第4話 カンニングと本探し

4-1 モラルとモラトリアム

 フィードバックが終わると夏休み。約8週間もあるのでいろんなことができる。

 クイズ研の活動もある。盆が明けてから、週1回、金曜日。ただし出席率はぐっと下がる。3割くらいか。多くて十数人、少なければ一桁。来ない理由の大部分は〝アルバイト〟。2ヶ月びっちりやればかなりの小遣いが稼げるだろう。

 4回生と修士2回生は〝就職活動〟がある。もちろん夏休み以前から始まっているが、10月に内定をもらうためのラストスパートの時期。試験や面接があることも。

〝大学院入試〟の人もいる。特に理系は院進学率が高い。医学部のように院に行くことがデフォルトの場合もある。

 試験日は盆明け(8月第3週)の火曜日と水曜日。そして金曜日には早くも結果がわかる。

 例会に、合格をわざわざ報告に来てくれる先輩もいる。「おめでとうございます。お祝いしましょう」「おう、俺だけタダにしてくれるんか」「いえ、先輩のおごりで」「何でやねん!」というやりとりがあるのは毎年のこと。

 ところで真倫さんはどうしているだろうか。フィードバック最終日に将棋部の依頼を解決して以来、3週間音沙汰がない。彼女ももちろん、就活か院試のどちらかに勤しんでいたはずで、その間、ミス実の活動も休みだったには違いないのだが。

 彼女にとって僕の役割が何なのか、この前は訊けなかった。直後にそれぞれのサークルの活動があったから。メールやメッセージでは訊けず、もちろん電話でも訊けず、悶々とするうちに、翌週(8月最終週)火曜日の朝、真倫さんからメッセージをもらった。『午後からボックスに来て』と。

 一応、今日は空いている。バイト(本屋の店員)は火曜日と金曜日が休み。クイズ研の活動日に合わせた。しかし真倫さんが知っていたはずはないだろう。知らせるつもりもなかった。やはりたまたまか。

 まさか昼食のお誘いではあるまいと思ったので、『昼食の後でいいですか』と確認。『OK』と返事があったので、1時にボックスへ行った。

 京都の夏は暑い。〝溶ける〟という言葉がぴったりくる。できれば昼間は出歩きたくないのだが(朝晩だって嫌だが)、自転車に乗れば風に当たれるので多少はましという程度。しかし十分にゆっくりと漕いでいったのに、ボックスに着く頃には大汗を掻いていた。

 辺りは講義がある時期よりずっと静か。吹奏楽部の音が聞こえないせいだろう。だが人の気配はある。昼なので蝉は鳴いていないが、午前中や夕方はうるさいに違いない。

 ミス研のドアを叩くと「どうぞ」と真倫さんの声。開けるとエアコンが点いていたが、冷気はさほどでもない。エコ設定か。それだと汗はなかなか引かなそう。

 窓際の事務机に真倫さんが座り、こちらに背中を見せている。窓は東向きで、今の時間は直射日光が入らない。レースのカーテンが引かれていたが、真倫さんの姿がひときわ明るい。白いブラウスは袖が肩を隠す程度のフレンチスリーブ。滑らかな肌の二の腕が、リズムを取るかのように細かく動いている。

「何のご用でしょうか」

 中に入って僕が訊くと、真倫さんはようやく椅子を回転させてこちらを見た。珍しく紺のタイトスカートで、膝から下は生足。有能な社長秘書のよう。

「このあと、一緒に行って欲しいところがあるの」

「はあ」

「でも君が来るまでにと思っていた作業が、まだ終わっていないの。もう少し待っていて。そこにかけて」

「わかりました」

 それならもう少し後に来てもよかったか。でも2時頃が一番暑いんだよな、などと考えながら手近な椅子に座ろうとすると、「そこの椅子」と真倫さんが指定してくる。長机の配置がいつもと違っていて、事務机の背後に一つ。他は部屋の端に寄せてある。椅子も一つだけ。座ると、真倫さんの背中を、1メートルほど離れたところから見ることになる。どうしろというのだろう。

 とにかく座る。真倫さんはまたノートPCに向かい、何か作業中。例によって〝問題作成〟でもしてるのか。

「お盆は実家に帰ったの?」

 なぜか真倫さんの方から話しかけてくる。こちらを向きもせずに。頭の中にある文章をPCに打ち込みながら会話するって、不可能なんじゃないの?

「帰りましたよ、15日に。大阪なんで、日帰りですけど」

「そう。近くでいいわね」

「真倫さんは実家どこなんです?」

「私には実家がないの」

 何、それ。実家が京都ということ? それにしては京都弁を全くしゃべらない。それとも家族も親戚もない、天涯孤独なのか。だったら生活費はどうしてるんだろう。

「アルバイトはしているの?」

 僕が訊きたいくらいですよ。心の中を読まないでください。

「ええ、今日は休みですけど。真倫さんは?」

「院試があったからそんな暇はないわ」

 ああ、やっぱり院に行くのか。でも終わったんだから、今週から始められますよね? マジで生活費どうしてるんですか。しかし関係ないことを訊いてしまう。

「結果はどうでしたか」

「合格」

「おめでとうございます」

「ありがとう。これでモラトリアムが伸びたわ」

 モラトリアム。社会に出るまでの猶予期間。アメリカの心理学者エリクソンが使い始めた用語。ちなみにクイズ問題でエリクソンという名前が出たら、答えはモラトリアムかアイデンティティー・クライシスの二択。

「エリクソンが提唱した概念で、○○という意味の」の○○を聞いてから答える(正確には頭の1文字)。モラトリアムは〝一時停止〟あるいは〝支払い猶予期間〟、アイデンティティー・クライシスは〝自我同一性の危機〟。

 なお経済用語のモラトリアムは、そのまま〝支払い猶予期間〟の意味。語源は何だったか、などをつらつらと考えながら、見るともなしに真倫さんの背中を見る。真っ白なブラウスが、窓からの光で透けて……って、やけに生地が薄くないですか?

 オーガンジーとまではいかないけど、ブラウスの中の身体の線が透けて見えている。シフォンと言うんだったか? いや、そういうことを考えてる場合じゃない。じろじろ見てはいけない。

 夏場になって女性が薄着になると、男性にとって〝目の保養〟になるのは本音だが、建前では「涼しそうだな」くらいにしておかなければいけない。とはいえ頭の中は本音の状態で構わないのである。

 それでも一対一の時の配慮というものがある。相手がこちらの視線に気付いていないからといって、遠慮なく見ていいということにはならない。

 よく見ればブラジャーのバックベルトがくっきり見えている。普通、バックは装飾が少ないと思うのだが、彼女のはずいぶんと凝った刺繍が施されているように思う。だから見てはいけないというのに。

 そのように意識しながら脳から目に指令を送らなければならないのは、目が意志に反して見ようと……いや、そんなことあるわけない。

 見てはいけない。それはモラルである。どういうわけか僕はモラトリアムとセットでモラルという言葉を思い出してしまう。語源は全く別なのだが、語感が近いからだろうか。

 モラルというのはクイズにも大事なものであって、早押しクイズでは答えられる確証がなければ無理に回答権を取ろうとしてはいけない。モラトリアム的趣味の典型のようなクイズであっても、モラルを持って楽しまなければならないのである。

 真倫さんの背中から視線を外し、左手で頬杖を突いて、右を見る。本棚があり、たくさんの文庫本が並んでいる。背表紙の文字も読み取れるので、一つ一つ読んでいく。意味がある行為ではないが、他にすることがない。

 知らないタイトルが多い。それはそうだ、僕はミス研会員じゃない。クイズのために、特に有名な十数人の作家と、その代表作を知ってるくらいなのだから。海外ならコナン・ドイル、クリスティー、クイーンなどは誰でも知っているが、クイズ的にメジャーとなると例えばチャンドラーの『長いお別れ』とか……

 と、僕の視界の中に真倫さんの白い腕が! 本棚に手を伸ばして1冊抜き出し、開いている。タイトルはわからない。僕の視線が真倫さんの背中に戻ろうとするので、もう一度本棚を見る。また真倫さんの手が視界に入って、本を棚に戻す。細く長い真っ白な腕が、なんと滑らかに動くことよ。そして二の腕から腋にかけての美しい曲線! まじ尊い。

 しかしやはり見続けるわけにはいかない。頬杖を突く手を逆にして、左を見る。え、壁にダーツボードなんて架かってたっけ? 憶えがない。

 ダーツというゲームは全くやったことがないけども、クイズ研の常としてルールと用語はそれなりに知っている。

 まず代表な三つのゲームとしてゼロワン、クリケット、カウントアップ。ダーツボードはハードボードとソフトボードがあり、ハードボードはブリッスルボードとも呼ばれる。材質はサイザル麻。ボードの外縁には1から20までの数字が配置されていて、一番上は20、一番下は3。ちなみに1は20の右隣。数字のすぐ内側にダブルリング、中程にトリプルリング、真ん中にブルズアイがある。ブルズアイは〝牛の目〟という意味。

 なんていうことを思い出していたら、真倫さんが立ち上がってなぜかダーツボードの前に立つ! 腕を組んでいるので、ブラウスの布地が背中に密着して、ブラジャーのバック……見てはいけないので、視線をもう一度右の本棚へ戻す。しばらくして真倫さんが椅子に座る。

「君のモラトリアムはいつ終わるのかしら?」

 何のことですか? ああ、卒業したら何をするのかってことですか。

「図書館で働きたいと思ってるんですが、あまり口はないですね。他に何をというのはまだ考えてません」

「ちょうどよかったわ。このあと図書館へ行くつもりだから」

 どこの。学校の? 本を探すんでしょうけど、僕が手伝わないといけないようなことなんですか。言っときますけど、うちの大学図書館の司書の口は当分空きませんよ。自分で訊いたんですから。一応、司書補の資格は在学中に取るつもりですけどね。

「真倫さんは将来何のお仕事を?」

「まだ決めてないの。君も一緒に考えて欲しいわ、私の将来を」

 来た、クーデレ! 今日はやけに速い。

「何か手伝えることがあるんですか」

「私が迷っていても、君なら背中を押してくれると思うの」

 背中を意識させるようなこと言わんといてください!

「僕はかなり優柔不断なんですけど」

「それは君自身についてでしょう。私の心を見透かす方がきっと簡単だわ。注意深く見ていてくれればいいの」

 透けてるのを意識させるようなこと言わんといてください!

「でも月にいっぺん会うくらいですから」

「いつだって来てくれていいのよ。夏休みは日中、ほとんどここにいるんだから」

 来るのはミス実の活動がある時だけの約束だけど、建て前というものがある。

「そしたら、来られる時は来ます」

「ええ、待っているわ」

 キーボードを叩く手が止まり、ノートPCが閉じられた。そして真倫さんが椅子を回転させて僕の方へ向く。そうなると目を逸らしているわけにはいかない。顔を向けつつ、なるべく見ないようにするという難しい技を強いられる。しかしやはりブラウスは透けていて、ブラジャーの装飾も……

「お仕事は終わりですか」

「ええ。でも図書館へ行く前に、聞いて欲しいことがあるの」

「何ですか」

「先週の院試で起こったことよ。カンニングがあったの」

「は?」

 もちろん真倫さんがやったわけではないだろう。誰かのカンニング行為を発見したということに違いないが……

「私が見たことを話すから、誰がどんなカンニングをしたか、当ててくれるかしら」

 何ですか、それ? 僕をしようってこと?

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