4-3 トリックはフィジカル

「質問してもいいですか」

 考えている間、視線を真倫さんのから外すことができたのはありがたかったが、質問をするにはまた彼女の目を見なければならない。視線を戻す時に、一瞬だけだがブラウスの透け具合が目に入ってしまう。まだ透けている。ずっと透けている。

 いや、おかしいだろ、「まだ透けてる」って思うのは。時間が経ったら透けなくなることなんてないだろうに。

「どうぞ」

「講義室のエアコンは、普通に天井埋め込み型ですよね」

「そう。メーカーは知らないけれど、細長いスリットだけが見えているタイプ」

「スリットは横方向ですよね。1ヶ所だけやなく、いくつもありますよね?」

「もちろん」

「真倫さんより前の方で、一番近かったのは、どの辺に?」

「三つ前の席の上かしら」

「ルーバーは見えてましたか。風の方向を調節する細長い板で……」

「自動的に動いたりする、羽根のような? ええ、見えていたわ。それが、私の方からの時に風が当たるのは、気付いていたから」

「そこに公式が書かれていた、ということはないですか」

「とすると、誰が書いたのかしら」

「もちろん、前さんですよ。暑いって言うたのは彼ですし、背が高いから机の上に乗って細工ができるやないですか」

「私からは何も見えなかったように思うわ」

 それは真倫さんが気付かなかっただけで……と言おうとしたが、だとすると彼女がカンニングを見破ったということにはならないよな。

「じゃあ、公式を書くんやなくて、鏡を取り付けて、他の人の答案を覗く、というのはどうですか」

「鏡がちょうどいい角度になるまで天井を見上げていたら、試験官が気付くんじゃないかしら」

「エアコンの風を浴びて気持ちよさそうにしている、と思うだけかもしれませんよ」

 とはいえ真倫さんが否定的なので、これもないということか。

 では、他には。

「椅子は跳ね上げ式ですか」

「ええ、そう」

「じゃあ、椅子に公式を書いておくのはどうですか。座ってる間は試験監督から見えないけど、答案用紙や消しゴムを落とした時に、床を見つつ少し尻をずらして盗み見るんです」

「試験が始まる前や終わった後に、試験監督が気付かなかった理由は?」

「もちろん、跳ね上げてあったからですよ」

「だとすると、左さんと右さんのどっちかしら?」

「右さんです。真倫さんは試験が終わって、彼が席を立った後、椅子を上げる前に気付いたんです」

 しかしさっきの彼女の説明では、終わってからじゃなく、試験中に気付いたという感じだったよな。

 真倫さんが首を横に振る。これで2人消えた。残るは彼女の元の席の近くにいた3人。アイさん、ウエさん、左さん。

 このうちアイさんは試験前に騒がしくしてたけど、始まってからはおとなしかったんだっけ。上着を着たくらい。しかも一番前の席だし、怪しい動きをすると試験監督から丸見え。怪しい動きといえば、左さんが答案用紙を落としたこと。ウエさんだけは動きが少ないけど、何しろ答えが書いてあった机の真後ろだからなあ。

「左さんが落としたのが答案用紙というのは、どうしてわかったんですか。真倫さんのところまで飛んできた?」

「いいえ、彼が『答案用紙を落としました』と試験監督に言ったから」

「なら、あらかじめ公式が余白に書かれた答案用紙を持ち込んで、隙を見てそれを床に落として、白紙の答案用紙をすり替える、というのはどうです? 答案用紙は、毎年同じものなんでしょう? どこからか入手できそうですよね」

「直接すり替えるとバレやすいから、間接的にということ?」

「そうです。そして白紙の方は試験が終わった後、問題用紙と一緒に持ち出してしまう……」

「言っていなかったけれど、問題用紙も試験が終わってから回収するのよ」

 では試験終了直後に素早く机の下に隠す。例えば机の裏面に両面テープを付けておいて貼り付ける、とかは無理なのかなあ。

「もう一つ言っていなかったけれど、私は証拠を掴んだわけじゃないし、後で試験監督に告発してもいないわ」

「え、じゃあカンニングは成功したってことですか?」

「おそらく」

「つまり、真倫さんはカンニングの手口を発見しただけなんですね」

「いけなかったかしら?」

「いえ、そういう意味やないですけど、とにかくこれは純粋に理論的な問題ということになりますね」

「理論的でかつ物理的な問題であって、実際的に可能。例えば古典的ミステリ小説には、言葉の上では可能だけれど、現実には無理、というトリックがいくつもあるわ。でも、これはそんなものじゃないの」

 ああ、わかります。例えば「建物の上の階から輪の付いたロープを垂らし、下の部屋の人に窓から首を出させ、輪に首を突っ込ませて引っ張り上げ、後で首吊り自殺に見せかける」ってトリック。

 窓より大きい輪にしないと気付かれるやろとか、輪に首を突っ込むならかなり身を乗り出さんといかんやろとか、下の人がたとえ体重50キロでも上の人が素手で引っ張り上げるにはよほど腕力が強くないと無理やろとか。

 定性的には可能でも、定量的には不可能というトリックは、小説にたくさんあるはず。そしてなぜかミステリー作家はそれでもよしとする傾向があるんじゃないだろうか。

 しかしとにかく、カンニング実行者はアイさんとウエさんの二人に絞られたということだ。結局名前が付いている二人というのが何とも。

「アイさんの上着の内側に公式が書いてあった、ということはないですか」

 一番初歩的な手口を、どうして今頃になって思いつくんだろうか、僕は。

「科挙の時代に戻ったわね」

「科挙って古い中国の」

「そう」

 官僚登用試験制度。6世紀に隋の始祖・文帝によって導入され、20世紀初めの清の時代まで続いた。最初は秀才、明経、明法、明算、明書、進士の6科だったけど、後に進士のみになった。

 カンニングはバレたら厳罰だったが、合格すれば地位と名声が保証されるから、いろいろと試みられた、というのは僕も聞いたことがある。確かカンニングのために文章が書き込まれた下着があったんじゃなかったかな。真倫さんが言うのはそのことだろう。

「当たりましたか」

「いいえ。彼女は不正をしなくても余裕で合格できるわ」

「そういうのは最初に言うてもらわないと。そもそもどうして彼女を容疑者に含めたんですか」

「その必要があったから」

「とにかくカンニングしたのはウエさんってことですよね。その手口を考えるんですか」

 でも真倫さんが彼について言ったのは、試験前にアイさんに〝黒幕〟のことを説明したってことだけなのでは。始まった後は? ああ、そうか。2パターンのうちの後者に含まれてるんだった。つまり「最初に公式を問題用紙か答案用紙の余白に全部書いた」二人のうちの一人。

 ということは、どこかに書かれてた公式を盗み見て書き写した、ってことになるのか。前の席のテーブルでないとしたら、どこに?

「……真倫さんが座るはずだった椅子に公式が書かれてたってことはないですよね。それについては何も言ってくれなかったですけど、それは『そんなことはなかった』っていう意味に取ってよくて」

「そのとおりよ。試験監督が机を見た後に、椅子も調べたわ」

 椅子の先端部分は、跳ね上げた時に後ろの席のすぐ目の前にあるわけで、そこに公式を書いておいたら盗み見ることができるのだが、そういう技でもないと。

「机を覆った暗幕って、黒ですよね。そこに黒いペンで公式を書いておいたら、角度によってはテカって読めるかも」

「暗幕をどこから持ってくるか、予想できたのかしら」

「前に同じような事例があったのかもしれません。あるいは、建物内にある全ての暗幕に公式を書いておいて、どれを持ってきても……」

 推理小説でよくある力業。あるいはマジシャンの選択と言ってもいいかも。たった一つだけを偶然選ばせたように見せかけておいて、実はどれを選んでも結果は同じ……

「惜しいところまで近付いているのに」

「惜しい?」

 それはもう少しだけ発想の転換が必要、ということか。

 下に書いてあると思わせておいて実は上、というのはさっき提案したけど違ってた。とすると、小さい字で書いてあると思わせて実は大きな字だったとか。壁に巨大な文字で書いておく? いや、いくら何でもそれは無茶。

 暗幕に黒いペンで書くのが違うというのなら、机の表面に同じ色のペンで……でも試験監督は真倫さんの座るはずだった場所をチェックした時に、周りにもないかチェックするだろうから、「何か書かれていそう」「書いた跡がある」のも目に入るかもしれない。だったら、壁に同じ色のペンで書くとか……

「私がいなければ、ウエくんの目に自然に入るものがあるはずよ」

 真倫さんから、ヒントの追加。ウエさんの目に入るはずのもの? 彼女がいなかったら……

 床はあり得るか? 前の席に誰も座ってなかったら、椅子を跳ね上げてるから、床が見えるよな。でも机や椅子同様、試験監督がチェックしないはずがないか。

 他には、一つ前のアイさんの背中でしょ。今の真倫さんと同じような透けたブラウスだったらしいから、目のやり場に困っただろうな。

 え、もしかして?

「あの……共犯者がいるなんて、問題の条件に入ってましたっけ」

「カンニングをした人が一人なんて言っていないけれど」

 ああ! ようやく当たったのか、そうなのか。つまり……真倫さんは最初からずっと自分の身をもって、僕にヒントを示してたんですね? トリックって最後はフィジカルなのは知ってましたけど、ヒントまでフィジカルとは!

「じゃあ、アイさんのブラウスの背中か、中の下着に、見えにくい色で公式が書いてあって、後ろのウエさんは試験開始後にそれを書き写した……」

 アイさんは開始直前に上着を脱いで、試験中に着た。その間見せていたということか。

 公式はもちろんアルファベットや記号から成るわけで、筆記体にすれば刺繍の模様としてごまかせるかもしれない。薄手の服なら凝った刺繍が施されていても自然なことだろう。ブラジャーだって同じ……

「正解。それを君の目を使って検証したかったの」

「はい? どういうことですか」

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