中で唱えながら、氷鞠と警察を連れて家に向かう。走りながら、氷鞠が笑いかけてくる。
「それにしても、よく通話繋いだまま警官に説得できたよね。DVの証拠音声ですって」
「その為に、お兄には繋いでもらったんです。証拠は一つでも多い方が良いです。ですが、あの女の卑劣な行為は聞くに堪えませんっ……」
「確かに……」
自宅に着き、警察がドアをノックする。返事が無い為、インターホンを鳴らしながら名乗る。
「すいませーん、百目鬼さんのお宅に通報があって来たんですが、開けて頂けませんか?」
すると、中から慌ただしく玄関に向かう音が聞こえる。あの女が近付いてくる。ドアのレンズを覗く影が見え、恐らく警察だと認識しただろう。
そして、猫撫で声で警官に対応し始めた。
「お巡りさんがウチに何か御用ですか? 今、彼氏は不在ですけど〜」
気持ち悪い。
肉声を聞くだけでも腸が煮えくり返る。何が不在だ。一方的にお兄を貪っておきながら、この餓鬼が……。
心中収まらないわたしは、頭の中でボロクソに罵倒を投げる中、自己中女が扉を開けた。
隙間から見える服装は乱れ、明らかに情事に耽っていた事を表している。すると、わたしの横で大口を開けて驚く氷鞠が女に声を荒げる。
「あ、彩冷……先輩」
先輩ということは、彼女は会社の人。それは同様に、お兄の会社の上司になるのか。
驚愕する氷鞠に興味が無いのか、この女は何も答えず無視する。
思案する中、警察が女を上下に目視しながら詰問する。
「この方々から通報がありまして、アナタに監禁の疑いがかかってます。少々ご自宅を拝見しても?」
「……どうぞ♪」
やたらニヤける不敵な笑みに、何か違和感を覚える。
何で、コイツこんなに余裕なの? 見つからない自信でもあるの?
わたし達は部屋をくまなく探し、お兄が監禁されている場所を探索した。
でも、どこにもその姿は無い。
「何で……」
乱れた部屋が無い事に違和感を覚えつつ、念入りに何度も調べる。
だが、居ない。
そんな私の姿を見て、女は口元を隠し嘲笑う。
「私も彼が帰ってこなくて困ってるんです〜。捜索願いとか出してもらえます?」
コイツッ……ぶん殴りたい。
結局、証拠不十分となり警察官は玄関に向かう。まだ、まだ何かあるかもしれない。
わたしは警官を呼び止めようと、手を伸ばす。
「待っ――」
「助けて……」
か細い声が、部屋のどこからか聞こえた。幻聴では無く、確実にお兄の声。
まるで母親を呼ぶ幼子の声で。
「聞こえた? 美春……」
氷鞠に返答するように頷く。
二人で声の発生源を辿り、進んで行く。そこは何も無い一室、物置部屋として使っている部屋。
変哲も無い場所を手探りで叩いてみたり、動かしてみる。
壁に接触しながら調べると、黒くくすんで動かした跡がある。凝視すると、切れ目のようなものが見える。
爪を立てて動かすと、取り外す事が出来た。撤去したと同時に、隙間から蒸れた臭いとイカ臭いが流れてくる。
わたしは思わず鼻を塞ぎ、暗闇を覗き込む。
そこには裸で倒れたお兄が涙を流し、天井見ていた。
「お兄っ!!」
「春臣っ!!」
飛びついて頭を抱え、意識があるかどうか確認した。
息は浅いが、わたしの返事に応える。
氷鞠と一緒に肩で支え、悪臭のする部屋を後にする。部屋にあったシャツを被せ、玄関へと向かうと動揺する女が立ち尽くしている。
噤口する彼女を横切り、警官が手錠を掛けようと近付く。
それを尻目に出口に向かうと、後方で何かが倒れる音が聞こえる。後ろを振り返ろうと、首を回す途中で止めた。
それはお兄の顔が青ざめている。まるで血の気が引いていくような。
「はぁ……はぁ……っ――」
お兄は息を切らしながら膝をつき、前屈みになる。
「お兄、どうした――」
先の言葉を紡ごうとした時、わたしはある物に目がいった。
夕暮れの陽光が銀色の何かを照らしている。
これ……なに? お兄の背中から何か生えてる。
これは、包丁……?
白いシャツが赤黒い鮮血で、広がり続け徐々に滲んでいく。理解しようと処理するが、脳はそれを拒み続けた。
理解すればお兄がどうなるか、死んでしまうのではと頭が結論づけるからだ。
その姿を傍観する中、犯人は突然高笑いをする。
「アッハッハッハ……。春臣くんがその二人を拒まないから、私の物にならないから……。やっぱり妹がいいんだ……そんなに血の繋がりが大事なんだっ! だったら、こんな世界に興味なんかない……。春臣くんも、もう時期死ぬ……来世に期待するしか無いね」
女はもう一つ包丁を持ち、自身の喉笛を貫いた。
血煙が周りに飛び散り、甲高い音が鳴り響いて咽からドロリと黒い血が噴き出す。
鉄の臭いが瞬時に広がり、鼻から全身へと不快感が駆け巡っていく。わたしは、ただそれを呆然と見ることしか出来なかった。
「うっ……」
お兄の呻き声で我に返り、隣で腰を抜かす氷鞠に促す。
「救急車を呼んでっ! 早くっ!」
「あぁ……う、うんっ」
震える手で携帯を取り、拙い口調で必死に電話をする。
わたしは意識を保たせる為に、お兄に叫び続ける。
「お兄っ……お兄っ!」
「みは、る……。ゴメンな……こんな、お兄ちゃんで……」
「何言ってるの……? 変なこと言わないでよっ、お兄……」
「あぁ……」
何でそんな目で見るの……? わたしを置いて逝かないよね……。いつまでも、わたしの傍で守ってくれるんじゃないの?
お別れなんて、しないよね?
儚げな姿を見る内、鼻の奥が痺れて涙が溢れてくる。大好きな人が居なくなる、愛した人に何も告げられずこの世を去る。そんな気持ちが奥底から湧いてくる。
居なくなる前提で言うのはヤダけど、後悔は後悔はしたくない。
「お兄……誰よりもずっと、ずっと……愛してる」
「俺、も……。だいすき、だ……」
夕日に照らされて微笑む素顔に、わたしは改めて彼に惚れ直した。
遠くからサイレンが近づき、救急車が向かってくるのが分かった。
不意にわたしは、お兄の顔に自分の顔を重ね、視界がボヤけていった。
○月○日
今日はお見舞いの日。
病院のご飯が不味いと、お兄の愚痴を暫く聞いていた。退屈で、テレビを見ながら窓の空を見てると、ボケが早まりそうだ、と語った。
わたしは、どうなっても離れないから安心して、って言うと困った顔をする。何か困惑する事でも言ったかな?
○月○日
今日は車椅子で散歩した日。
暖かい陽気に身を委ね、木漏れ日の煉瓦道を歩く。院内の土筆やタンポポを愛でながら、お兄の病院での生活を聞いて談笑する。
わたしの料理が恋しい、ってまた料理の文句を延々と話す。帰って来たら、お兄の好きな料理食べさせてあげるからね。
勿論、口移しで。
冗談だけど♪
○月○日
今日は退院の日。
少し肌寒い日の紅葉の季節。病院の方々には色々説明を受け、感謝し切れない。でも、やっとお兄と一緒に暮らせる。
こんなに心臓が高鳴る事は無い。お風呂も一緒に入れるし、ご飯も人の目を気にせず食べさせられる。
でも、一つだけ不服な事がある。
退院って分かった日、氷鞠が来ていた。正直来なくていいと思ったけど、まぁ今日くらいは花を持たせてあげるか。
助けてくれた義理もあるし。
どうせ家で、わたしが独占できる訳だし。絶対ビッチなんか、お兄に近付けさせないから。
それに、これからの夢も出来たし。
些細な夢かもしれないけど、またお兄と……歩いて何処かに遊びに行きたいな。
大好きな人と、横で手を繋ぎながら一緒に……。いつまでも……。
重めの愛でも支えられれば大丈夫 泰然 @ayahi0426
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