影武者劉備玄徳

春日みかげ(在野)

プロローグ 徐州

 紀元二世紀から三世紀にかけて、東洋の大陸に四百年の歴史を築いてきた大帝国「漢」が滅びようとしていた。王朝は腐敗し、豪族貴族と宦官との派閥争いが国政を混乱させ、困窮した民は道教教団「太平道」に身を投じて「蒼天、すでに死す。黄天まさに立つべし」と唱えて武装蜂起した。


 蒼天とは、「漢王朝の世」を意味する。民衆は、国と民を統べる「徳」を失った漢王朝を打倒しようとしたのだ。彼らは、頭に黄色い布を巻いたために「黄巾族」と呼ばれた。黄巾族の乱は鎮圧されていったが、各地に軍を率いて割拠した群雄たちがそれぞれ自立。漢の都・洛陽は西の方・西涼から北方騎馬民族軍団を率いて乗り込んできた稀代の暴君・董卓によって焼き払われ、漢王朝は完全に崩壊した――。


 董卓の出現とともに大陸全土が、群雄割拠の大乱世へと突入した中。

 徐州という国が、隣国に割拠している姫将軍・曹操の侵略を受けていた。


 後漢きっての名門・袁紹のもとに仕える一武官にすぎなかった曹操は、寡兵で青州黄巾族百万と戦い、破り、ついにこれと和睦し、彼ら黄巾族を「青州兵」として自軍に組み込んだ。袁紹のもとから自立する力を得たのだ。が、好事魔多し。

 曹操が「父上には長らく心配をかけたけれど、私もやっと一人前の姫武将になれたわ。父上をお呼びしなきゃ」と田舎に隠遁していた老いた父・曹嵩を自分のもとに招いた時、曹嵩はその途中で徐州を通った。そして、徐州の山道で山賊に襲われて殺されてしまったのである。


 曹家は、先々代つまり曹操の祖父が宦官だったこともあって家柄は低いが、莫大な資産を持っていたのだ。山賊たちは、曹嵩の輜重に目が眩んで襲ったらしい。これを知った曹操は、日頃は「白面の智将」と呼ばれる理知的な姫武将だったが、理性も軍略もなにもかもを失って激怒した。泣きはらして腫れ上がった目を血走らせ、青州兵全員に白装束を着せて「父上の敵を討つ。徐州を攻めるのよ!」と叫びながら徐州へ乱入した――。


 徐州の主・陶謙はもう、打つ手がない。黄巾族あがりの青州兵には、軍律もなにもない。徐州の民はことごとく殺された。あまりのことに、周辺の誰も助けに来てくれなかった。父親を殺されて激怒し自分を見失っている曹操と、軍律を知らない野獣のような青州兵。とても、戦って勝てる相手ではない、と震え上がったのである。


 だが、ただ一人、徐州へと義軍を率いて駆けつけた将軍がいた。

 その男の名は、劉備。字は玄徳。

 もともとは幽州で草鞋を売っていた男である。黄巾族の乱から村を守るために義勇兵を率いて立ち上がり、その後、傭兵隊長として諸国を転戦していた。名士でもなければ、地盤もない。あるものは、「侠」の精神と、そしてなによりも強い絆で結ばれている二人の義妹だけだった。


 深夜の徐州。戦場は、死屍累々だった。劉備は、「かわいそうに……ひでえことになっちまったな、曹操ちゃん。今頃、どうしてこんなことに、と陣中で泣いているだろうなあ。あれほどの智将が、情に目を曇らせて生涯の汚点を作っちまうなんて。この国を再統一できる英雄は曹操ちゃんだと思っていたが、これで曹操ちゃんは民の支持を失った。曹操ちゃんがこれからなにをしようが、項羽の再来としか人々は思ってくれねえ。乱世はいよいよ乱れるな」と目に涙を浮かべながら、なぜ徐州が攻められているのか訳もわからないままに死んでいった民のために祈っていた。


「軍規ってやつを知らない餓狼のような青州黄巾族を実戦に用いるのが、早すぎたんだ。親父さんの仇を討ちたいがためとはいえ、やりすぎだぜ曹操ちゃん。親父どのを殺された曹操ちゃんの悲しみと怒りはわかる。俺だって、妹たちを……関羽や張飛を殺されたら、完全にブチ切れて同じことをやるに違いないさ。でもよう……徐州の民には、関係ねえだろう?」


 せめてあと一年、青州兵を正規兵として調練してから徐州に攻め入っていれば、こんな惨劇は起こらなかった。曹操は暴虐の姫将軍ではない。誰よりも理知的で、十年先二十年先まで時代の流れを読んで戦略を組み立てて戦える真の英雄だ。が、親父さんを殺されるという不幸が、彼女の運命を、そして漢の運命を変えちまった。乱世が長引けば、結局、苦しむのは民だ……と劉備は心を痛めていた。


「だが俺にゃあ、青州兵の暴走を止められる兵力はねえ。なにしろ名門の出でもなければ地盤もない、ただの義侠の徒だ。関羽と張飛の一騎当千の武を使いこなせる知恵もねえよ……ああ。悔しいなあ」


 思わず見上げていた徐州の星空に、ひとつの流れ星を、劉備は見つけた。


「おっ? あの星は……?」


 馬を進ませながら、その星を目で追っていくと。

 死屍累々の徐州の大地に、一人の華奢な少女が立っていた。

 清楚な白い道士服に身を包んでいる。長くまっすぐな髪は、月の光を浴びて銀色に輝いていた。まるで、この世の者ではないかのような儚げな美しさ。そして、少女はひとたび邂逅した者が決して忘れることのできない「星眼」の持ち主だった。


「お嬢ちゃん!? きみは? ここは戦場だ。こんな夜に一人で歩いていちゃあ、危ないぜ」


「……はじめまして。あなたが噂の『大徳』劉備玄徳、ね。地獄と化したこの徐州を救援に来るだなんて、酔狂な殿方ね。『大徳』でなければ、ただの酔狂な御仁だわ。あなたは、未来を知りたい?」


「未来を? ああ、そりゃあ知りたいね。俺には知恵も地盤もないもんでな。徐州の民を救おうと義軍を率いてきてみたはいいが、曹操率いる青州兵にはとても勝てそうにねえ。未来を覗ければ、俺の知恵の足りなさを補えるかもしれねえな」


「たとえその未来が、どのような辛いものだったとしても? 曹操孟徳が父親を殺されて狂乱したように、未来を知ればあなたも壊れてしまうかもしれないわよ。それでもいいの? 後悔はしない? 劉備玄徳」


「無論だ! この戦乱を終わらせることができるのならな! 徐州でやらかしてしまった曹操は、もはや天下を再統一する大義を失った! この国はいよいよ乱れる! これからどれほどの数の人間が死んでいくか、わからねえ。もしもこの俺が役に立てるのならば、民の笑顔を取り戻せるならば、俺の行く先にどれほど辛い未来が待っていようが、いっこうに構わないぜ!」


 そう。まるで迷わないのね、劉備玄徳。さすがだわ。あなたは、この先数百年にわたって分裂と戦乱に苦しめられるこの国の民を救うために降臨した真の英雄らしいわね。ならば、教えてあげる。これが、あなたの未来。そして、関羽雲長と張飛益徳を待ち受けている未来よ、と少女は「星眼」を輝かせながら、劉備のもとへと駆け寄っていた――。



「……おおっ!? こ、こいつは……お嬢ちゃん、あんたはいったい……何者だ……!?」



 劉備玄徳の「運命」は、この瞬間に、変わった。

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