第1章 水無月家の姉妹

久遠高校から歩いて十分ほどの位置に十夜商店街というアーケード街がある。

そこはスーパーマーケットを筆頭に、本屋、洋服屋、肉屋、魚屋などごくありふれた店が立ち並ぶ平均的な商店街である。規模は駅前の商店街に比べると遠く及ばないものの、久遠高校から近いという利点のおかげで、帰宅途中の学生を中心にまずまずの盛況ぶりを見せていた。

特に洋菓子屋と甘味屋が点々と並ぶ、通称『甘味通り』は十夜商店街が誇る自慢の名所で、久遠高校の生徒や近くの住人だけではなく、駅周辺の人たちまで引き寄せていた。そのおかげで、ここいら一帯の店は平日休日問わず、繁盛していた。

その一角に所在する「アリエス」も例にもれず、見事なまでの賑わいを見せていた。総次は千歳と倭に連れられ、窓際のテーブルでドーナッツを食べていた。

「素りゃ、おまえが悪いな」

昨日の出来事を聞いた倭は、すぐさま総次に有罪の判決を言い渡した。

「だけど、冤罪を着せられて黙っている訳にはいかんだろ」

総次は仏頂顔で反論したあと、手元に置いてあったアイスコーヒーを飲んだ。

「おまえの言い分も分からん出もないが、女の子を泣かすのはよくないぞ。まして、相手が年下ならなおさらだ」

「まあ、確かにそうかもしれんが、むこうにも非があると思うぞ」

そのことについては大いに反省しているが、すべて自分が悪いと言われると、どうしても納得できなかった。しかし、倭は鋼鉄の意志でその考えを跳ね返した。

「井伊や、理由はどうあれ女の子を泣かした時点でおまえが悪い」

「おまえが俺の立場だったら、きっと同じことをやったはずだ」

「いいや、俺は女の子を泣かしたりはしない」

倭は一歩も引かなかった。想像以上の頑固さだった。

このまま弁解を続けても無駄だと悟った総次は、釈然としない気持ちをくすぶらせながらドーナッツをつまんで食べた。

「しかし、せっかく、冬月先生が同棲疑惑を解決してくれたのに、無意味になってしまったな」

「ああ、一足遅かった」

青葉との“同棲の噂”は教師たちの耳にまで達し、職員会議に取り上げられるところまで広がった。しかし、担任の冬月が事情を説明したことにより、早い段階で決着したのだ。

もう1日早ければ・・・と思ったりするが、すべては後の祭り。後悔先に立たずという格言を痛感させられた。

「だけど、これからどうするんだ?まさか、このままでいる訳にはいかんだろ」

「さあな、こっちが聞きたいよ」

総次は投げやりに答えた。きちんと謝って和解を求めればいいのだが、それだと自分が悪いと認めてしまうように思えて、どうすることも出来ない。少なくとも全部自分が悪いとは思っていないからだ。

「なあ、千歳。こういうときはどうしたらいいと思う?」

「へ、ひょっとまっへね」

千歳はドーナッツを頬張りながら答えた。

「おい、よくそれだけ食べられるな・・・」

倭は空になり始めた皿を見て、呆れを通り越し、感心してしまった。

5個ずつあったチョコ、クリーム、シナモンのドーナッツは、クリームとシナモンが1個ずつ残るだけになっていた。そのうち、総次と倭の食べたチョコ2個、クリーム1個、シナモン2個を除いた数が、千歳の胃袋に収まったことになる。簡単な算数をすれば、男ふたりよりも多く食べたことがすぐに分かる。

「甘いものは別のところに入るのよね」

「そう思って気付いたときは、手遅れでしたってことになったりしてな」

「そうなる可能性は倭君がテストで赤点取る確率より低いわね」

「なんてたとえをするんだ、まったく」

倭はばつが悪そうな顔をして頭を掻いた。

「フフフ、冗談よ。それより、さっきの話だけど、家族のひとに相談するってのはどうかしら?」

千歳は軽く笑って、倭の質問に答えた。

「なるほど、そういう方法もあるな。どうする、総次?」

「うーん・・・」

総次は右手を顎に当てて考え込んだ。

できるなら、余計な心配をかけたくなかったが、もう自分だけではどうしようもないのは明白だ。千歳の言うとおりにするなら、若葉か紅葉のどちらかに話せばいいだろうか?

以前、紅葉を頼ってみようと考えたことがあったので、それを実行すればいいのではないか?

しかし、やっぱり年下の女の子に助けを求めるのは、少なからず抵抗がある。

ここは若葉に相談するのが賢明かもしれない。母親だから娘のことは誰よりも知っているはずなので、きっと何らかの解決策を見つけてくれるだろう。また、若葉が間に入れば、青葉の態度も軟化することだって有り得る。

「そうだな、どのみち他にいい方法がないし、そうするしかないな」

総次は結論を出すと、アイスコーヒーを一気に飲み干した。

「うまく仲直りできるといいな」

「そうなることを願っているよ」

本気でそう思う総次だった。

「ねえねえ、倭君。お願いがあるんだけどいいかな?」

千歳がニコニコしながら倭を見た。

「なんだ?」

いぶかしげに倭が尋ねる。

「あと、イチゴドーナッツとココアドーナッツを3つずつ頼んでいいかな?」

はあ、と力のないため息が倭の口から漏れる。

「もうそれで最後にしてくれ」

「分かってるって。そのかわり、今度は私がおごるね」

と言って、近くにいたウエイトレスに追加注文をした。

───すごすぎる・・・

総次は千歳の食欲を目の当たりにして、あっけにとられた。


千歳が想像を絶する食欲を披露したあと、総次はふたりと別れて、家路についた。

空が水色から紺色に変わり、一番星が夜の訪れを告げていた。辺りが空と同じ色に染まるにつれ、総次のいる路地にもの寂しさが漂い始めた。自分以外に誰ひとりいない路地を通り抜け、開けた駐車場に差し掛かったとき、女の子の悲鳴が耳に入った。

「いや!離してください!」

聞き覚えのある声に、総次は息を飲んで足を止めた。

―――あ、あの声はまさか・・・

そう思うと同時に、全速力で駐車場の奥に駆け込んだ。トラックが止めてある場所に近づくと、4人の不良に囲まれた青葉の姿を発見した。

「いやです!離してください!私、急いで家に帰らないといけないんです!」

青葉は必死で抵抗を試みていたが、か弱い女性の力では、太刀打ちできるはずもなかった。

「俺たちと付き合ってくれたら帰してやるよ」

鼻にピアスをした不良が、青葉の細い右腕をつかんだ。

「痛い!離して!」

青葉は苦痛で顔を歪めながら悲鳴を上げた。

「うおおお!」

総次は雄叫びを上げながら、その不良めがけてタックルをかました。総次の存在に気付いていなかった不良は、それをまともに受けて、コンクリートの地面に転がった。

「汚い手で青葉ちゃんに触るな!」

総次は青葉をかばうように立ちはだかった。

「あん、なんだ貴様、誰に向かって口聞いてんだ?俺たちは『世多工』のモンだぞ」

別の不良がドスのきいた声を出して睨み付けた。

「んなもん、知るか!」

総次も負けじと睨み返す。

敵は4人。ひとりで戦うのは、かなり厳しい状況だ。

それなら逃げの一手を考えるが、残念ながら逃げ道はトラックと不良たちによって塞がれている。

―――それなら、突破口を作るしかない!

総次は覚悟を決め、身構えた。

「俺たちのことを知らないなら、体に教えてやるぜ」

角刈りの不良が殴り掛かった。

総次はすばやく右によけると、相手の腹に蹴りを入れた。

角刈りの不良は、その攻撃をまともに受け、後ろによろめいた。その隙を狙って、すかさず殴り掛かる。

しかし、そのまえにスキンヘッドの不良とモヒカンの不良が、左右からパンチを放った。右からの攻撃は防げたものの、反対側のパンチを顔に受けて、総次は地面に倒れた。頭の中で激しい地震が起こり、思うように身動きがとれなくなった。

四つんばいになって必死に立ち上がろうとするが、8本の足による集中砲火によって、亀の体勢でいることを余儀なくされた。

「総次さん!」

青葉が悲痛な声を上げた。

―――青葉ちゃんを助けるんだ・・・

しかし、やることは分かっていても、意に反して体のほうがいうことを利かない。いいようにやられる自分の無力さに激しい憤りを覚えた。

―――こんな奴等にやられてたまるか!

暗闇に沈みゆく意識のなかで突然、閃光が走った。

そして、次の瞬間―――

パシーンという乾いた音と同時に、不良たちがいっせいに吹き飛んだ。

「イテテ、いったい何が・・・ひい!」

最初に起き上がった不良の顔が蒼白になった。総次に非現実的な変化が起こっていたからである。

総次の瞳が異様な輝きを放っていた。

ルビーのように赤く。

「うわあああ、化け物だー!」

「こいつ、やべえよ!」

非日常的な出来事に遭遇した『世多工』の連中は、クモの子を散らすように逃げていった。彼らの姿が見えなくなると、総次の瞳は元通りになり、同時に言いようのない疲労感に見舞われた。

―――何がどうなっているんだ?

自分の身に起こった変化に気付いていない総次は、思わず首をひねった。

「総次さん!」

状況の整理をする間もなく、青葉が駆け寄ってきた。

「ごめんなさい、私のせいでこんなことになってしまって」

泣きじゃくる青葉に、総次は穏やかな笑みを浮かべた。

「青葉ちゃんが謝ることないよ」

総次は手をついて立ち上がったが、足に力が入らず、前によろめいてしまった。

それを見た青葉が総次の体を支えた。

「だ、大丈夫ですか?」

心配そうに見つめる青葉。間近で見る青葉はものすごく可愛かった。総次の胸の鼓動が急速に高鳴る。

「あ、ありがとう。もう大丈夫だよ」

恥ずかしくなって、とっさに離れる。

「あまり遅くなると、みんなが心配するから早く帰ろう」

総次は平静を装って歩き出そうとした。

ところが、またよろめいて前のめりに倒れそうになった。どうやら想像していた以上に、疲労困憊しているようだった。

青葉は総次の左側に立って、腰の部分を右腕で支えた。

「あ、俺は大丈夫だから、離していいよ」

総次の言葉に対して、青葉は無言のまま、大きく首を横に振り、右腕に力を加えた。

意外な答えにどうしたものかと困り果てる。

女の子に支えられるなんて恥ずかしいことこの上ない。だけど、強がりで虚勢を張っても、

実際は歩くことすらままならない。

ここは素直に青葉の好意を受けることにした。

ほのかなシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。密着した部分に女の子特有の柔らかい感触が伝わり、否応なしに心拍数が跳ね上がった。

華奢な体で懸命に支えてくれる青葉を見ているうちに、今までくすぶり続けていたわだかまりが急速に消えていった。そして、それと引き換えに昨日の夜、青葉を泣かしてしまったことに対する罪悪感が生まれた。

『理由はどうあれ女の子を泣かすのはよくない』

今なら倭の言葉が痛いほど理解できた。嫌われようが、なじられようが構わない。明日、自分の口できちんと謝ろう。総次は強い決意を心に宿した。


「総次さん、起きてください。朝ですよ」

目覚まし代わりのモーニングコールを受けて、総次は起き上がった。

「うーん・・・おはよう・・・あれ、青葉ちゃん?」

総次の寝ぼけまなこが大きく見開かれた。

部屋にいたのが、いつも起こしに来る紅葉ではなく青葉だったからだ。

「おはようございます。朝食の準備が出来ましたので、降りてください」

青葉は笑顔で挨拶すると、軽い足取りで部屋を出て行った。

この家へやって来て初めて見た青葉の笑顔のおかげで、総次の眠気が一瞬のうちに吹き飛んだ。

───昨日の一件のおかげかな。

総次はゆっくり起き上がると、制服に着替えた。昨日受けた擦り傷や打撲が手足のところどころにあるものの、体力はすっかり回復していた。軽く手足を動かしてから、総次は階段を降りて台所へ入った。

いつもなら姉妹が揃い踏みのはずなのだが、今朝いるのは青葉だけだった。向かい側の席についた青葉がふたたび笑顔を見せた。

「冷めないうちにどうぞ」

「あ、うん、いただきます」

あまりの変化に戸惑いながら、総次は席に着いてトーストをかじった。

今までふたりの間を隔てていた壁は、昨夜の一件でなくなったような気がした。謝るなら今をおいて他にない。総次が口を開こうとした数秒先に、青葉が急に話しかけてきた。

「あ、あの、総次さん・・・おとといはひどいことを言ってすみませんでした」

いきなり頭を下げられて、総次は鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべた。

「えーと、あのときは俺のほうが悪かったよ。青葉ちゃんの気持ちも知らないで、きつい言い方をして本当にごめんね」

「いいえ、悪いのは私のほうです。変な噂に動揺して、総次さんを一方的に犯人だと決めつけてしまって・・・」

そう言って青葉は顔をうつむかせた。

「青葉ちゃん、そんなに自分を責めないで。それより、これからいろいろと迷惑かけるかもしれないけど、お互い仲良くしようよ」

総次は真剣な表情で青葉を見つめた。

「は、はい!」

青葉は目を輝かせながら顔を上げた。

ここまで紆余曲折があったので、こうして青葉と仲良くなれた喜びは、とてつもなく大きかった。これから楽しい新生活が始まるんだと総次は期待で胸を膨らませた。

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