春風や かなぎおちるる 強さかな

八十科ホズミ

花の色は うつりにけりな いたづらに

 紺碧の空がどこまでも広がる雲一つない五月晴れのある日、その女郎は女郎でなくなった。


 ここは吉原。江戸幕府公認の遊郭。その唯一の出入り口である大門。そこには二人一組で常に見張りが立っている。

 女は、勤めていた見世から出された最初で最後の通行手形を、見張りの番人に見せる。

 番人の男は、女を頭からつま先までじろじろ眺め、手形を仲間と何度も確認する。そして肩をぽん、と叩かれ、ただ一言「お疲れさん」と声をかけてきた。

 この瞬間から、女は女郎ではなくなった。小見世こみせ大和屋やまとや お抱えの“春風”はもういなく、十年以上の苦界勤めを終えた“はる”という二十七の女に戻ったのだ。

 そして、はるは、大門のかまちを跨いだ。


 十年以上の間、火事で大門をくぐったことは何度もあるが、自身の意思で出たのは初めてである。


 この時の感想を一言で言えば「こんなものか」


 生きて大門をくぐることは女郎の目標であり夢の一つであるのに、はるにはそのことについて特別な感慨はもたなかった。あっけないものだな、と思っただけで、はるの頭の中は年季勤めを終えた喜びよりも、これから行く場所に対する不安と期待の方が上回っていたので、他のことを感じたり考える余裕がなかったのである。

 吉原への道の一つである五十間道ごじゅっけんどうの出口に差し掛かるとき、はるはやっと手元の書状をのぞいた。そこには彼女のこれから行く場所が書かれている。

 それは口入れ状というもので、簡単に言うと職業斡旋状である。年季を終えて行き場のないはるを慮って遣り手がしたためたものだった。

 はるの次の奉公先はこう書かれていた。


 「手習い茶屋・かなぎ屋」


 ※

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 「苦界十年」などという言葉があるが、それは禿かむろ時代を除いた数であり、また女郎によって微妙に勤めた年数は変わる。

 はること春風の場合、八つで吉原に連れてこられ、当時中見世の「大和屋」に売られた。


 そこからは、まあ多くの女郎と同じく、禿として姐女郎について一通りの女郎としての教養を習い、十七で突き出し、その後一人前の女郎として勤め、見世が小見世に格下げされたものの最終的な階級は部屋持ちで、そして年季を終えた。全くもって特筆することのない典型的な女郎の半生である。

 女郎の年季明けは二十七であるが、背負った借金などで微妙に変わる。正式には二十七の暮れに年季明けすることになっているのだが、そんなのを律儀に守っているのは未だに格式張っている大見世ぐらいで、太夫の位は無くなり、花魁道中も滅多に出来ないこのご時世、二十七くらいになって、借金がなくなれば年季が明け晴れて自由の身になるのである。


 女郎が吉原を出る方法は三つ。


 一つ目は身請け。

 どこぞのお大尽に見初められ借金を肩代わりしてもらい、めかけかお内儀 として吉原から出る。これは女郎として一番幸せな方法だと言われている。


 二つ目は、死。

 性病、堕胎、果てには相対死、というように、女郎には死がつきものである。

 死んだ女郎は親元に遺体を返されることもあるが、そんなのはごく稀で、大半は三ノ輪の浄閑寺じょうかんじに無縁仏として葬られる。最下級の見世である切見世きりみせの鉄砲女郎だと、吉原をぐるりと囲むお歯黒どぶという用水路に投げ捨てられる場合もあるらしい。


 三つ目が、年季明け。

 無事二十七まで生き残り勤めあげると、その女郎に見世は通行手形を出してくれて、吉原を出ることが出来る。


 だが、年季が終わっても殆どの女郎には行く場所がない。

 親元に帰られたり好いた男と一緒になれるのは幸運なほうで、年季が明けても岡場所という違法の廓の女郎になるか、夜鷹として細々と働くか、吉原に戻って切見世でまた働いたり、遣り手という女郎のマネージャーのような役職につくというのが大半であった。


 なぜ教養のある女郎が江戸の街で働き先を見つけられないのか。それは簡単だ。市井の女が出来る料理、裁縫、掃除等が殆ど出来ないからだ。

 字を読み書き出来ても縫い物はからっきし。

 舞踊を踏めて三味線が弾けても料理はほぼ出来ない。

 掃除も禿や妹女郎にまかせっぱなし。

 十年以上吉原という籠の中で育ってきた女は、娑婆で生きていく知識も方法も教わらない。

 はるは、生まれは江戸よりずっと北のほうで、親兄弟は恐らくもう居ない。身請け話もあがらないまま年季が明けてしまい、どうしようかと悩んでいたところ、遣り手がとある所を紹介してくれた。


 それが、「かなぎ屋」という手習い処への奉公である。


 かなぎ屋というのは表向きは茶屋であるが、同時に元・女郎たちを雇い、料理や裁縫、隣近所との付き合いという庶民の女としての教養を手習いしてくれる場所らしい。


 (変わった場所だな)


 はるは吾妻橋あづまばしを渡りながらそう思う。

 吉原を出た後の女郎のことなんて、娑婆の者はもちろん、妓楼の者だって考えてくれない。皆自分の食い扶持を稼ぐのに精一杯で、他人のことを思う余裕などない。所詮自分は一人、というのがはるが苦界勤めで悟った真理である。

 だが、遣り手は少々変わっており、昔は情の深さで人気の女郎だったというその初老の女は、はるのような境遇の女郎に自分の知り合いが経営している茶屋へ紹介してくれた。


 遣り手の真意はなんであれ、とりあえずこれからはるは、「かなぎ屋」という茶屋で手習いを受けながら売り子として働くのだ。お給金が出るのはもちろん、雨風しのげる部屋で寝起きし、しかも食事まで出してくれる。自分のような年増にはなかなかの好条件の奉公先であったが、はるは話が上手すぎではないか、と訝んでいた。

 上手すぎる話には必ず裏がある、他人が、なんの見返りも無く厚意を示してくれるはずがない。これが、吉原という愛憎渦巻く場所で長年生きてきた、春風ことはるという女の哲学であった。


 ※

 ※

 ※


 吾妻橋を渡りきり、向島むこうじまをしばらく歩いていると、問屋街についた。反物たんもの屋に小間物屋、煙草屋に畳屋まである。吉原にもある程度の見世はあったが、ここは賑やかさも見世の多さも全然違う。はるはあまりの情報量の多さに目を細めた。

 問屋街の中にはちらほらと茶屋が並んでいる。ある茶屋では男達が床机しょうぎに腰掛け、茶をすすり談笑にふけている。はるは、隣の床机に座り、注文を取りに来た娘に茶を一杯頼んだ。


 「お客さん、ひょっとして、吉原の人?」


 茶を運んできたまだ十代らしき娘がそんな質問をする。今のはるは髪は島田に結い、茶鼠色の着物を着て白粉もはたいてない。格好だけならどこからどうみても町人なはずだ。


 「……どうして、そう


 そう答えてしまい、はるは舌打ちしたい衝動に駆られた。廓詞ありんすことばなどめったに使わなかったのに、なぜここで出てしまう!?


 「ああ、やっぱり! いや、ここにはお勤めが終わったお女郎さんがよく向こうからやってくるから、そうじゃないかなと思って」


 自分の予想が当たったことがそんなに嬉しいのか、娘は小首をかしげて微笑んでみせる。その笑顔には摘み立ての茶のような瑞々しさがあった。

 吉原と向島は橋を渡ればすぐ着く距離にある。大門を抜けた女郎がまず来るのがここ向島だ。なので娘が女郎に何度も会っていても不自然ではない。


 はるは首肯し、無言で茶をすする。見世でのお勤めのときならお愛想を振りまくが、今の自分は女郎ではない。無愛想なはるを見て、娘は少し傷ついたような顔をしたが、構わず今の懸念をはるは話し始めた。


 「あんた、『かなぎ屋』という茶屋知ってる?」


 その見世の名が出た途端、娘と、会話を盗み聞きしていた隣の男達がぎょっとした顔になった。


 「も、もちろん知ってますけど……」

 「あんた、かなぎ屋に行くのかい?」

 「可愛そうに……」


 可愛そう? なんで憐れまれなくてはならない? はるの眉間にしわがよる。


 「可愛そうて、どういう意味だい?」


 姐女郎仕込みの凄みで、はるはそう発した男に詰問する。男はもごもごと口を動かしただけで縮み上がってしまった。全くだらしがない。


 「い、いえ! お客様がおかわいそうという訳では無いんですよ! ただ……」

 「ただ? なんだい?」

 「い、いえ……その……」


 よほど凄い剣幕で迫ってしまったのだろう。娘はほとんど泣きそうにうつむいている。はるは顔の筋肉をやわらげ、たしなめるように言った。


 「別に怒っちゃいないさ。ただ、あたしはこれからそこに行かなきゃならなくてね、そこのことをもっと知りたいのさ」

 「お客さん、かなぎ屋について何も知らされてないのですか?」

 「あたし達みたいな元女郎に色々と手習いしてくれる茶屋だとは聞いてるけど」


 にやにやと男共はにやつき始める。娘は困ったようにもじもじしていたが、やがて蚊の鳴くような声で答える。


 「かなぎ屋の女将は……四十路の大柄な女性で……お女郎さんだった女の人にお針仕事やお料理を教えてくれるのは本当です」


 でも、と娘は続ける。


 「その女将さんは……実はだってもっぱらの噂なんです」


 ※

 ※

 ※


 「大和屋さんからの口入れ、ねえ」


 かなぎ屋は、問屋街の出口付近にぽつんと建っていた。


 はるは、色あせた暖簾をくぐり、内所で女将に口入れ状を見せている。その間に同世代くらいの女が茶を運んできたが、所作がどうも蓮っ葉というか、訓練された茶屋の娘らしくない雑さであった。恐らく彼女も、女郎上がりなのだろう。

 道中で聞いたとおり、女将は大柄で化粧っ気はなく、それどころか女らしさをどこかに落としてしまったんではないかと思えるくらい険がある。今だって、はるのことをじろじろと遠慮無く、まるで値踏みでもするかのように見つめてきている。いや、睨んできている、と言った方が正しいか。


 「それで、春風。あんた本名は?」

 「はるです」

 「じゃあ、はる。あんたは一体何が出来る?」

 「……?」


 一瞬問いの意味がわからなく、少し眉にしわを寄せてしまった。女将は、島田に結った髪にも、島小紋のつむぎにも少しの乱れも無く、一切の隙を見せず、ただ真っ直ぐにこちらを見ている。


 「三味、舞踊、茶の湯、将棋、生け花、書なら姐女郎から一通り仕込まれました」


 はるはとくに覚えが良い方では無かった。なのでどれも教わりはしたがたいして上手くない。

 その答えを聞き、女将は小さく息を吐くと、茶を飲んだ。はるもつられて湯呑みを口に運んだが、ちょっと温い。おまけに濃すぎる。


 「遣り手のおしずさんから聞いていると思うけど、ここはお前さんみたいな行く手のない女に家事一切を教える処なんだ」

 「存じています」


 茶をまた一口。相変わらず不味い。

 女将は鉄面皮のまま再び問うた。


 「針仕事は?」

 「あまり……」

 「水仕事は?」

 「禿時代に少し」

 「料理は?」

 「玉子酒くらいなら」


 女将はふう、と肩を落として筆をさらさらと台帳に走らせる。そして言った。


 「とりあえず、あんたのここでの仕事は茶屋の売り子。それが終わったら手習い。家賃と食費と雑費を抜いて給金はざっとこんなところ」


 女将が提示した金額は、女郎時代の一月の稼ぎの十分の一以下だったが、食費と宿代を除けばこんなものなのだろう。世間の相場は知らないけど。


 「なにか質問は?」

 「…………」


 じっと、じっくりと、はるは女将を見た。

 客がどんな人物か見極めることは女郎の大事な能力の一つ、と姐さんに教わったように、はるは女将という人物を見極めようとした。

 大柄、化粧っ気のない、というのは目に見える情報だ。そこよりもっと深く、化粧や着物でごまかせない身体の内側を探る。それが出来るのが女郎だ。


 だが、はるには女将の内側が見通せなかった。彼女は内面になにか “飼っている”。それが獰猛な犬なのか、小型の猫なのかは解らない。ただ解ったことは、彼女は自らの内側を何重もの檻で封じており、だれにもその檻を壊させまい、中身を見せまいと鉄のように固くなっているということだけだった。


 (こんな堅物、今まで見たことない)


 そのまま黙っていると、女将ははるに奉公証文を見せ、内容に相違ないか確認を求めた。証文を取り交わし終わると、女将は立ち上がり、ついてくるようはるに言った。

 女将が滑るように廊下を歩く姿は意外と優雅で、はるは女将の大きな背中に向かって、先ほど言えなかった質問を声に出さないでぶつけてみた。


 ――女将さん、凶状持ちのあんたは、一体なんで私達に家事なんて教えてくれるんだい?


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