余白霊

茶竹抹茶竹(さたけまさたけ)

余白霊

 その老婦人の背後には、若く美しい女性の姿が見えた。

 生気の欠けた肌の色、光が透けておぼろげになった輪郭、どこか古い意匠のワンピース。

 一目見て直ぐに分かった。

 その女性がこの世の者ではないことに。

 老婦人に取り憑いた若い女性の霊ということに。

 私は気が付かなかったフリをして目線を逸らそうとした瞬間。

 既に遅かった、その目と目が合ってしまう。

 老婦人の背後で彼女は怒りの形相をしていた。



 河本氏の自宅は私鉄沿線の駅から徒歩十五分、住宅街の一画にある二階建ての家だ。

 梅雨明けの空の下、営業資料を詰め込んだ重たい鞄とビジネススーツで歩くには少々堪える距離である。

 河本氏との約束の時間には十分ほど早かった。私は額の汗を拭い、家の外観を観察することにする。この後の打ち合わせに使うからだ。

 特に変わった様子はない木造住宅。築五十年ほどだろうか。

 年季の入ったブロック塀と汚れが染み込んで波模様が出来た外壁。

 表札の下のポストには郵便物が束になっていた。雨ざらしのチラシが色褪せている。幅約二メートルの細長い庭には空っぽの犬小屋があった。

 玄関のチャイムを鳴らす。

 老婦人が出迎えてくれた。依頼者の河本氏である。

 年齢は今年で八十五と聞いた。後ろで束ねた白髪と丸い目元からは穏和な印象を受ける。

 腰は少し曲がっているが私を先導するその足取りはしっかりとしている。畳の客間に通してもらい、ちゃぶ台に座ると河本氏の背の低さが際立つ。

 線香の残り香を感じて仏壇に目を遣る。白髪の老人の遺影があった。私の視線に気が付いて河本氏は言う。

「主人よ。一年前に亡くなったの。子供もいないから家には私だけ」

 河本氏が急須で茶を淹れている。その様子を見守る。その手元はしっかりとしていた。近所の和菓子屋のだという饅頭を添えてくれたので私はよろこんで頂戴する。

「それでね、向かいの奥さんが先月亡くなってね、遺産とかで息子さん達が揉めたらしくて。それで私も急に不安になったのよ。今死んだらきっと他の人の迷惑になるって」

 私は相槌を打つ。

「そしたら、ちょうど御宅のチラシが入ってたものだから」

 口調は穏やかだが、河本氏の声は張りがあって聞き取りやすかった。

「他のお客様も河本様と同じです。親しい方の訃報が切っ掛けで、というのが殆どですよ」

 応えながら私はバッグからパンフレットを取り出した。その表紙には「お任せ! 人生の総決算!」という文字が踊っている。

 新卒入社した葬儀社を十年目で退職した私は、生前整理を専門としたコンサル業を個人で始めた。

 生前整理とは人生最期の瞬間を迎える前に、身辺整理や遺書の作成を行う事である。遺産相続の様な大きな問題からアルバムの整理まで規模はそれぞれだが、遺族への迷惑や混乱を考えて踏み切ることが多い。

 私は個人経営であることを活かし小規模な生前整理を中心に請け負い、またそれに併せて自分史の作成と製本も請け負っていた。これは趣味でやっていた執筆業が役に立ったもので、繁忙期にはアルバイトを一人雇えるくらいには仕事は順調であった。

 河本氏もその顧客の内の一人、今日は新規の見込み客への訪問営業である。

「まずは生前整理とは何か、という点からご説明致します」

 私はパンフレットを広げながら本題に入った。今回の依頼者である河本氏と現状の把握と契約内容を詰めていくのだが、私の目には片付けの行き届いていない部屋やどこか疲れの見える表情が気になった。

 仏壇の脇には犬の首輪が置いてあった。慎重に聞き出してみれば、最近飼っていた犬を亡くしたとのことだった。外にあった空っぽの犬小屋を思い出す。

 一年前に夫と死別した河本氏にとって、愛犬は心の拠り所であったのだろう。どこか生気に欠けている原因が分かった。

「なんていうか張り合いを無くしたって言えばいいのかしら。そしたら急にね、最期の事ばかり考えるようになってしまって。せめて周りに迷惑をかけないようにしようって思ったんだけど」

 物悲しい声色に私は感傷的になってしまう。

 生前整理は死ぬための準備ではない。これからの人生を安心して過ごすためのものであると私は考えている。これが気持ちを切り替える切っ掛けになればいいと願いながら私は仕事を進める。

 河本氏に資産や血縁関係を確認する。土地と持ち家はローン返済済み。

 相続人に当たる人物はいないようで、持ち家はリースバックという手段を案内する。見る限り身体は健在であるし今の家に住み続ける方がよいだろう。

 次に家の中を見渡しながら価値のありそうな物や思い入れのある品の所在や処遇を尋ねていく。

 手元に用意したリストを埋めていきながら、私はこまめに話を聞く。この時大切なのがそれに付随する思い出を当人から引き出すことだ。

 ただ物を処分していくのは味気ない。依頼者の生気を削ぐことになる。

 もちろん買い取り業者や処分業者も紹介はするが、それで終わりではない。あくまで持ち物を整理することは切っ掛けであって、今までの人生を顧みる機会をもってもらうのが重要だと私は考えている。

 その手伝いをし、思い出を新たな形にするのが私の提供するサービスの特色だ。弁護士や整理業者と差別している点である。

 一通り貴重品のリストが埋まったので他に処遇に困っている物がないかと私は尋ねた。

 心当たりがある様子で案内されたのは隣の部屋だった。

 客間とは襖で仕切られたフローリング床の部屋は冷え切った空気をしている。

 書棚が並ぶ書斎だ。だが本よりも別の物が気になった。

 部屋の隅の方に積まれていたのはキャンバス、イーゼル、水彩画用の画材。壁には立てかけるようにして置かれた大量の絵画。机の上に積まれたスケッチブックからはデッサンの跡が覗き見える。

「絵を描かれるんですか」

 私がそう尋ねると河本氏は少し恥ずかしそうに、けれど誇らしさも感じさせる様子で頷いた。

「若い時からの趣味なの。実は賞を頂いたこともあるし、昔ちょっとだけ絵のお仕事をしていたこともあるのよ」

「拝見してもよろしいですか?」

 立てかけられた絵画を見ていると、河本氏は私の背に問いかけてくる。

「こういったものの処分できるのかしら」

「処分されてしまうのですか?」

 そう問い返しながらも、私は手元の絵画を見るのに夢中だった。

 私自身芸術に明るい訳ではないが賞を貰ったり仕事にしていたというのも頷ける。河本氏の人柄に似合う柔らかなタッチの中に確かな技量が垣間見えた。

 全て処分するにはあまりに勿体無いと感じる。それでも河本氏は力なく言う。

「もういいかな、なんて思ってしまって」

 その言葉に思わず私は振り返る。そんなこと、なんて言葉を言いたくて。

 しかし。

 私は気が付いた。

 夏にも関わらず、部屋が寒い理由に。

 河本氏の背後に、何かがいることに。

 若く美しい女性の姿が見えた。

 生気の欠けた肌の色、光が透けておぼろげになった輪郭、どこか古い意匠のワンピース。

 一目見て直ぐに分かった。

 その女性がこの世の者でないことに。河本氏に霊が憑りついているということに。

「あぁ……」

 いつの頃からか、私は霊が見える体質になった。

 葬儀社に勤めたことで多くの死に触れすぎてしまったのか、それとも母方が神職の血筋であったせいか、ともかく私には死んだ人間の姿が見える。

 病院や火葬場、墓場に暗い夜道、日中の街中であっても、ふとした瞬間に彼らはいる。

 霊が見えるようになって以来、私は葬儀社の仕事を辞めた。

 葬儀社という職場は霊を目にする機会が多すぎて、私にはとても耐えきれなかった。

 私は彼らの対処方法を知らない。

 彼らは大抵、哀し気で物憂げな表情と虚ろな目をして、ただ其処にいるだけであり、私は目を合わせず気が付かなかったフリをして、ただやり過ごす事にしていた。 

 だが、目の前の彼女は今まで見てきた霊とは違った。

 これほどまでに怒りの感情を露わにしている霊を私は初めて見た。それは今にも相手を呪い殺しそうだと思うほどで。

 私はとても目を逸らせなかった。

 いつものように無視など出来なかった。

 私は思わず口にしてしまう。

「その……、年は三十前後でワンピース姿の女性に心当たりはありませんか。長い黒髪で整った顔立ちをしていて……既に亡くなっている方です」

「何をおっしゃってるの?」

「いえ、その、河本様に憑りついている霊が見えたものですから……」

 素直に言葉にしてしまい私は下手を打ったと思った。

 生前整理を謳い、上がりこんだ老人宅で霊が憑りついているなんて言い出すのは、どう聞いたって悪徳商法の抱き合わせでしかない。

 私は慌てて頭を下げる。

「申し訳ございません。妙なことを言いました。忘れてください」

 だが、河本氏は私の謝罪など聞こえていない様子だった。

 唖然とした表情をして虚空を見上げている。

「さっちゃんなのね」



 「さっちゃん」こと山岸幸子は河本氏の昔の友人だと言う。

 河本氏が押し入れから引っ張り出してきた写真の中に、私は色褪せた彼女の姿を見つけた。当時、仙台の高校に通っていた時の入学式の写真らしい。

 スカート丈の長い制服姿で整列した女生徒達、その内の一人を河本氏は指差す。不鮮明な写真ながらも、その人物は整った顔立ちであるのが分かった。女学生の中では高い背が一際目立っている。

 私の見た霊の姿に通じる面影があった。

 並んだ生徒達の一番前の列に背の低い若かりし頃の河本氏の姿も見つけた。

「当時は高校まで進学する子は多くなかったから、みんな仲が良くてね。でもさっちゃんは特別だったわ」

 山岸幸子と河本氏はとても仲が良かったらしく、まるで妹の様に可愛がられたらしい。学内でも学外でもいつでも行動を共にする姿は本当の姉妹の様だと、周囲によく笑われた程だった。

 けれど、それも満更でもなかったと河本氏は懐かしく笑う。彼女達の姉妹の様な関係は卒業まで続いた。

「絵もよく褒めてくれてねぇ。さっちゃんがあんまり褒めるものだから、ずっと絵を描くようになったのかもしれないわね」

 河本氏が探し出してきた年季の入ったキャンバスの風景画。そこには制服姿の女生徒の後ろ姿があった。育った宮城県内の町と山岸幸子を描いたものだという。

 山岸幸子が絵のモデルになることを大層喜ぶのでよくモチーフにしていたのだと。

 そんな思い出を懐かしそうに語る河本氏に、私は慎重に切り出す。

「その、大変言い辛いのですが。彼女はとても怒っているように見えます」

「そう……。きっと駆け落ちのことね」

 寂しげな表情に私は問い返す。

「駆け落ち?」

 良家の一人娘であった山岸幸子は本人の意を汲むことなく、学生時代には嫁ぎ先が決まっていたらしい。高校卒業と同時に嫁入りする。

 それを嫌った山岸幸子は卒業前に河本氏に駆け落ちを誘ったという。

 それほどまでに彼女達の仲は親密であった。

「あの時、さっちゃんは本気だったと思うわ。結婚を嫌がっていたのは間違いないけど、でもそれ以上に。私とどこか遠い場所で暮らしたがっていたのよ、本当にね。東京に行って二人で就職して、なんなら画家になれば良いわなんて言われてたの。それでおばあちゃんになるまで一緒に暮らそうって」

 そんな話を山岸幸子は何度もしていたという。河本氏にとってはそれは只の夢物語であり、冗談だと思っていた。時代背景からして河本氏の反応は当然だっただろう。

 けれど、と河本氏は言葉を続ける。

「駆け落ちの話をされた時、それはさっちゃんにとって本気だったんだって気付いたわ」

 手元の写真を指先で撫でながら河本氏は続ける。

「でもね、私は頷けなかった。私には勇気が無かったのね」

 今より五十年以上前。

 当時の社会情勢を考えれば、それはとても難しい決断であっただろう。

 女性二人で駆け落ちして暮らしていくという決断は、今という時代であっても躊躇ってしまうだろう。

 見知らぬ土地へ逃げ、二人だけで働く難しさ。周囲の理解と援助を得ることも困難だろう。

 河本氏が頷けなかったのも当然のように思える。

 それでも、その声は自分を責めるような気落ちしたものであった。

「さっちゃんはあの日、駆け落ちしなかった私を怒っているのね」

 その後、山岸幸子は予定通り卒業と同時に婚約相手と結婚。

 河本氏は就職難のため上京した事もあり、山岸幸子とはそれ以来疎遠になった。

 年に数回の手紙のやり取りのみに留まったという。

 そして山岸幸子とその夫は、不幸にも交通事故でこの世を去った。

 享年三十であった。

「優しい旦那さんで良かったと思うわ。手紙でしか知らないけれど、幸せな生活を送っていることが文面に表れていたもの」

 私は河本氏に聞く。今も側に居るであろう霊の姿を目に入れないように俯いたまま。

「今までに何か霊的な現象を感じたことはありませんか」

「いいえ、何にも。霊が憑いているだなんて初めて言われたわ」

「例えばお祓いだとかそういう手段を……」

 本当に怪しげな商売だとかではないのです、と私が必死に付け加えると河本氏は穏やかに笑った。

「いいのよ、さっちゃんが憑りついているっていうならそれで」

「ですが、こんなにも怒っている霊は初めて見ました」

「さっちゃんの気持ちを裏切ったのは私の方だから」

 その口ぶりには自罰的な気持ちが垣間見えた気がした。

 たとえ過去に何があったとしても、今にも危害を加えてきそうな霊を放ってはおけない。憑りついた彼女を何とかしなくてはならない。

 母方は神職の家系だ。親戚に頼れる人間はいるだろうかと考えを巡らせる。

 今まで霊は沢山見てきたが対処を考えるのは初めてで、私自身どう手を打っていいものか分からなかった。

 それでも私の態度で不安にさせるわけにはいかないと、強く言い切る。

「なんとかしましょう。河本様が被害に遭う前に」

 私の言葉に河本氏は力なく首を横に振る。何故、と私は目線を上げる。

「危害も何も、もう先の短い人生ですから」

 そう語る河本氏の背後にはずっと山岸幸子の姿が見えた。

 彼女は怒りの表情を崩すことはなかった。



 山岸幸子の件は解決しなかったが、仕事の受注自体はできた。河本氏の希望する生前整理の事務手続きと廃品処理を進めると同時に、自分史の作成も請け負った。

 読ませる相手も居ないのに、と渋る河本氏であったが、これも自分を顧みる機会だと思ってと説明する私の言葉に最後には頷いた。

 自分史の作成は売上単価のためというよりも、河本氏が前向きになる切っ掛けを何としてでも作りたかったからだ。

 生への執着を無くした彼女に、怨みを抱いた霊まで憑いている。そのままにしては本当に死んでしまうと私は不安に思った。断られこそしたものの、お祓いの方法を見つけようとも思っている。

 そんなわけで私は自宅の書斎で仕事をしていた。

 亡くなった河本氏の夫は当時はまだ珍しいカメラに執心していたようで、大量の記念写真が残されている。資料用として預かってきたそれらに目を通していたが、ある事に気が付き私は独り唸る。

「これもか……」

 写真には何枚も、所謂心霊写真と呼ばれるものが混ざっていた。背景の隅の方に不自然な人影が写り込んでいる。

 それらに目を凝らしてみれば、人影の正体は全て山岸幸子の姿であった。

 写真を渡される時には何も言われていない。河本氏は心霊写真の存在に気が付いていなかったのだろう。

 だが、一度見付けてしまうと要領を得たように次々と心霊写真は見つかった。

 写真の日付から判断するに山岸幸子は亡くなった翌年から、ここ数年に至るまで心霊写真として姿を残している。やはり河本氏に憑りついているのは間違いないだろう。

 山岸幸子と河本氏の関係は只の友人という言葉で片付けられるものではなく、それは大層仲睦まじいものであったという。

 時代背景を考慮すれば女性二人で駆け落ちするという選択肢は、婚約が嫌だったからというだけで選べるものではとても無い。

「それが化けて出るほどの憎しみに裏返ってしまったのか」

 写真の中の彼女に、返ってくる筈のない言葉を私は問うた。

 次々と心霊写真を見つけて段々と感覚が麻痺してきたのか、見つけた当初よりも恐怖は薄れている。

 いや違う。

 私は気が付く。

 表情が違うのだ。

 フィルムカメラで撮影した古い写真は解像度が低く判別しづらいものの、写真の中の山岸幸子はいずれも穏やかな表情であった。昼間に見たような怒りの形相ではない。

 それ故に私の恐怖心は無意識に薄れていたのかもしれない。

 だが、何故だろうか。

 怒りの形相を浮かべていた彼女からは想像も出来ない穏やかな表情を前に私は悩む。

 辻褄が合わないのだ。

 ならば、前提が間違っているのだろうか。

 山岸幸子は若い頃に河本氏を駆け落ちに誘った。だが断られて、その後に無念の死を遂げた。

 それが彼女にとっての恨みであり憑りつく理由だと、私達は考えた。だが、写真に写り込んだ彼女の表情が、それでは似つかわしくないのだ。

 山岸幸子という霊の始まりは怒りでは無かったのではないか。恨みから憑りついたわけではなかったのではないか。

「けれど、最近になって何かが彼女の怒りに触れた……?」

 そこまで思いついて、ふと私は背中に冷や汗を感じた。寒くもないのに腕には鳥肌が立っている。身体の内側から沈み込んでいくような重たい気分になる。

 嫌な予感がした。

 この感覚を私は知っている。

 病院で、葬儀場で、火葬場で。そして夜の街の片隅で。

 彼らを目にする寸前、本能的に気が付いてしまった時の感覚。

 自宅にいる時には絶対に感じたくなかったそれに背を押されるように、私はゆっくりと顔を上げる。

 視界の隅に人影があることに気が付いて、意を決して視線を向ける。

 彼女が立っていた。

 山岸幸子だ。

 漏れかけた悲鳴を私は咄嗟に堪えた。

 死んだ人間を街中で見かけても無視できるのは、それがどこか私という生活から断絶しているように思えるからだ。自宅という聖域に彼らが現れるのは初めての経験だった。

 何故、私の部屋に。

 そんな恐怖で一杯になる。

 だが、私の脳の何処か冷静な部分が、一つの事実に気が付いた。

 彼女の表情だ。

 怒りではない。

 言葉も動きもないが、まるで何かを切実に訴えているかのように見える。

 この場所に彼女が現れたのが、怒りや怨みといった感情が理由ではないと、私はそんな予感を抱いた。

「あなたは一体何をしたいんですか……」

 そう言葉にしながら私の中で思考がまとまっていく感覚があった。

 山岸幸子は河本氏との駆け落ちを望んだ。

 それは彼女の境遇に対する反骨精神もあっただろうが、河本氏を好いていたのは間違いないだろう。

 駆け落ちを断られても、その命が途絶えても、未だその感情に変わりないとしたら。

 もし、恨みとは別の理由があって、霊となって河本氏に憑りついているのだとしたら。

 死後から五十年以上、何の影響も与えてこなかった彼女が今になって怒る理由は最近生じたものではないだろうか。

 そして、今。

 わざわざ私の前に、このタイミングで現れた意味があるとするならば。

 まさか、と思って私は電話をかけた。



 数日後。

 病院の受付で面会の手続きを終えた私は、入院中の河本氏のもとを訪れた。

 病室の隅のベッドの上で河本氏は所在なさげにしていた。

 山岸幸子が私の前に姿を現したあの夜。

 河本氏は自宅のキッチンで脳卒中によって倒れた。しかし、私からの通報で早期発見に至り軽症の内に留まった。一人暮らしの河本氏が助かったのは奇跡だったと言われた。

 一般的に脳卒中は、発症から三時間以内に初期治療を受けることが出来なければ重症化すると言われている。

 仕事の連絡をしたが応答がなく胸騒ぎがしたので、と私は救急隊に説明したものの本当は山岸幸子の存在が理由であったのは言うまでもない。

 着替えなどが入った荷物を差し入れると河本氏は何度も何度も感謝を述べた。

「礼には及びません、それよりも」

 私はもう一つの荷物の中から写真の束を取り出す。どれも山岸幸子が写り込んでいる心霊写真だ。

 それらを一枚ずつ見せながら山岸幸子の姿を指差す。

 特に表情の部分を見て欲しいと伝えると、河本氏の目は真剣なものに変わった。

 私は語る。

 山岸幸子は亡くなって以降、河本氏の写真にずっと写り込んでいること。写真の中ではその表情が穏やかなものであること。

 そして。

 確かに彼女はあの夜、私に危機を伝えに来たこと。でなければ、あまりに偶然が過ぎる。

 あくまで憶測です、と私は前置きした。

「山岸幸子は長い間、河本様に憑りついていました。しかし、今まで何の危害もなかったわけです」

「えぇ」

「だとすれば、彼女は何も恨んでいない。そう考える方が自然ではないでしょうか」

 どんな霊も何も言ってはくれない。彼らは私と言葉を交わす術を持たない。

 だからこれは憶測でしかない。

 それでも、写真の中の山岸幸子はただ見守っているだけのように見える。いつも隅の方に写り込むその姿に、私はネガティブな感情を見出せなかった。その穏やかな表情に悪意があるとは思えなかった。

 若くしてこの世を去った彼女は、心配だっただけなのではないか。

 好いていた河本氏の行く末が見れないこと、それが心残りだったのではないか。

 そう考えてしまう。

 私からの説明を聞いて呆けた顔をしていた河本氏は、何かに気が付いた様子で私に問い返す。 

「でも今のさっちゃんは怒っているんでしょう?」

 そう。

 だからこそ、何か転機があった筈なのだ。今になって山岸幸子が怒る理由が生まれた。

 そしてそれは、生前の恨みや妬みなどではないと私は考える。

 彼女があの夜、私の元に現れたのは河本氏の危機を伝える為だった。でなければ辻褄が合わない。

 彼女は怒ってはいても、河本氏の死や苦しみを望んでいるわけではない。

 むしろ、その逆ではないだろうか。

「河本様が何もかも、それこそ生きることさえも諦めている。それに対して彼女は怒っているのだと私は思います」

「え?」

 高齢になって夫と愛犬を亡くし、生きる気力を無くしてしまった。好きだった絵すら捨てて、まるで死の準備を始めたかのようであった。

 それは生前整理に対する私の理念とは違うものであり、そして。

 山岸幸子が激怒した理由そのものだったのではないか。

 私は持ってきたビジネスバッグの口を開く。

 中から新品のスケッチブックとデッサン用鉛筆のセットを取り出し河本氏に手渡した。

「絵を描くことも、生きることも、まだ諦めないでください。それが彼女の願いだと思います」

 私の言葉に河本氏は暫し黙り込んだ。迷っている様子が見えた。

 ためらいがちにその手を伸ばしたが、それでも最後には確かな意志で私の差し出したスケッチブックを受け取ってくれた。

「そうね。しゃんとしてないと、さっちゃんに怒られちゃうものね」

 初めて見る、河本氏の気力に満ちた笑顔だった。

 河本氏の生前整理はまだ時間がかかりそうだ。処分を頼まれていた物品のリストを見直す必要があるだろう。

 自分史の方も余白のページを用意しておく必要がありそうだ。

 これから書き込むことがまだ増えていくに違いないのだから。

 用事を済ませた私は退出することにする。

「今日はこれで失礼します。退院される頃に、また改めてご連絡致しますので」

「本当にありがとうね」

 その表情は明るく、私は満足だった。

 病室を出る間際に振り返ると河本氏は早速ベッドの上でスケッチブックを開いていた。

 その背後には山岸幸子の姿が見える。

 彼女の表情はとても穏やかなものであった。

【完】

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