第1章 水無月家の姉妹
コンコン、ガチャリ。
「おはようございます」
木を叩く乾いた音がしたあと、明るい女の子の声が響き渡った。
その声に反応し、ベッドの上にいる総次が寝返りをうつ。
「んんっ、ふわあ・・・」
総次は重く閉じたまぶたを必死になって開けた。ぼやけた視界にピンク色のパジャマを着た少女が映る。しかし、それが誰なのかは、はっきり分からない。いつも寝起きが悪いので、思考回路がすぐに働かないのだ。
「起きてください、総次さん。朝ですよ」
声の主がベッドに近づいて、総次はようやく自分の状況を把握することができた。
「あ、おはよう、紅葉ちゃん」
目をこすりながら、起こしに来てくれた水無月家の次女に挨拶をした。
「おはようございます」
紅葉は無邪気な笑顔を浮かべた。
「朝ごはんが出来ましたから、降りて来てください」
「うん、分かった」
総次はそう答えてベッドから起き上がると、紅葉と一緒にキッチンへ向かった。
ちょうど階段を降りたところで、若葉と出会った。
「おはよう、お母さん」
「おはようございます」
総次と紅葉は同時に挨拶をした。
「おはよう、紅葉、総次君」
若葉は立ち止まって、穏やかな笑みを浮かべた。
「総次君、なんだか眠そうだけど、ひょっとして眠れなかったの?」
総次の顔を見て、たちまち若葉の表情が曇った。それを見た総次は慌てて首を横に振った。
「いえ、違うんです。いつも寝起きが悪いんで、どうしてもこういう顔になるんです」
「まあ、そうだったの。私はてっきり気を使いすぎて、眠れなかったのかと思ったわ」
若葉がほっと胸を撫で下ろす。
「それじゃあ、私は仕事に行くから、あとのことはよろしくね」
と言って、急ぎ足で玄関から出て行った。
「いってらっしゃい、お母さん」
「いってらっしゃい」
総次たちは若葉を見送ったあと、キッチンへ足を踏み入れた。
中ではブレザーを着た青葉が、テーブルの上に食器を並べていた。青葉は総次の姿を見たとたん、皿を両手に抱えたまま動かなくなった。まるでヘビに睨まれたカエルのように。
「おはようございます、青葉さん」
総次は努めて穏やかな口調で挨拶をした。
「・・・」
青葉に不安を与えないように気を配ったつもりだったが、どうやら効果はなかったようだった。
青葉は総次に背中を向けると、わざと忙しそうに皿を置き始めた。
───とりつく島もないか・・・
総次は軽く頬を掻いた。
青葉の頑な態度が、ちょっとよそっとのことで崩せないことを改めて認識した。鉄壁の心の城をどうやって攻略しようかと思案する。
───こうなれば、こちらから徹底的に攻めるのみ!
意を決して青葉に視線を向ける。まだ出会って1日しか経っていないので、しばらく様子をうかがうという作戦もあったのだが、それは総次の気性的に向いていない。持久戦より短期決戦で物事を解決するタイプだからだ。
それに、このまま座して待っていても、青葉の様子からして、状況がよくなるとは到底思えなかった。
「俺も手伝うよ」
タイミングよく積極策に出た総次だったが、
「あ、私がやりますから、総次さんは先に席についていてください」
紅葉の一言により、脆くも策を崩されてしまった。
「え、あ、ああ・・・」
完全に肩透かしを食らった状態になった総次は、仕方なく椅子に座った。このあと、水無月家の姉妹が手際よく食器と料理を並べて、朝食の準備が完了した。
「ごはん、ごはんっと。あ、総次さんのごはんがまだでしたね。私がよそってあげますね」
紅葉は自分の茶碗をテーブルに置くと、別の茶碗にごはんをよそって総次に渡した。
「ありがとう」
総次は礼を言って茶碗を受け取った。
「いっただきまーす」
紅葉の明るい声が朝食の合図になった。
「総次さん、途中まで一緒に学校に行ってもいいですか?」
紅葉が卵焼きをつまみながら尋ねた。
「別に構わないよ」
総次は快く承諾した。
「よかったあ。それじゃあ、早くごはんを食べなきゃ」
と言うなり、紅葉は食べるピッチをあげて、一気に茶碗を空にした。
「お姉ちゃん、おかわり」
「そんなに慌てて食べると、喉に詰まらせるわよ」
青葉は、紅葉が差し出した茶碗にごはんをよそいながら、たしなめた。
「エヘヘ、ごめんなさい」
紅葉は小さく舌を出して謝った。
「はい、ちゃんとゆっくり噛んで食べなさい」
「はーい」
紅葉は姉から茶碗を受け取ると、味わうように食べ始めた。
この姉妹のやりとりの途中で、総次は青葉の妹に対する思いやりを感じることが出来た。また、自分に対しては冷たい態度をとっているが、本当は心の優しい女の子だということも、漠然としながら分かった。もっとも、これは今後の展開を考えた希望的観測といえなくもない。悪くいえば、身内に対しては優しいが、赤の他人には冷たいということも考えられるからだ。そうではありませんようにと、信じたことのない神様に都合よく祈る総次だった。
「総次さんは、ごはんのおかわりはいらないのですか?」
急に話しかけられて、総次は我に返った。
「あ、ごはんのおかわりかい。それじゃ、もらおうかな」
少し残っていたごはんを平らげて、空になった茶碗を紅葉に渡した。
「お姉ちゃん、総次さんの分もよそってあげて」
紅葉から茶碗を受け取った青葉は、チラリと総次を一瞥すると、無言のまま、ごはんをよそって紅葉に渡した。
───やっぱり他人には心を開かないタイプかもしれない・・・
悪い予感が脳裏をよぎる。
「はい、どうぞ」
紅葉が笑顔を浮かべながら、可愛らしい両手に茶碗を乗せて差し出した。
「どうしたんですか?」
総次がうかない顔をしていることに気づき、心配そうに尋ねた。
「な、何でもないよ、紅葉ちゃん」
総次は安心させるように、笑ってごまかした。
総次の表情を見て、紅葉の顔に笑顔が戻る。
彼女の愛らしい笑顔に、先程までの不安が少しずつ消えていった。
姉とは対照的に、いろいろと話しかけてくれる紅葉の存在は、今の総次にとって唯一の救いだった。もし、このまま青葉と仲良くなれそうになかったら、この少女に相談してみようと総次は思った。年下の女の子に相談することに、少なからずとも抵抗があるものの、背に腹は変えられない。ただし、これはあくまで最終手段だと自分に言い聞かせた。相談すれば、てっとり早く片付くかもしれないが、プライドという概念が女の子に弱さを見せることを許してくれないからだ。
総次は2杯目のごはんと卵焼きを食べながら、青葉との会話のきっかけをどう作ろうかと考えた。しかし、もともと考えることが苦手だということも手伝って、何もいい方法が浮かばず、朝食の時間が終わってしまった。
「ふう、ごちそうさまでした」
紅葉は満足そうに両手を合わせた。
「紅葉、一緒に行くなら早く準備をしなさい」
「いっけない、急いで準備しなきゃ」
と言うなり、猫のような俊敏さで台所を飛び出した。
「ごちそうさまでした」
総次もすぐさまそのあとに続く。
部屋に戻ると、総次は壁に掛けられた新しい制服に袖を通した。着替え終わると、鏡の前に立って髪型をチェックする。もうひとりの自分の姿を見て、総次は改めて新しい生活が始まったことを感じた。
「よし、行こう」
総次は鞄を持って部屋を出た。
玄関前にはすでに青葉と紅葉が待っていた。
青葉は総次がくつを履き終わるのと同時に、無言のまま玄関のドアを開けて外に出た。
「あ、お姉ちゃん、ちょっと待ってよ」
紅葉は慌てて姉のあとを追った。
総次はため息をついて歩き出した。
外に出ると、涼しい風がたおやかに流れていた。
歩道の脇に並び立つ銀杏の葉が小鳥となって宙に舞っていた。小鳥たちは太陽の光を浴びて、黄金色に輝いていた。自分たちが存在できる時間があとわずかだと伝えるみたいに。
「今日も銀杏の葉がすごいですね」
総次と青葉の間にいた紅葉が、両手をかざして銀杏の葉を受け止めた。
「もうすぐ季節が変わるんだな」
「そうですね。私の季節ももう終わりですね」
「え、それってどういうこと?」
総次は意外な表現に驚きながら尋ねた。
「私の名前が“紅葉”だから、秋は私の季節なんです」
「なるほど、そういうことか」
納得してうなずく。
「私は秋に生まれたから“紅葉”って名前になったんです。ちなみにお姉ちゃんは夏に生まれたから“青葉”って名付けられたんですよ」
「へえ、それじゃあ、紅葉ちゃんが春に生まれていたら“桜ちゃん”になっていたかもしれないね」
「エヘヘ、そうかもしれませんね」
紅葉は体を小さくかがめて笑った。
「はら、急がないと遅刻するわよ」
「はーい」
先頭を歩いていた姉に促され、紅葉は歩くスピードをあげた。
銀杏が並ぶ歩道を過ぎると、なだらかな坂道に差し掛かった。先程の幻想的な雰囲気とは打って変わって、ごく普通の民家だけの無機質な風景が広がる。その道を半分ほど進んだとき、総次は紅葉がこちらをじっと見つめていることに気づいた。
「どうしたんだい、紅葉ちゃん?」
「い、いえ、何でもないですっ!」
紅葉は少し後ずさりながら、声をうわずらせた。明らかに何かありますと言っているような素振りに、総次は疑惑を抱いた。
「本当に?」
「は、本当です・・・ただ・・・」
「ただ?」
「やっぱりいいです」
紅葉はうつむいて黙り込んだ。
───俺、何かしたのかな・・・
釈然としない気持ちが心の中に広がる。
「あの、俺が何かしたかな?」
総次は優しく問い掛けた。
「総次さんは何も悪くないです。ごめんなさい」
紅葉は視線をそらしながら答えた。
その答えが真実ではないと確信した総次は、本当のことが知りたいという衝動に駆られたが、ぐっと思いとどまった。このまましつこく追求すると、いじめているような気がするし、またこれが原因で紅葉との関係が悪くなるかもしれないと思ったからである。
総次は何気なく反対側にいる青葉のほうに顔を向けた。青葉も紅葉の突然の変化に気づき、心配そうな表情を浮かべている。
不意に青葉が総次のほうを見た。その瞬間、互いの視線がぶつかり合った。ほんの一瞬だが、ふたりの時間が止まった。
「・・・」
青葉はすぐさま時の呪縛を解くと、顔を正面に向けた。
総次は頬を掻きながら、辺りの景色を見渡した。
坂道を登り終え、右折する道を歩いていると、右手のほうに小さな公園が見え、道が北と西に分かれた。ここで短いが長く感じられた沈黙の時間に終止符が打たれた。
「それじゃあ、私はこっちの道だから・・・」
紅葉はそう言って、北の道に向かって足を進めようとした。
「あ、ちょっと待って」
そのとき、青葉が小走りで紅葉に駆け寄った。
「ほら、髪の毛にゴミがついてるわよ」
と言って妹の髪についていた小さな糸くずを手で取った。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「気をつけて行きなさいよ」
青葉はそっと紅葉の髪を撫でた。
「うん」
紅葉の顔にようやく笑顔が戻った。
今のやりとりを見て、総次は青葉の妹に対する心配りに感服した。
「あ、総次さん」
紅葉が何かを思い出したように総次に話しかけた。
「さっきはごめんなさい。別に何でもありませんから、気にしないでください」
「ああ、別に気にしてないよ」
総次は心とは裏腹な答えを返した。紅葉が何かを隠していることは明白なのだが、ここはあえて忘れることにした。時が来れば、本人から話してくれるだろう。
「よかったあ。それじゃあ、行ってきまーす」
紅葉は弾むような足取りで駆け出した。その後ろ姿を見送ったあと、総次は青葉を一瞥した。
青葉は紅葉に見せた柔らかい表情を一変させると、きびすを返して歩き出した。こうなることは予想していたので、総次は何も言わずに彼女のあとを追った。
ここからはまた沈黙がふたりを包み込んだ。街の商店街を突き抜けたところから、総次たちと同じ制服を着た男女の姿が見え始め、辺りは急に賑やかになっていった。先に進むにつれて生徒の数が増え、それに比例して賑やかさが増していった。しかし、ふたりのいる場所だけは、依然として重い空気が続いていた。むしろ、まわりがまわりなので、余計重くなったような気がしてならなかった。それが影響したせいか、総次は会話を切り出すことが出来ず、何の進展もないまま、学校にたどり着いた。
先頭にいた青葉は『久遠高校』と書かれた校門を早足で通り抜けた。総次は遅れないようにペースをあげながら、周囲を見回した。
校門のすぐそばの両脇には、眠りについた桜の木が4本ずつ立っていた。春になれば、鮮やかな桃色の花びらが卒業生の旅立ちと新入生の新たな出発を祝うことだろう。
奥に進むと十字路にぶつかり、直線の歩道の脇に生えた紅葉の木が、桜の代わりに総次を出迎えてくれた。紅の葉の歓迎を受けながら、総次たちは校舎の正面玄関をくぐり抜けた。
『職員室』と書かれたプレートがぶら下がった部屋の前に着くと、青葉は無言のまま、小走りで去っていった。
───なんなんだ、あの態度は・・・
総次の困惑が次第に怒りへと変化していった。青葉にとって自分は招かざる客かもしれないが、こちらだって好きでやって来た訳じゃない。それに、こちらは仲良くしようと思っているのに、何の理由もなく、一方的に嫌われるなんてあまりにも理不尽すぎる。考えれば考えるほど、腹立たしくなってきたが、ここで怒りをぶちまげれば、それこそ元も子もないので、今は耐えるしかなかった。
───石の上にも三年ってやつだな。
もっとも、自分の場合は一ヶ月が限界だと心の中でつぶやいた。
総次は深いため息をつくと、職員室のドアをノックして入った。職員室は授業が始まる前ということもあって、ほとんどの教師が各々の席で、朝のホームルームの準備等をしていた。
「あの、今度ここに転校することになった伊倉総次と言いますが、担任の先生はいらっしゃいますか?」
総次は一番近くにいた女の教師に話しかけた。
「ああ、冬月先生のクラスに入る転校生ね。冬月先生―、転校生が来ましたよ」
女教師は立ち上がると、後ろを向いて総次の担任を呼んだ。
「分かりました。今、そちらに行きます」
のんびりとした返事のあと、20代後半の男性が総次のところにやって来た。
「どうも初めまして。私が今度、伊倉君の担任になる冬月護といいます。どうぞよろしくお願いします」
新しい担任は、深々と頭を下げた。
「今度、お世話になります伊倉総次です。こちらこそよろしくお願いします」
相手の雰囲気につられて、総次も同じくらい頭を下げる。なんか頼りなさそう先生だな、というのが第一印象だった。しかし、体育系の怖い先生ではなかったので、少しだけほっとした。
「もうすぐ朝のホームルームが始まりますから、そこに座って待っていてください」
冬月は応接用のソファーがある場所に総次を案内すると、自分の席に戻った。
総次は言われたとおりに、ソファーに腰掛けて、時間が過ぎるのを待った。
壁掛け時計の針が8時15分を指した瞬間、校内にチャイムの音が響き渡った。それと同時に冬月が総次のもとにやって来た。
「それでは教室に行きましょうか」
「はい」
総次は冬月の横に並んで職員室をあとにした。
「伊倉君はいつこの街に来たのですか?」
2階へ続く階段を登る途中、冬月が話しかけてきた。
「昨日の昼過ぎですけど」
「そうですか。伊倉君が前にすんでいた場所から、ここまではかなり距離があるので、大変だったでしょう」
「そうですね。まさか自分が転校するなんて思ってもみなかったから、とても慌ただしかったですよ」
「転校の話はお父さんから聞いていなかったのですか?」
「全然聞いてないですよ。俺の親父はいつも家にいなかったんですけど、半年ぶりに戻って来たと思ったら、いきなり転校することになったなんて言い出して・・・」
総次は不満げに口を尖らせた。
「そうだったんですか。多分、お父さんは何か理由があって伊倉君をこの学校に転校させたと思いますよ」
冬月はなだめるように総次に言った。
「理由ですか・・・」
総次の頭の中で、転校という不測事態の中に隠れていた疑問が浮かび上がった。
───どうしてあのバカ親父は急に俺を転校させたんだ?
よく考えてみれば、この転校の理由については、まったく分からないままだった。まず自分には転校するような事情はない。それなら、父親の都合によるものかといえば、それもまずありえない。なぜなら、父親は息子をほったらかしにし、好き勝手をやっているので、親の都合によって総次の生活に影響がでることなどないからだ。
結論を出せず、もやもやとした気持ちを抱えたまま、「2-E」という札が掛かった教室に着いた。
「ここが伊倉君の新しいクラスですよ」
冬月が横開きのドアを開けると、雑談をしていた生徒たちが蜘蛛の子を散らすように、それぞれの席に戻った。冬月のあとに、総次が教室に入ると、新しいクラスメートの注目をいっせいに浴びた。何人かは隣りの席の生徒と小声で話をしていた。恐らく、転校生となった自分のことを話しているのだろう、と総次は思った。
「みなさんに転校生の紹介をします。今度、このクラスに入ることになった伊倉総次君です。伊倉君は初めての転校なるので、みなさんでいろいろと手助けをしてあげてください。
伊倉君、自己紹介のほうをお願いします」
「えっと、霜月南高校から来ました伊倉総次といいます。初めての転校で、分からないことだらけなので、いろいろと教えてください。よろしくお願いします」
総次はクラスメートを見渡しながら挨拶をした。
「それでは伊倉君は嵐山君の隣の席に座ってください。嵐山君、伊倉君の教科書は明日届くそうですから、今日1日だけ彼に見せてあげてください」
「はい、分かりました」
嵐山と呼ばれた男子生徒が返事をした。
がっしりとした体格に、無骨な顔をしたその生徒は総次が席に着くと、顔とは裏腹な人なつっこい笑みを浮かべた。
「俺は嵐山倭っていうんだ。よろしく」
「こちらこそよろしく」
初めて会話したクラスメートに総次は好感を覚えた。
総次の新たな学校生活は、平凡ながらも順調に進み、昼休みを迎えた。
「総次、昼飯はどうするんだ?」
倭が総次の席の前に立って尋ねた。
総次と倭はまだ知り合ったばかりなのに、互いに気が合うのか、すぐに打ち解けあっていた。初めての転校に多少の不安を覚えていた総次にとって嬉しい誤算だった。
「俺は学食に行こうかなって思っていたけど」
「そうか。それなら、ついでに売店でジャムパンを買ってきてくれないか。俺は自分の弁当だけじゃ足りないからさ」
「ああ、いいぜ」
「すまない。そのかわり、少ないかもしれないが、釣りは駄賃として取っておいてくれ」
と言って、総次にお金を渡した。
「サンキュ。じゃ、行って来るぜ」
総次が席を立ったそのとき、
「あ、いたいた。どうやら間に合ったみたいですね」
冬月が小走りで駆け寄った。
「どうしたんですか、先生」
「水無月さんから、弁当と家の鍵を預かったので、渡しに来ました」
冬月はそう言って弁当と鍵を総次に渡すと、教室をあとにした。
「水無月さんって誰だ?」
「俺が下宿している家に住んでいる女の子だよ」
総次の答えに、倭は驚きの表情を浮かべた。
「おまえ、その歳で女の子と同棲しているのか?」
「な、なんてこと言うんだ!俺はただ、下宿しているだけだ!」
「冗談だって。そうムキになるなよ」
倭が面白そうに笑った。
「まったく、ひとの気も知らないで」
総次が不満げにつぶやく。
「まあまあ、そう言うなって。それより早く飯にしようぜ」
「パンはいいのか?」
「弁当食ってから、買うことにする」
ふたりは机を向かい合わせると、弁当のふたを開けた。
「お、ものすごくおいしそうじゃないか」
倭は物欲しげに総次の弁当箱を覗き込んだ。
「ああ、ものすごーくおいしいぞ」
先程の仕返しと言わんばかりに、卵焼きを見せびらかしながら口に入れた。
「頼む、そのトンカツを分けてくれ」
「んー、どうしようかなあ」
わざと渋ってみせる。
思わぬ反撃を食らった倭は、成す術なく降参した。
「それなら、あとでジュースをおごるから、それでどうだ」
「お、いいねえ。そこまで言うなら仕方ない。食べさせてあげよう」
総次は尊大な態度で、トンカツを倭の弁当箱に入れた。
「うん、こいつはいけるぜ。もしかして、この弁当ってその同居している女の子の手作りなのか?」
「多分な。家のことは、ほとんど青葉ちゃんがこなしているみたいだからな」
「ふーん、名前は青葉ちゃんっていうのか。その青葉ちゃんって可愛いのか?」
「なんでそんなこと聞くんだ?」
怪訝そうに尋ねる。
「もし可愛いなら、紹介してもらおうと思ってな」
「なんだそりゃ」
倭は呆れる総次を無視しながら会話を続けた。
「で、どうなんだ?」
「確かに可愛いけど、ただなあ・・・」
今までの経緯を思い出し、総次は表情を曇らせた。
「ただ、なんだ?」
「むこうは俺のことを嫌っているみたいなんだ」
「何か嫌われることでもしたのか?」
倭の問いに総次は首を横に振った。
「いいや、まったく身に覚えがないんだ」
「そうか。でも、本当に嫌いなら、手間隙かけて弁当なんか作らないだろ」
「そう言われてみれば・・・でも、それならどうして俺に冷たい態度をとるんだろう。話しかけても無視するし・・・」
「うーむ・・・」
ふたりは箸を持つ手を止めると、神妙な面持ちで考え込んだ。
「ねぇ、何深刻そうな顔してるの?」
そのとき、ひとりの女生徒が話に割り込んできた。
「なんだ、千歳か」
倭はつまらなそうに女生徒を一瞥した。
「なんだはないんじゃないかな、倭君」
千歳と呼ばれた女生徒は、左手を腰に当てて睨んだ。
「紹介するよ。こいつは半場千歳といって俺の幼なじみなんだ」
倭の言葉のあと、千歳は笑顔を浮かべながら右手を差し出した。
「よろしくね、伊倉君」
「こちらこそよろしく」
総次も笑顔で握手を交わした。
「そうだ。こういうことは千歳に聞いたほうがいいかもしれんな。こいつも一応は女のはずだからな」
倭はひとり納得したようにうなずいた。
「ちょっと、どういう意味よ!」
凄味を効かせながら千歳が詰め寄る。
「いや、まあ細かいことは気にするな。おまえが女だってことは、体を見れば分かるから」
倭は千歳の胸の辺りに、視線を集中させながら答えた。それに気付いた千歳の顔がたちまち真っ赤に染まった。
「どこ見て言ってるのよ、このスケベ!」
千歳の拳が倭の頭を捕らえ、にぶい音が教室中に響き渡った。
───まあ、自業自得ってとこだな。
総次は頭を両手で押さえて、うめいている友人の姿に、少し同情してしまった。また、それと同時に倭の先程の発言の意味も、なんとなく分かった。
「あたた、何も本気で殴らなくてもいいだろ」
倭は上目で千歳を見ながらぼやいた。
「フン、倭君が悪いのよ」
千歳は両手を胸の前で組んで、鼻を鳴らした。
「まったく、そんなんだから女の子にもてないのよ」
「大きなお世話だ。まあ、それは置いといて、おまえに聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「何よ、聞きたいことって?」
「総次の下宿先にいる女の子のことなんだけどさ」
「え、伊倉君って女の子の家に下宿しているの?」
「成り行きでそうなったんだよ」
「へえ、その女の子ってここの生徒なの?」
「ああ、水無月青葉といって、俺たちのひとつ下の学年なんだ」
「そうなんだ。それで、その娘がどうかしたの?」
千歳は総次から倭のほうに視線を戻した。
「その青葉ちゃんが総次に対して冷たい態度を取っているんだけど、その割にはこんなにおいしい弁当を、手間隙かけて作っているんだ。これってどういうことなんだ?」
倭の質問に千歳は小首をかしげた。
「伊倉君は何か心当たりないの?」
「まったくないよ。俺が水無月家で彼女と会ってから、会話すらしていないし」
「そう、それじゃあ、水無月さんの冷たい態度ってどんなものなの?」
「こちらが話しかけても無視したり、避けるような行動を取ったりするんだ。まるで俺の顔なんて見たくないって感じでね」
総次は無意識のうちに、語気を強めて答えた。
「ははーん、なるほどね」
千歳は意味ありげな笑みを浮かべた。
「それは多分、戸惑っているだけだと思うわ」
「どういうことだ?」
倭が怪訝そうに尋ねる。
「いきなり同じ年頃の男の子と、ひとつ屋根の下で暮らすことになって、困惑しているんじゃないかってこと。恐らく、伊倉君とどうして接したらいいのか分からない、というのが今の水無月さんの心境だと思うわ」
「ふうん、それじゃあ、総次は嫌われていないんだな」
「多分ね。もし、嫌いだったらお弁当なんて絶対作らないわよ。お弁当って結構、作るの大変なんだから。案外、その水無月さんも伊倉君と仲良くしたいと思っているかもしれないわね」
千歳はそう言うと、総次に向かって微笑んだ。
「そうだといいんだけど・・・」
「大丈夫よ。きっとすぐ仲良くなれるわよ」
力強い千歳の励ましに、ようやく総次の心から不安が消えた。
「ありがとう。そう言ってくれると安心できるよ」
「どういたしまして。もし、何かあったら気軽に相談してね。出来る限りのことは協力するから」
「俺も力になるぜ。といっても、この件に関しては、あまり役に立たないかもしれないけどな」
倭は総次の左肩を軽く叩いた。
「そのときはよろしく頼むよ」
総次はいい友人と巡り合えたことに深く感謝した。
「ごちそうさまでした」
総次はイカのフライを食べ終わると、両手を合わせて立ち上がった。
若葉が仕事から戻っていなかったので、夕食は青葉と紅葉のふたりと一緒に取ったのだが、結局、このときも青葉とは一言も話さなかった。そのかわり、紅葉とは互いの学校での出来事などで会話が盛り上がった。その最中、総次はときどき青葉の反応をうかがってみたが、彼女はただ、黙々とごはんを食べるだけだった。
まあ、初日だから仕方ないか、と総次は無理やり、自分自身を納得させた。
「総次さん、もしよかったらお風呂に入ってください。今ならいい湯加減ですから」
テーブルの上の食器を片付けていた紅葉が声を掛けてきた。
「そうか。それなら、先に入らせてもらうよ」
特にやることもないので、総次は台所を出て浴室へ向かった。そして、中に入ると、体を洗って湯船に浸かった。
「居候っていうのも大変だな・・・」
総次の新生活の感想はその一言に尽きた。
生活環境そのものは悪くない。青葉はともかく紅葉や若葉は親切だし、おいしいごはんも食べられる。それを考えると、前の暮らしよりも数段よくなったといえる。しかし、ひとりだったときの“気楽さ”を失い、それが総次にとって予想以上の負担となっていた。
「早く慣れるしかないな」
総次は湯船から出ると、ガラス戸を開けて外に出た。すると、総次の視界に女の子の姿が映った。
───あ、青葉ちゃん!
目の前の少女が水無月家の長女であることを知った総次は、その場で石像と化してしまった。
ガラス戸の音に反応して、こちらを振り返った青葉も同じように固まった。
しばしの沈黙のあと───
「きゃあああ!」
けたたましい悲鳴が浴場付近にこだました。
「うわあ!」
あまりの悲鳴の大きさに、総次も思わず悲鳴を上げてしまった。
「あ、あの・・・」
今の悲鳴ですっかり混乱をした総次は、無意識のうちに青葉に近づいた。この行為が不用心だったことを次の瞬間、思い知ることとなった。
「いやあ!来ないで!」
青葉はのけぞりながら、持っていた石鹸の入った箱を投げつけた。
「ぐわあ!」
総次は箱をまともに頭で受け、あおむけに倒れた。
青葉は狼に襲われた小鹿のように、更衣室から飛び出した。
予期せぬ事態に総次は、視線を宙にさまよわせた。いくつもの星が瞳の中で瞬いていた。
そんなとき、パタパタと足音をたてながら紅葉が現れた。
「何があったんですか、総次さん・・・え、きゃあ!」
紅葉は中に入ったとたん、顔を両手で隠した。
「うわっ、も、も、紅葉ちゃん!」
あられもない姿をさらしていた総次は、慌てて起き上がると、ものすごい勢いで浴室に転がり込んだ。
───最悪だ・・・
総次は、こぶが出来た額をさすりながらうなだれた。
姉妹に裸を見られるわ、己の体たらくに失望してしまった。初日からこんな目に逢うようでは先が思いやられる。せっかく、風呂で落とした疲れが、一気に戻ってしまった。
このままそこにいても仕方ないので、総次は恐る恐るガラス戸を開けて、顔だけ出した。周りに誰もいないことが分かると、総次はすばやく外に出て服を着た。
更衣室から出ると入口付近で、紅葉が小さな体をさらに小さくして立っていた。
「あのっ、すみません!私、ものすごい音がしたんで様子を見に行って、その、それで・・・」
紅葉は顔を上気させながら頭を下げた。
「紅葉ちゃんが謝ることないよ。一種の事故みたいなものだから。それより、こっちこそ心配かけてごめんね」
総次の様子に、紅葉は安堵した。
「総次さん、いったい何があったんですか?」
「風呂から上がると、青葉ちゃんとばったり会って、石鹸箱を投げつけられたんだ。でも、なんであのとき、青葉ちゃんはあんなところにいたんだろ?」
「あ、そういえば、お姉ちゃんは浴室に置いてある石鹸がきれていたから、補充しに行くって言ってました」
「なるほど、多分、青葉ちゃんは俺が風呂に入っていることを知らなかったから、浴室にいたんだな」
総次はようやく事の次第を把握することが出来た。
「あの、総次さん。お姉ちゃんのこと、怒っていますか?」
紅葉が恐る恐る尋ねた。
「別に怒ってなんかいないよ。これは誰のせいでもないからね」
総次は笑って答えた。もっとも、怒る気力もなくなったというのが本音なのだが。
「よかったあ」
紅葉はそれを聞いて、とびっきりの笑顔を見せた。
「紅葉ちゃんはお姉ちゃん思いだね」
「そ、そんなことないですよ。ただ、総次さんとお姉ちゃんがケンカするのは嫌ですから」
恥ずかしそうにうつむく。そんな仕草がとても愛らしい。もし、自分にこんな妹がいたらいいな、と総次は本気で思った。
「それじゃ、俺は部屋に戻って寝ることにするよ」
「そうですか。おやすみなさい、総次さん」
「おやすみ、紅葉ちゃん」
1日の終わりの挨拶を交わして、総次は階段を登った。
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