異界人の嫁

ことは りこ

『馴れ初め・1』ある日突然、異世界に……。




「おはよう、遥花はるかさん。今朝は久しぶりに良い天気だよ」




 朝、私が身支度を整えて部屋を出て階段を下りると、彼はいつもリビングで紅茶を飲んでいる。



 朝食の前、彼がいつも飲むのはミルクティー。



 芳醇な香りに朝から気分が癒される。




「……おはようございます」




「ねぇ遥花さん。今朝の朝食はこちらに運ばせようと思うのだけど、いいかな? 朝の光がとても心地良くてね」




 彼は目元に微笑みを浮かべながら私に訊いた。




「はい、別に構いませんけど。……ああ、ほんと、今朝は空が綺麗ですね」




 窓の外に見える晴れ渡った青空。



 所々に浮かぶ白い雲はふわもこで、なんだかシルエットがまん丸ヒツジみたいで可愛い。



 でもここから見える景色は空だけではない。



 中庭には溢れる緑と薄紅色の美しい薔薇が咲き誇り、白や黄色の小さな花が、眩い光の中で優しい風に吹かれて揺れている。


 

 まるでそこは一枚の絵葉書のような風景。


 イングリッシュガーデンそのものだ。



 二階にある私の部屋の窓から見える風景とは全く違う世界が広がっているのに。私はもう馴染んでいる。



 ……慣れって怖いな。



 この屋敷も、イギリスの片田舎に建つような風情のある洋館みたいで。



 それなのに二階には〈日本〉という国で私が暮らすアパートの一室がある。




 ───「空間通路を繋げたから」




 彼にそう言われて。



 あれから……そろそろ二週間が経つ。



 ♢♢♢



 二週間前。


 その日の夜、私の住む街を『最大台風』と呼ばれるものが襲った。



 そんなせいで、仕事もいつもより早く終わり帰宅することができた。



 避難勧告はまだなかったが、もしかしたら停電とかあるかもと思いつつ、いつもなら時間をかけて浸かる大好きなお風呂も、今夜は早々に上がることにした。



 下着姿になったとき、脱衣場の電気がピカピカと怪しく光った。




 ……うわ⁉


 やっぱり停電くる⁉



 遠くで落雷のような音も聴こえたような……。




 お風呂あがりはいつもしばらく下着姿のままでいるのだが、なんとなく不安になり、部屋着に手を伸ばしかけたそのとき、





 ───バシバシッ!



 ───ガッシャン!



 ───シャーンッ シャラン!シャーンッ‼



 楽器のシンバルやら鈴やらが大音響で鳴り響く音がした。




 なッ?─── な な な、なに⁉




 同時に足元に振動!



 やだ!地震っ⁉




 一瞬で辺りが真っ暗になったかと思うと、次に強い光が辺りに溢れた。




 それはもう、目を開けていられないほど強くキツイ光で。




 シンバルと鈴の音が、絶えず同時に響いていた。



 頭の中がクラクラするほど。



 目の前はチカチカして……。



 くらくら チカチカ ガシャガシャ と。



 そして迫る、闇……。



 あ……熱い……⁉



 ……逃げなきゃ、ダメだ。




 なんか嫌な予感がする。




 必死に身体を動かそうとするのに出来なくて。



 私の意識は遠退いた。




 そして次に目を覚ましたとき、私は何故か見覚えのない部屋で寝ていて。



 ベッドの傍で椅子に腰掛け、じっとこちらを見ていた〈彼〉と目が合った。



 最初は〈彼〉……なのかどうかもよく判らなかった。



 だってそれは。



 私の中でそれは『架空の生き物』なのだと決まっていたから。



 頭と首と広い肩幅に腕もあり、足もある。


 頑丈そうな身体つきだ。



 服装は黒と灰色を基調にしたスーツなのだけど、どこか一昔前の英国紳士風。



 でも問題は顔と髪色。



 人間の風貌に近くても、そこだけは異様だった。



 大理石のように白い肌。


 髪はふわりと紺色。



 光の加減で水色にもなる。



 眼は紫で猫みたい……いや、豹かな。



 真ん中の鼻は少し尖っているようにも思うけど、鼻筋が通っているとも言う。でも鼻の下から顎まで、朱色の布で隠されていて。これが異様だ。



 時折、窓から入る風に、その布がひらひらと揺れる。



 マスクのようにしっかりと固定されてはいないのだが。



 でもなぜ隠してるんだろ。風邪ひいてる? ウィルス対策?



 それとも……口が裂けてるとか。



 まさか……いや、ありえる。



 だって耳も人間と同じではなくて、耳があるはずの場所に羊の角みたいなのがあるくらいだもの。



 白い角。



〈ヒツジ属〉のドーセット・ホーンがもつような、うずまき状の白い角。



 あれが耳なんだろうか。



 頭に角があるなんて。じゃあ身体はどうなってるのだろう……と、私はこのとき、これは絶対夢なのだと思っていたので、妙に冷静にそう考えていた。



「良かった、気がついて。気分はどうです?」



〈彼〉が日本語を喋った。



 以外と優しくとても良い声だった。



「えっと……あの、」



 おかしいな、と私は思った。



 頭はやけにスッキリしている。



 爽やかな柑橘系の香りが部屋に漂っていて、睡魔を遠ざけたようだ。



 これは明け方の夢なんだろうか。



 それならそろそろ目覚めてもいいのに。



 仕事に遅刻しないうちに、目を覚まさないと。



「まだ熱があるのでは? 失礼……」



 彼が私のおでこに手を伸ばしてきた。



 その手はやけに白いけど、人間の手だった。



 大きくて、わりと綺麗な手。



 そっと私の額に乗せる。



 ……冷んやりとしていた。



「熱は下がったようですが……。顔色があまりよくないですね。もう少し寝ていることをオススメします」



 私、熱なんかあった?



「でもあの……」



 寝ている場合ではないのだ。



 身体を動かせば目覚められるかも。



 私は起き上がり、そして自分が下着姿であることに慌てた。




「───ッ!」



 思わず毛布を抱きしめた。



 私……なんでこんな格好……。



 頭の中を記憶が巡る。



 お風呂から出て……。電気がチカチカして。



 そう、台風がきてて。



 停電、して……?



 違う。



 これは夢……



 夢……?



 見知らぬ部屋。



 木目調のベッドや家具。



 山小屋風ペンションみたいな部屋。



 私は〈彼〉の向こうに見える窓に目をやった。



 窓の向こうは、私が暮らしていたはずの街では望めない風景が広がっていた。



 ───森 ⁉



「あの、ここ何処ですか」



「ここ? ここはね……う~ん、そうだな、なんて言ったらいいんだろ。トコリネハルウドとスカナストマールの狭間なんだけど」



 ……いや、だからあの!


 全然わかんない!



「君の暮らしていた世界ではないな」



「……い、異世界ってことですか⁉」



「そうとも言うかな。君の暮らす場所も僕側から見れば異世界だしね。まあ、とりあえずここは僕の屋敷だよ。君の名前、聞いていいかな」



 私はもう一度〈彼〉をみつめた。



 紫色をしたアーモンド型の眼はどう見ても猫のものなのに。───それなのに。



 どうして私、怖いと思わないんだろう。



 ……まあ、ホラーや異世界ファンタジーな物語は好きで読むけど。


 ……彼の瞳が優しげだからかな。


 それにとても美しいのだ。


 紫の中に時折見える薄青い光。


 領巾で覆われた顔なのに、不思議と怖くなかった。



「遥花、です」



「ハルカ……。僕はレオ。レオ・サライドエトリュスだ。よろしくね!」



 よ……


 よろしくね!って言われても。



「あの私、どうしてここに居るんでしょう」



「ああ、実はそれ僕のせいでもあるんだ。ちょっと魔法の実験に失敗しちゃって………。それで事故が起きてね。君を巻き込んでしまったようなんだ。申し訳ない」



 彼は頭を下げた。



「いろいろと元に戻すのに少し時間が必要だから。……その、時間を貰えるとありがたいんだが……」



 こう言って、彼はスッと立ち上がった。



 途端に部屋の中が少し薄暗くなった。



 彼の大きな身体が部屋に差し込む光を遮ったせいで。



 暗がりで見る彼の姿は、やはり妙な迫力があり、私はおもわず身を縮ませた。



 魔法の実験……。事故? 巻き込まれたって……そういうの〈異世界転移〉とかいうやつ⁉



 でもどうして日本語?



「あの、なぜ言葉が……会話してるって……」



 いったい何がどうなって───いや、やっぱりこれ夢よ!夢。そうに決まってる。



「君の第一声で発動する『言語の魔法』をかけたから」



「ま……ほ、ぉ?」



「うん。それから空間通路を繋げておいたからね。とりあえず、君の住んでいた場所とこことを。……ほら、そこに緑のドアがあるでしょ、そこから君が暮らしていた場所へ戻れる。でも気をつけて、まだ不安定なんだ」



「ふあんてい……」



「扉の開け閉めはそっとね。あと、くれぐも無理はしないでくれ。ほんとは一緒にいてあげたいんだけど、今日は僕も仕事があってね」



 仕事⁉


 そんな出で立ちで一体どんな?



「忙しいんだ。明日の朝、また顔を出すけどいいかな、遥花さん」



「はぁ……」



 気が動転していて、なんだか間抜けな返事をしてしまった私に、彼はふっと眼を細めて背を向けると、奥の扉から出て行った。



 ───パタンと。



 扉が閉まってすぐに私はベッドから下りた。



 急に動いて頭がくらりとしたけれど、彼の言った緑のドアの前に立った。



 ドアノブに手を乗せる。



 ここを開けたら帰れるの?



 本当に?



 きっと夢から覚めるよね……?



 早く終わってほしい、こんな夢。



 私はノブを握り、ゆっくりと回して扉を開けた。



 扉を開けたその先には、見慣れた私の部屋があった。



 二年前、二十二歳で田舎から上京して借りた安くて古いアパートだけど、使い勝手がよくて気に入ってる1DKの一室。



 私はすぐさま部屋へ入り、ドアを閉めた。



 ───のだが。



 閉じても緑の扉は消えない。



 ここは確か壁だったはず。


 ベッドと本棚の間の壁が、いつの間にかドアになっていた。



 私は恐る恐るもう一度、緑のドアを開けてみた。




 ───カチャリ。



 開けた向こう側はやはりあの部屋。



 私がさっきまで寝ていた木目調のベッドや家具、カントリー風のお部屋があった。




 ───パタン。



 私は扉を閉めた。



 消えない扉。



 消えない!


 これ夢じゃないの⁉───と、とにかく落ち着くんだ遥花!



 机の時計に目をやると七時を少し過ぎたところ。



 部屋は薄明るい。



 カーテンを開けると窓の外はいつもの風景。



 駅前商店街が見渡せる。



 テレビをつけるといつも見ている朝の情報番組。



 画面には昨夜の台風被害情報が映し出されていた。



 ………あれから、一夜明けたのか。



 私はスウェットの上下に着替えて寝室を出た。



 部屋の中は特に変わった様子はない。



 お風呂場には昨日の着替えがそのまま放り出してあった。



 あのとき、地震も感じた気がしたけど。



 テレビのニュースで地震の情報は一つも得られなかった。



 判ったことといえば、台風による被害はそれほどなかったということくらい。



 台風一過、今日はこれから晴れるということ。



 そして私はもう目覚めていて。



 緑の扉も、レオのことも全部夢ではなかったということ……。



 これが二週間前、私の身の上に起きた出来事だった。




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