夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の

 こうしてはるは「かなぎ屋」に勤めることになった。


 かなぎ屋にははる以外に四人の女がいて、みんな吉原出の同世代である。昔は二十人を超える女が住んでいたが、大体出て行ってしまったのだという。

 辞めさせられたわけではなく、その女達は、ここよりもっと実入りのいい仕事――要するに岡場所勤めや吉原への出戻りを選んだのだ。


 彼女らがそうしたがるのも、やむを得ないとはるは思う。

 なぜならかなぎ屋は、はっきり言ってあまり儲かっていないからだ。


 店内は古く、小汚い。出される茶やお供の料理はあまり美味しくない。売り子は女郎上がりとあってか、どこか婀娜あだっぽく、主に男を誘惑するような態度で接客するので、飯盛り女だと勘違いする者も客の中にはいた。


 こんな風に茶屋として質が低いのは、ひとえに女達の教育が間に合ってないからだろう。

 はるたち五人の女は、昼間は二人が売り子として表に出て、三人が裏で料理や茶入れなどに従事する。見世を閉めてからは全員が女将から裁縫等を習う。手際の悪い女たちには女将の激と指導が入る


 「そんなにお茶っ葉を入れない!」

 「水をきるってのはこうするの!」

 「味噌汁を沸騰させるな!」

 「針の持ち方が違う!」


 まるで遣り手のようだと他の女達は影で言い合っていたが、はるはそれが嫌では無かった。

 たしかに口うるさいが、それだけでなく女将はきちんとはるが出来ないところを出来るまで教えてくれるからだ。


 料理については「豆腐百珍」から「名飯部類」まで、ありとあらゆる料理本を教本とし、米の研ぎ方、出汁の取り方、包丁の使い方まで根気良く教えてくる。

 裁縫でも、基本的な縫い方や糸の始末まで、覚えの悪い女達を決して投げ出さず、女将は昼夜問わずつきっきりで教えた。


 その甲斐あってか、はるは色々出来るようになってきた。特に裁縫技術の発達は女将も目を見張るところがあり、前掛けくらいなら縫うことが出来るようになった。

 もともと細かい作業が嫌いではないはるにとって、針仕事は性に合っていた。裁縫は江戸の女の必須技術である。

 女郎にはあまり役に立たない技術でも、これからはそれらを身につけないといけない。他の女達が甲斐性のある男に見初められることを夢見ている中、この先身一つで生きていくと決めたはるは、女将からの手習いを人一倍熱心に受けていた。


 ※

 ※

 ※


 そうして文月七月に入るころ、周りは隅田川の花火大会に向けてどこか浮き足立っていた。

 「かなぎ屋」でもそれは同じで、はるの朋輩らは花火大会に着ていく浴衣のことや、一緒に行く相手探しのことできゃあきゃあと盛り上がっていた。


 「花火大会に行くの、女将が許してくれるのかね?」

 「まさか! むしろ稼ぎ時だからって全員かり出されるよ」

 「その前にあんた、一緒に行く相手いないだろ?」

 「じゃああたしと行くかね?」

 「ご冗談」


 かなぎ屋は問屋街の茶屋の中では隅田川に一番近い。昼時になると船頭や船大工たちが休みに来る。花火大会の時ともなると、客がいつも以上できっと目も回る忙しさだろう。

 最近では皆少しずつ茶入れも上手くなり、掃除の行き届いてなかった店内も、埃を被っているところが少なくなってきた。

 接客もある程度客と距離を取ってなおかつ丁寧に接していた。ただ、それでも客に色目を使う女はいたが。


 こんな風に皆がある程度の技術を身につけ始めた頃、女将も徐々にはる達に見世を任せることが多くなった。その間女将は卸物師おものしとして武家や寺院からの着物の仕立ての内職を行っているようだった。やはり茶屋経営だけでは食べていけないのだろう。他にも秋冬用の綿入れから綿を取り出し形を整える綿摘みや、どうやら長屋で暮らす子供達へ読み書きまで教えているらしい。

 女が生きていくのに男の庇護があって当然と思っていたはるは、全く男の影を見せないで、自分だけの腕で暮らしている女将に密かに憧れを抱いていた。


 (だけど……)

 

 ふと、手元の縫い物の針を休めてはるは思う。もう二月程前、ここに来る前に聞いたあの噂。


 『かなぎ屋の女将は凶状前科持ち』


 あの仏頂面の女将の過去を、はるは知らない。朋輩に聞いてもなしのつぶてである。しかし、かつて女将が所帯を持っていたらしいとある女は言った。


 「材木問屋のご内儀だったらしいよ」

 「なんでも数年前離縁させられたとか」


 なぜ? そう問うても理由は知らないと女は答えた。だが離縁された翌年に、ここかなぎ屋を開いている。ここら辺に、彼女の過去が垣間見える気がする。


 (離縁の原因が、凶状持ちなのと関係してくるのか?)


 はるは縫っていた浴衣に玉留めをして完成させた後、女将のいる内所に持って行った。女将は、算盤を叩きながら大福帳を睨んでいる。そこではるは見た。部屋の片隅にある、古びた鏡台の上に「都風俗化粧伝みやこふうぞくけわいでん」が置いてあるのを。


 「都風俗化粧伝」とは、文化十年に発行されたその名の通り女の化粧の指南書であり、吉原の女郎はもとより、市井の女も愛読している一冊だ。はるも女郎時代随分お世話になった。

 別に女将だって女なのだから持っていてもおかしくない。そうわかっているのだが、化粧なんて存在すら知らないというような雰囲気を出している女将とそれはひどくちぐはぐにはるには感じた。


 (そういえば、ここにきて化粧は教わってないな……)


 提出した浴衣について女将に色々指導されながらはるは思った。女にとって化粧も手習いの一つだ。それを教わらないのは、単にはるたちが女郎上がりだから既に知っていると見なされているのだとばかり思っていたが……

 目の前の女将の肌をみる。いつも通り素面であるが、目立ったシミはなく色白で、四十路にしては張りのある肌だ。


 「ちょっと、聞いているのかい」

 女将に怒鳴られ、やっとはるは我に返る。そしてつい聞いてしまった。

 「女将さん、もしかして……?」

 「なんだい?」

 「化粧したことないんですか?」


 女将の丸い顔が、耳まで真っ赤になる。それが答えだった。

 「なっ……そ、そんなこと……」

 「あるんですか?」


 はるは意地悪く問う。女将の反応が意外で、なんだか可愛らしく思えてきたからだ。


 「馬鹿にするんじゃない、あるよ」

 「最後にしたのは?」

 「…………忘れた」


 女将は指先をもじもじさせ、下を向いて顔を赤くさせている。はるは妹女郎を思い出した。あの子も突き出し前にこんな初心うぶな反応を見せていたっけ。


 「……おぼこいな」

 「なんだって?」

 しまった、口に出ていた。

 「いいえ、なんでも」


 言いながら、はるは思わず提案していた。良かったら、と。

 そう言ったら女将は烈火の如く怒り出した。馬鹿にするな、あたしに何か教えようなんて十年早い、そんな暇があるならもっと針仕事や料理に費やせ、と。


 「わかりました。じゃあそんなに言うならあたしに見せてください」

 「何を?」

 「女将さんの化粧をですよ」


 ※

 ※

 ※


 それから半刻一時間ほど後、はるは内所で白粉おしろいを溶いていた。


 三つ重なっている容器の一番下に、白粉と水を加え、白粉の濃さを調整する。女将の手の甲に塗って、色を確かめる。もう少し薄くてもいいか。


 女将はというと、洗い立ての顔のまま、ちょこんと正座し無言でその様子を見ていた。


 はるに言われて自ら化粧を施した女将の顔は、それは酷いものだった。

 地肌と合っていない酷く濃い白粉を厚く塗りたくり、眉墨の位置もでたらめ、しかも紅もろくに指していない。見習い女郎である新造でもあんな能面のように塗りたくらない。

 女将も自覚しているのであろう。あまりの酷さに絶句しているはるに対し、ただ一言、「……どうすればいい?」と言ってきたのだから。

 なので、現在、はるは女将に化粧を教えている。


 「白粉はただ塗ればいいって訳じゃありません。こうやって水に溶かして、地肌の色に合わせて濃さを決めます」

 白粉液の容器を見せて、はるは説明する。

 「白粉を塗る前に、これを顔全体に塗ってください」

 「これはなんだい?」

 「花の露といって、これを常日頃から塗ると肌の調子が良くなり、白粉ののりが変わります」


 この花の露は、はるが持参したものである。女将はこういった化粧水の類いを持ち合わせていなかったので、はるの荷物から持ってきた。全く、花の露といい江戸の水といい、全て「都風俗化粧伝」にも載っている代物なのに、一体この人はどんだけ自分に無頓着なのか。

 花の露を肌に浸透させた女将の顔に、薄く溶いた白粉液を塗っていく。薄い白粉の層をいくつも重ねることにより、より自然な白さになっていく。

 なされるがままの女将にいつもの険は見当たらなかった。まるで新造のようなあどけなさすら感じる。


 ふと、はるは自身の突き出し前のことを思い出した。はるのいた見世では、突き出しの際姐女郎が化粧を施してくれるのだが、自分に白粉をのせ、紅を差してくれる姐さんの顔が静かに微笑んでいたのがとても印象的だった。

 なぜ、あのとき姐さんは笑っていたのか、今のはるにならわかる。あれはだ。

 まだ何も知らない妹女郎が独り立ちしていくのに対し、これからの苦難を乗り越えていけるようまじないの意味をこめて刷毛を握り筆を動かす。それは市井の母から娘への愛情のそれと同じではないだろうか。


 (あたしが母?)


 はるは、思わず吹き出しそうになった。女将は眉を寄せたが、はるはすぐに真顔になる。白粉を首まで塗り終わると、次は墨で眉を引き、そしてこれまた持ってきた紅猪口べにちょこの紅を筆にとり、女将の顎を上向かせると、肉厚な唇とまぶたにちょこんと乗せた。


 「できました」


 化粧の終わった女将の顔は、薄暗い室内に行灯の明かりを受けてうっすらと白く浮き上がり、まなじりと唇に引いた紅が憂いのを帯びた後家の婦人といった雰囲気を醸し出していた。


 「……へえ」


 自分の顔を鏡でまじまじと確認した女将は、そう呟いた。そのつぶやきには、はるの化粧の腕への賞賛がにじみ出ている。


 「こんなの、基本です。女将さんならすぐ覚えますよ」

 「…………」


 じっと、女将は紅のひかれた目でこっちを凝視する。目の奥が揺れていた。こんな目の女将は最近よく見かける。それは、言いたいことがあるのにそれを言葉にするのをためらっているときの目だ。


 その時、頑なな女将の心の奥が透けて見えた。頑丈な檻で飼われていたのは、獰猛な獣なんかではない、必死に不条理に耐え誰にも頼らないと固く誓い、鳴き方を忘れてしまった不如帰ほととぎすがそこにはいた。

 はるはそんな不如帰に、鳴き方と身繕いを教えてやることにした。


 「女将さん、よかったら、あと何度か化粧の手ほどきを教えますが」

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