4-4 視線の検証

「君は今日ここに来てから、私の背中をなるべく見ようとしなかったでしょう?」

「まあ、はい。気付いてから、目のやり場に困るとずっと思ってました」

 今だって困ってますよ。正面なんだから、当然じゃないですか。でもブラジャーのデザインはともかく、大きさを目測しようなんて決して思ってませんから。

「こういう服に対して男性は、積極的に見ようとする人と、気を使ってなるべく見ないようにする人に分かれるわよね。概ね後者が多いと思うわ、君のように」

「良識があるならそうします」

 でも本心は僕だって見た……いや、何でもないです。二の腕だけで十分です。

「同じように、試験監督も良識があったということ。彼女が上着を脱いだ時、汗で部分的に透けているのが、私から遠目に見てもわかったわ。そうなると、余計に目を逸らす。文字らしきものが見えても、気付かなかったふりをする」

「そうですね、確かに……」

「さらに湿ることで、刺繍のような模様があれば、その部分は浮き出すことになるはず」

「そこまで計算してますか……」

「乾けば見えにくくなるけれど、試験開始後のほんの数分間見えていれば用が足りるわ」

 そうか、時間が経ったら透けなくなることもあるんやった。

 で、見えにくくなってもずっとさらしておいたら、巡回してる試験監督が気付くかもしれない。だからエアコンの風量を調節した時に、これ幸いと上着を着て隠してしまった。それがなくてもその頃に着るつもりだったんだろう。

 これって、心理的盲点ってやつ? ミステリーの「視線による密室」に応用できそうな感じ。見ない方がいいと感じたものは、見えなかったことになる……

 待てよ。古いマンガで読んだ記憶があるぞ。敵に捕まった時に、見張りの前を裸で通ったら、あり得ないことなので見逃す……いや、余計なことを考えるのはやめよう。

「アイさんとウエさんは付き合ってるんですか」

「私は知らなかったけれど、後で他の人に聞いたらそうみたいね」

 男女関係に興味がなさそうなこと言ってますけど、僕にはなぜ絡んでくるんですか。

「周りの他の人はカンニングに気付いてなかったんですか」

「左さんの後ろの女子が気付いていたと思うけれど、やはり指摘はしなかったわ」

「ウエさんが受かって他の人が落ちれば問題になりそうですけど」

「心配しないで。彼は落ちたから」

 あ、やっぱり。だから告発しなかったんや。

「アイさんは」

「さっき言ったとおり、合格したわ」

 いや、そうじゃなくて、協力したのに甲斐がなかったことについて、どう思ったんだろう、っていうのを気にしたんですけどね。そもそもカンニングの手伝いを頼むような男とは、付き合わない方がいいと思うんだけど。

 まあその辺のところは真倫さんの〝出題〟とは関係ないから、気にしないでおこうか。

「ところでその服は、この検証のためだけに着てきたんですか。できれば……」

「だって君に見せるのなら恥ずかしくないもの」

 ぐさっ! 今までで一番強烈なクーデレ来たわ。藪蛇やった。「早く隠してください」って言いたかったんやけど。

「さ、寒くないですか?」

 あかん、動揺して変なこと訊いてしもうた。

「いいえ、ちっとも。でも背中に何と書いてあったかも、君は読んでないんでしょうね」

「だって、注意して見ようと思ってませんし!」

 を検証しようとしたんでしょ? 僕をすぐ後ろに座らせて、もしかしたら鏡か何かで僕の視線をチェックしつつ、背中が僕の目に入るように動き回って。もちろん、僕が見ようとしないこと自体がことも考慮して。だったら読んでなくて正解じゃないですか。

 もし「華斗くんのことが好きだけれど、それが何か?」なんて書いてあったら、僕はどうしたらええんや!

 しかし幸いなことに(?)真倫さんは僕に背中を見せず、事務机の抽斗からオリーブ色のカーディガンを取り出して羽織った。前のボタンまでちゃんと掛ける。やれやれ、これで一安心。って、僕が安心することなのか。

「出掛けますか、図書館に」

「ええ、行きましょう」

 部屋を出る前、真倫さんはドア横の傘立てから、白い日傘を取った。おや、今日は歩いて来たんですか。まあタイトスカートでバイクに乗るのはさすがにないか。

 外に出ると、やはり一番暑い時間帯。僕は自転車を押し、真倫さんと並んで歩く。日傘が作る影には、僕の肩しか入らない。ええ、別に何も問題ありませんとも。

「念のため、もう一度言っておくけれど」

 真っ直ぐ前を見ながら真倫さんが言う。僕も、一瞬だけ彼女を横目で見ただけで、前を向いておく。夏休みの教養部構内は学生もおらず静かで、足元のアスファルトは陽炎が立ちそうなほど熱く焼けている。

「何ですか」

「私がどんな服を着ていようと、君は正視していいのよ。君と会う時は、状況に相応しいものを選んでいるから」

 正視しなかったのを怒られている気がしないでもない。「私を見て」の類いに近いか。

「でも今日は特に意図があったんですよね」

「もちろん。でも限度は超えていないつもり」

「限度……って、アイさんは限度を超えてたんですか」

「そうね。下着の模様が派手だったわ。それもカモフラージュになっていたんでしょうけれど、私が真後ろに座っていたら、一言注意したくなったでしょうね」

 見せブラってことじゃないですよね。装飾文字を模様の中に隠すってことか。

「でも真倫さんらしくない服は着て欲しくないんですよ。クーデレのキャラを演じてくれてるんでしょ、一応」

「合っていなかったかしら?」

「いえ、限度ぎりぎりかと……」

「そう。なら、次から似合っている時にはそう言ってくれると嬉しいわ」

 服を褒めろと? それって真倫さんを〝女性として〟意識しろってことでは? あかん、また墓穴掘った。いや、掘らされたんか。そして真倫さんはクーデレ台詞を連発するという負のスパイラルに入っていきそう。

 教養部構内を抜けて、本部構内へ。こちらも人影は少ないものの、多少の気配は感じられる。理系の4回生や院生は夏休みでもゼミがあるし、卒論や修論ための研究を進めなければならない。だから図書館も開いている。

「図書館へ何をしにいくんですか」

「私が気に入っていてよく読む本があるんだけれど、それが行方不明というのを司書から聞いたので、探しに行くの」

「司書さんから連絡があったんですか?」

「ええ、ネットで予約しておくとカウンターに用意してくれるんだけれど、見つからないというメールが」

 大学図書館にそんなサービスがあったのか、と思いつつ真倫さんに付いていく。しかし構内西端にある煉瓦色の図書館へは向かわず、東にある工学部の建物の方へ。

「学部図書館ですか?」

「ええ、工学部図書館」

 なるほど、そっちだったか。

 どこの大学でもそうだと思うが、全学共通の図書館と、各学部の図書館がある。学部図書館は、もちろん所属学部に関係する専門書の蔵書が多く、一般の書店では売ってないような資料もある。例えば学会の論文集など。最近は電子ファイルが多いが、過去の物は冊子そのものと、マイクロフィルム――それもほとんどは電子化を進めているだろう――を保管しているはず。

 中でも工学部図書館は特に蔵書が多いのだが、僕の記憶ではかつては学科毎に図書館があったのを、ある時一つに集約したのではなかったか。まあ知っててもクイズにすらならない知識ではある。

 ちなみに学部図書館には、他学部の学生も入ることができる。ただし学生証による申請と登録が必要。僕は文学部図書館以外に入ったことはないけれども。

 工学部6号館という名が付いている建物に入る。僕は初めて。その1階と2階が図書館であるらしい。入る前に真倫さんが立ち止まり、今度は僕の目を言う。

「ここでは私は麻生雅子に戻るけれど、所作については特に気にしないで欲しいの」

 ずいぶんと真剣な表情と思ったら、今さらなことを。まあ学生証を提示するところでは素に戻る必要があるのはわかるけど。

「麻生雅子さんの実態を知らないので、何とも言いようがないですよ。というか葉色真倫さんの性格とそんなにギャップがあるんですか?」

に嫌われることはないと思う、という程度かしら」

 さっきまで〝君〟と呼ばれていたのに〝あなた〟に変わった。ちょっと他人行儀になった? もう麻生雅子さんなのか。表情はそんなに変わってないのに。

 さて、図書館の入り口には自動改札機のようなゲートがあって、彼女はもちろん学生証で通り抜けられるけども、僕は登録をしなければならない。

 たいして難しいことはなく、司書に頼むとICカードリーダーで学生証のIDを読み取り、利用目的を言うくらい。「建築学資料閲覧」にしておく。

 ただ、登録をしてくれた司書が、ものすごくインパクトの強いタイプなのが気になった。巨大な顔に、み○らじゅんさんかと思うようなちぢれた長髪、丸い黒縁眼鏡とその奥の垂れ目、こもったような声。これでワイシャツにスラックス姿でなかったら、図書館に忍び込んで住んでるホームレスかと思うところ。

「麻生さんが男子学生と一緒に来るなんて珍しいですな、ふっふっふ」

 余計な感想を漏らすのはともかく、最後の笑い声がまた奇妙。「ふっふっふ」よりは「ほっほっほ」の方が近いかもしれないが、どこから出ているのかと思うような声だ。

 対して雅子さん(ここではこう呼ぶべきなのだろう)は「新しいお友達なんです」と答える。えっ、照れてる? やっぱりクーデレやないんや。何か初々しい。しかし「彼氏です」などと紹介されたら僕もどうしていいかわからなかったので、その点は助かる。

「それより連絡を頂いてありがとうございました」

「ああ、あの本ね。本当なら私が探さなきゃいけないんだけど、夏休みの間はワンオペになって他の仕事もあるから、探すのに時間がかけられなくて」

「いえ、いいんです。読みたいのは私ですから、自分で探します」

「いやいや、申し訳ない。ああそれから、過去に見つけた場所は、思い出せる限りここに書き出しておいたから」

「ありがとうございます」

 雅子さんは司書から大きめの付箋紙をもらい、バッグを預けて(そういう規則。持ち込み可能なのは筆記用具のみ)館内へ。多数の本棚と閲覧席が並ぶ。広さは一般的な市立図書館くらいだろうか。閲覧席には4、5人の学生の姿が見える。やはりいるんだ、という感じ。空いてる席に二人でかけたが、ここでは向かい合う形になった。やはり真倫さんとは少し違うようだ。

「探したいのは、『トニーガルニエ工業都市チュウカイ』という本です」

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