第36話優しき森の魔女
時を遡ること今から数十年前のこと──……。
その日、彼女は暗く深い森にいた。
両親に決して入るなと言われていた森の中。
恐ろしく鬱蒼と生い茂った木々や草で埋め尽くされ、
小さな子供が入れば二度と戻ってくること出来ないであろう場所。
その当の両親に連れられて彼女は森へと踏み入った。
「必ず助けにくるから」
そう言うと、彼女をそこに残し二人は闇に消えていく。
頭のいい子だった。
彼女は言いつけを守りながら膝を抱えて二人を待っていたが、自分の身に何が起きたのかはもうわかっていた。
寂れた村の病気の娘だ。
何の価値もない、いなくなっても誰も困らなければ誰の記憶にも残らない存在。それが自分なのだ。この森の中に捨てられ、そして獣たちの餌となるのだろう。
しばらくすると、森の奥から声が聞こえた。
行ってみたい。
せめて、他の者たちが知らぬ景色を見て死にたい。
彼女は声を追い、森の中へと足を踏み入れる。
行ってみたい。誰も知らない場所へ。
ここではないどこか、私を必要としてくれる場所を探して。
それは彼女なりの復讐だった。
森は暗く、今が何時かもわからない。それでも、何度も転びながらも必死に足を前に出し、彼女は進んで行く。
悔しくない。
でも、足は震え、もたつき、傷だらけになった。
寂しくない。
けれど、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃになっている。
私は一人ぼっち。
彼女はもうそんなことはどうでも良かった。今はただ、声の主を確かめたいという気持ちだけで前に進む。
声の主に会えたなら、私はきっと幸せになれる。
村の連中が誰も見たことのない光に満ちた世界で安らかに暮らせる。
だって、こんな私を見つけてくれたんだもの。
こんなに醜くて、役立たずの私なのに、見つけてくれたんだから。
だから、だから、だから……
だから……
早く、私を助けて……
「……誰か」
やがて、暗闇に目が慣れてきた頃──……唐突に体が沈みこんだ。
足首が奇妙な方向を向き、バランスが崩れる。
そのまま前のめりに倒れこむと、固く尖った何かに顔面から突っ込む。
泥と血が混じり合い、視界を奪われる。
立ち上がろうとして手をつこうとしたが、ぬかるんだ泥や小石に邪魔されて上手くいかない。
……崖だ。
彼女はそう悟ると同時に絶望に襲われた。恐怖と後悔で嗚咽が漏れ出す。
「ああ……」
真っ暗な中、石の転がる音が聞こえた。
死を告げる音にしてはあまりに軽かった。
もう終わりだとわかった途端、彼女の心に何か暗くて分厚い幕のようなものが垂れ込めていくのを感じた。
あの声の主は何だったのだろう。悪魔か妖精がただ罠を仕掛けただけなのだろうか。
その時だった。
「怖かったでしょう?もう大丈夫ですよ」
ふと、彼女の耳に優しく、そして清らかな声が響く。
その声は彼女の頭の中に直接語りかけるように響いた。
まるで天上の音楽のように美しい声だった。
冷たい風が頬に当たり、足元には何もない。目の見えない彼女にもわかった。自分は今、空を飛んでいるのだと。
「さあ、手を取って……」
彼女は声に導かれるように、自分を抱き留めているその冷たく凍りついた手に指を絡めていく。
「ゆっくりと目を開けてください」
声に従い、瞼を開く。一瞬だけ白いベールのようなものが見えたような気がした。しかし、それはすぐに霧散し、代わりに彼女の瞳には空の上の世界が広がっていた。
「う、わあ……」
思わず感嘆のため息が漏れる。
そこは想像していたような残酷な光景はなく、地上から見るよりもずっと美しく、神秘的な光景だった。
どこまでも続く雲の海。
遥か下に見える大地はその役目を終えた太陽の残骸によって、黄金色に輝いている。
雲の隙間から星々が顔を覗かせており、二つの大きな月が自分を見つめているのがわかる。無数の鳥たちが光の中を飛び交い、時折、群れからはぐれた一匹が二人のそばを掠めるように飛んでいく。
「綺麗……」
彼女はそう呟きながら、無意識のうちに自分が生きていることを実感する。
「ええ、本当に……」
声の主はそう言うと、彼女が落ちないようにしっかりと抱き締めてくれた。
その腕や手はまるで氷柱のような美しさだった。
白く輝く肌は雪のようで、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だ。恐ろしいほど冷たく、それなのに、不思議とその腕に抱かれていると安心できた。
「……あなたは天使様なのですか?」
彼女は恐る恐る尋ねた。すると、少し困ったような、優しい声色が響く。
「ふふっ……違いますよ。私は魔女です」
「魔女……さま……?」
バカな連中から幾度となく聞かされた魔女の話。
子供を攫い、男をたぶらかし、皮を剥ぎ、血をすすり、肉を食らうという。
「そう……私はとーっても悪い魔女なんですよ?」
そう言うと声の主は微笑みを浮かべながら彼女の顔を覗き込む。
それは彼女の知るどんなものよりも美しく優しかった。
銀河に流れる河のように煌めく長い髪が風に逆らうように揺れ、星を埋め込んだかのような輝きを放つ瞳がこちらをじっと見つめていた。
彼女はそのあまりの美麗さに目を離せなくなる。
「あ、あの……お名前を伺ってもいいでしょうか……」
「私の名前はサスーリカといいます」
「……私はミチェリと言います……あ、あの……サスーリカさん……私、私……食べられちゃうんでしょうか?」
「ふふ、そんなことしませんよ。どうしますか、ミチェリさん。今日はもうお家に帰りますか?」
ミチェリは自分を抱いているのが人ではなく、強くて恐ろしい怪物であることを忘れてしまっていた。いや、それどころかずっと一緒にいたいと思った。
「お家……」
魔女の言葉に下を見ると、不器用な子供が作った出来損ないの木工細工のような粗末な家々が立ち並んでいるのがわかった。
周囲の田畑はまるでこの美しい大地に残された火傷跡か擦り傷のようだ。作物はゴミか枯れ草にしか見えなかった。
「人間……」
彼女はそう呟くと、胸の奥底で何かが燃え上がるのを感じた。
あの汚らしいものが自分の知る全てだったと思うと、今まで感じたことのない激しい怒りが湧き上がってくる。
「……嫌」
「どうしましたか?」
「私……帰らない!」
あそこに私の居場所はない。
「私もあなたのようになりたい!私も……魔女になりたい……!!」
彼女は生まれて初めて強い感情を抱いていた。
憎しみでも悲しみでもない。もっと激しく、もっと熱く、そして何より忘れがたいもの。
「あらあら、どうして?魔女になると怖い目に遭うかもしれませんよ?」
「いっ、いいんです。それでも構いません。私、なんでもします。だからっ!だから、お願いします!」
サスーリカは少し考えるような仕草をした後、静かに笑った。
「わかりました。では、私が力の使い方を教えてあげましょう。その代わり……」
「そ、その代わりに……?」
「あなたが強くなったら、私たちのお母さまや姉妹たちのために戦ってくださいね」
「おかあさま……」
彼女はその言葉の意味が理解できなかった。
「そう、お母さまですよ。魔女はお母さまの子供なんです。そして、いつかお母さまは戻ってきて、ありとあらゆる生き物が平等に暮らす理想郷をこの世界に創り上げると言われています。弱く力ないものも苦しむことなく、悲しむこともないその世界で私たちは幸せに暮らし、永遠に生き続けることができると伝えられています」
「幸せ……永遠……」
それはミチェリにとってはまだ理解の出来ない話だったが、彼女の心は確実に何かに揺さぶられていた。
「はい、そして、その時のために私たちすべての魔女は──……」
魔女サスーリカの言葉が子守唄のように響く中、いつの間にかミチェリの頬からは大粒の涙が零れ落ちていた。サスーリカはそんなミチェリの小さな体を優しく抱きしめると、ゆっくりと高度を上昇させていく。
「……嬉しい……私、ずっと一人ぼっちだった……だから、すごく……うれしい……」
そして、地平線の彼方に沈んでいく太陽が最後の一片を燃やし尽くした時、二人の魔女の姿は何処かへと消え去っていた。
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