第2話 哲学の講義
2-1 探偵の名は葉色真倫
翌日、金曜の昼休み、彼女に呼び出されてボックスへ行った。新たに考えた名前は〝
もちろん、ちゃんと由来がある。P・D・ジェイムズの創作した女性探偵コーデリア・グレイから。
グレイ→灰色の直訳はイメージがよくないので、はいいろ→はいろ→葉色。コーデリアは〝海の宝石〟という意味だそうで、海→マリン→真倫という次第。
海宝と書いて「みほ」と読ませるキラキラネームも考えたそうだが、真倫に落ち着いたと。もっともそれだって十分キラキラだろう。
だいたい「倫」が名前に使われると、読み方に迷う。「りん」の他に「つね」「とし」「とも」「のり」「ひと」「みち」くらいがすぐ思い付く。真倫と書いて「まさとも」という、江戸時代の学者のような男性名もあり得るわけだ。
しかし、気にしないことにしよう。名刺を作って渡すわけでもなし、読み方に困る場面なんてそうそうないに違いない。
「それから、君の名前もあるの」
なんでやねん。
どうして僕までが偽名を名乗らねばならん?
「いりませんよ」
「せっかく考えたのに。
コーデリア・グレイの最初のパートナーがバーニー・プライド。プライド→自尊心→志尊で、バーニーはバーナードの愛称だから華斗。
「もしかして、春月沙羅の時はまた別の名前で、北白川美砂の時はさらに別の名前があるんですか?」
「もちろん。ちゃんと考えたわ」
いらんわ、そんなん。
「学生証が身分証明にならへんやないですか」
「いつ身分証明が必要なのよ。警察に協力する気なんてないわ。校外で活動するとでも思ってるの?」
もちろん、思ってないです。そんな恥ずかしいこと、できません。
「そもそも、僕が春月さん、いえ葉色さんの協力を常にするとは限らないですけど。ミス研会員でもないですし」
「ミス研の通常の活動とは別にするって決めたの。正式名称『ミステリ研究会実践部』。通称ミス実。メンバーは私と君の二人。例会はなし。依頼または事件が発生次第活動。もちろん、君のクイズ研としての活動の邪魔にならないように配慮するわ」
勝手な人やな。確かに扱いづらいわ。そもそも僕の役割は、彼女が書いた小説を読むだけだったはずでは?
しかし冷静に考えると、ミス研に事件の解決を依頼するような奇特な人が(僕らクイズ研以外に)そうそういるはずもなく、また校内で不可解な事件など起こりようがないではないか。小説の中なら殺人事件だって発生するけど、その捜査に学内の素人探偵がしゃしゃり出ること自体があり得ないわけで。
とりあえずこの場は了承しておいて、なし崩し的に活動がなくなることを期待しよう。どうせ彼女の気まぐれだろうから。
ところが2週間ばかり経って6月に入ると、妙なことになってしまった。
ある月曜日の、昼休みのこと。僕が所属する文学部東洋文化学科の執務さん(学科専属の事務員)から電話があり、哲学科の執務さんのところへ行って欲しいと言われた。哲学の
こんなふうに、他の学科の教授から名指しで呼ばれるなんて、普通はあり得ないことだ。僕は1回生の時に哲学を受講し、単位もちゃんと取ったけど、試験で優秀な成績を取ったわけでもない(確か〝可〟だった)。それに3回生はまだ研究室に所属していないので(文学部は後期から)、教授に名前を憶えられているはずがない。
しかし呼ばれたのなら行かねばならない。サボったら、後で東洋文化学科の執務さんに苦情が来るだろう。幸い三限は空いているので、昼休み終了直前に、僕は文学部1号館4階の哲学科事務室のドアをノックした。「はい」と女性の甲高い声がしたが、ドアは開かず。もちろん自分で開けることになっている。
開けて「失礼します」と言ったが、目の前には半透明の衝立。奥の窓から射す光で、向こう側に座っている女性の姿が映っている。声の主だろう。デスクに向かって何やら作業中であるらしい。しかし姿は見せず。
入って衝立を回り込むと、女性が椅子を回転させて、僕の方を見上げた。若い、僕と同い年くらいにしか見えない、かなり綺麗な人だった。長いストレートの黒髪に上品な顔立ちで、いいところのお嬢様風(北白川美砂さんより上)。お友達になりたいと願う学生がたくさんいるに違いない。
「東洋文化学科のN(僕の名字)ですけど、
「はい、聞いています。今からお時間があるんですか?」
「はい」と答えると、執務さんは電話をかけた。ちなみに彼女の名前はデスクの横に掛けられた札にちゃんと書いてあるのだが、敢えて省略し、以下〝執務さん〟と呼ぶ。
「先生もお時間があるそうなので、今からお部屋へ行っていただければ」
「いいですけど、どれくらい時間がかかりますかね?」
「さあ? でも1時間半はかからないと思いますよ」
執務さんは苦笑しながら言った。四限が始まるまでには終わりますよということだろう。しかしそんなに長く話されてはかなわない。手短にお願いしたい。
それから執務さんは「案内します」と言いつつ立って、部屋を出る。付いて行くと、哲学教授の研究室は同じフロアにあった。
たとえ教授の部屋であっても他と何ら変わらない、ありきたりな木製のドアを執務さんがノックし、「はい」というよく通るバリトンの声と同時にドアを開ける。
「失礼します。東洋文化学科のNさんをお連れしました」
「ああ、こちらへ」
やはりここにもドアの向こうに衝立があり、開けるだけでは中の人の姿が見えないようになっている。その向こうへ行くと、背の高い痩せぎすの、クリス・ペプラーのような口髭と顎鬚を生やした男性が、窓際のデスクから応接用のソファーへ移動しているところだった。
ちなみになぜクリス・ペプラーを連想したかと言うと、声も彼のようにとてもイケているからである。ただし顔つきは外人っぽくない。それなりに渋い感じの、50歳超えのナイスミドルといったところ。スーツの趣味も渋い。
僕が「失礼します」と言ってソファーに近付くと、教授が手振りで「座れ」と指示してくる。それから執務さんに「お茶を」。熱いのか冷たいのか訊かれて「冷たいのを」。
その間に僕は部屋の中を観察。書物があふれかえっているのかと思ったらさにあらず、とてもすっきりしている。本棚は天井に届く高さのが1棹だけ。幅は2メートル足らずだろう。本がいっぱい詰まっているけども、「これだけか」と感じる。東洋文化学科の教授や准教授の中には、もっとたくさん本を持っている人がいる。
「さてNくん、突然呼び出して申し訳ない。無駄話をする時間もないし、早速本題に入ろう」
「何でしょうか」
「君、私の哲学の講義を聞いたことがあるかね」
ほら、僕のことを憶えてない。
「あります。1回生の時。一昨年です」
「そうか。内容はどうだった」
「概ね興味深かったですが、退屈したことも2、3度ありました」
正直すぎると思うが、それは実際に感想として回答済みだ。リアクションペーパー(略称リアペ)というものがあり、講義の始めに配られて、終わってから内容についての感想や意見を書いて、提出する。最後に書く時間を5分ほど与えられることが多い。出席を取ることを兼ねているのだが、リアペがない講義ももちろんある。
哲学では前後期それぞれ14回の講義のうち、10回以上提出することが求められる。いわゆる出席点。ただし書いた内容が成績に反映されることはない(試験は別途実施する)。だから「3行でいいから書け」ということになっている。ちなみに僕は28回全てに出席し、リアペをちゃんと提出したのである。
「代返をしたことはあるかね」
「ありません。してもらったことも、したことも」
代返、つまり代理出席して返事をすること。出席点がある講義では、かつては点呼で出席を取った。その際、代理者が返事をすることで、サボっているのに出席点を獲得する、というずるい技法である。
なお現在、出席を取る方法は、リアペの提出以外に、学生証(ICカード)によるチェックも使われる。講義室の出入り口にカード読み取り機があるので、講義の最初と最後に学生証でタッチする、という仕組み。
全ての講義でそうすればいいと思うのだが、リアペの方がよいと考える教授・准教授はこのシステムを利用しない。また、外部から講義に来る講師には利用しにくいらしく、外国語の講義は点呼のことが多い。
ちなみに最初と最後にタッチするのは、最初だけだとタッチした後すぐ抜け出す、最後だけだと授業の終わり頃に来てタッチ、という〝ずる〟が可能になるから。俗に「ピー逃げ」という。「ピー」とはタッチした時に鳴る電子音のこと。
「ところが今年の講義で、代返をしているものがいるらしくてね」
「そうですか」
らしくも何も、哲学に限らず他の講義でもたいがい誰かがやっていると思うけど。
「それを見つけ出して欲しい」
「はあ。え、見つけたらその学生は落第にするつもりですか?」
「ん? ああ、代返した回数によるが、多ければそうするかもしれない。期限は明後日の講義終了まで」
「明後日……水曜の、何限です?」
「二限だ」
僕が一昨年受講したのも水曜の二限だったはず。毎年同じコマでやっているのだろうか。それはともかく。
「丸二日しかないですよ。もうちょっと伸びませんか」
「そうか。では5時まで」
5時間しか伸びてない。しかも水曜の三限と四限は、僕は講義を受けなければならない。伸びた意味がない。
「リアペの提出期限ですか」
「そうだ。無理かね」
「何とも確約できません。そんなに急ぎですか?」
「とにかくできるだけ早く頼む」
せめて来月の前期試験前まで、ということにはならないのだろうか。いや、それよりももっと気になることがある。
「あの、どうしてそんな調査を僕に頼むんですか。哲学科の学生でいいと思うんですが」
もしくは執務さんとか。それも仕事のうちではないだろうか。教授は目を細めて僕を見つめ(睨んではいない)しばらく動かなかった。
ドアの開く音がして、執務さんが入ってきた。冷たいお茶を入れに行ってたのだろう。事務室に冷蔵庫があるに違いない。
ローテーブルに茶托と涼しげなガラスの湯呑みを置き、「失礼します」と一礼して執務さんは出て行った。教授が座り直して、少し背を反らす。
「君は自分のパートナーが何をやっているのか知らないのかね」
「は?」
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