美桜と習い事(その3) 2016/11/9(Wed)
子供向けの個人ピアノ教室をしている私に九月から新しい教え子ができた。
毎週水曜日の放課後、三時間だけの教え子。
「こんにちは、先生。今日もよろしくお願いします」
香坂美桜ちゃんは初めて会った時から礼儀正しく真面目ないい子だった。
小学五年生からピアノを始めるのはかなり遅いほう。
だから、年齢のせいもあるとは思う。
けれど、高学年だというのを考えてもなお彼女は落ち着いていて根気強かった。
ピアノの練習は地味な単純作業。
ドレスを着てみんなの前に立つなんて発表会の時だけ。
イメージとのギャップに負けてしまったり、成長に行き詰まりを感じて止めてしまう子も多い。
美桜ちゃんにはそういうところがなくて、
「今のところ、もう一度やってみましょうか」
「はい」
「三小節目の入りが少し早いからゆっくりにしてみて」
「はい」
教えたことを素直に聞いて実践してくれる。
単に受け身な子なのかと思ったらそういうこともなくて、
「先生。ここなんですけど、指がうまく動かなくて……。なにかコツはありますか?」
わからないところは自分から質問してくれる。
集中力もすごい。レッスン中、足をぶらぶらさせたり景色に目移りしてしまう子も多いのに、美桜ちゃんは背筋を伸ばして真っすぐに譜面と鍵盤を見ている。
できないところは何度でも繰り返すし、家でもきちんと練習しているのが弾き方から伝わってくる。
進度はかなり速いと言っていい。
集中することで達成が早まり、どんどん上達するので意欲も高まる。絵にかいたような好循環。
「美桜ちゃんには才能があるのかもね」
だからつい、私はそんなことを言ってしまった。
才能があるなんて軽々しく言うべきじゃない。
だって、
「本当ですか? わたし、どのくらい才能ありますか?」
必要以上に喜ばせてしまうから。
真面目な美桜ちゃんもこの時ばかりは雑談に乗ってきた。当然だ。だって先生である私のほうから話を振ったんだから。
きらきらした目で私を見上げる彼女はとても愛らしい。
少しだけれど北欧の血が入っているという彼女は色白で、顔立ちもとても整っている。お姉さんはモデル、本人も読者モデルをしていて今、密かに注目を集めているらしい。
少し前に彼女が載っている雑誌も読んでみた。
他の読者モデルと並んでも遜色ない、それどころか特に目立っているようにも見えた。
選ばれた子。
きっとこの子には本当に才能があるんだろう。
ピアノの才能、かどうかはわからない。けれどそのうちなにかしらの形で今よりももっと成功する。
それが本当に羨ましくて、妬ましくて、私はつい意地悪を言ってしまった。
「そうね。発表会でいいところまで行けるかもね」
先生なんてしているけれど、私には大したピアノの才能はない。
小さい頃からピアノは好きだった。新しい曲が弾けるようになるのは楽しかったし、発表会はいつもドキドキした。
ピアノを将来も弾いていけたらと思ったし、実際に挑戦もした。
でも、駄目だった。
ピアノ教室なんて開いているのは奏者として食べていけるほどの実力がないから。子供の扱いはそれなりに上手かったので、生活費の足しになればとやっているだけ。
本当に才能のある子なら何年か──高校生くらいまで続けるだけで私より上手くなるだろう。
でも、美桜ちゃんの才能はプロレベルじゃない。
発表会やコンクールなんて上手い子なら上位に食い込んで当たり前だ。むしろ小規模の場でトップ争いができないようじゃ大した才能じゃない。
私は、こんな小さな子に心の底から嫉妬して嫌味を言ったのだ。
「発表会に出てみたい、美桜ちゃん?」
◆ ◆ ◆
週一のピアノレッスンは僕の楽しみになった。
自主練のせいで忙しいのは困りものだけど、音楽に触れるのは僕の、というか美桜の性に合っているらしい。
ピアノを弾いているとついつい時間を忘れて熱中してしまう。先生も優しく教えてくれるのでレッスンの時間はとても幸せだ。
そんなある日、先生が僕に「才能がある」と言った。
「本当ですか? わたし、どのくらい才能ありますか?」
ちょっと調子に乗って尋ねると返ってきたのは、
「そうね。発表会でいいところまで行けるかもね」
それってすごいんだろうか?
高校の部活に例えると「四校合同くらいのミニトーナメントで準優勝できるくらい」って言われた気がする。
不思議に思いつつも、僕は「発表会に出てみたい?」という先生の質問に答えた。
「発表会とかコンクールにはそんなに興味がないんです」
「……どうして?」
目を丸くする先生。生意気なことを言ってしまったかもしれない。和ませようと笑顔を浮かべて、
「わたしは演奏するのが好きなだけなので。みんなの前で演奏できるのは憧れますけど、人と比べられなくてもいいかなって」
「上手くなりたいなら人と競い合ったほうがいいんじゃない?」
「そうですね。プロを目指すならそうしたほうがいいですよね」
でも、実際はそんなに甘くないはず。
どんな世界だって目指している人はたくさんいて、成功する人は一握り。そして僕にはたぶん、上に行けるほどのピアノの才能はないんだ。
◆ ◆ ◆
発表会に興味がない。
ピアノを弾けさえすればいい。そう笑顔で言い切る美桜ちゃんを見て、私の心の中に黒い感情が湧き上がってきた。
私にはピアノしかないのに。
可愛くて読者モデルなんかやってるからって、私が好きなピアノを雑に扱わないで。
──そんな私の想いは、美桜ちゃんの次の言葉に打ち砕かれた。
「わたし、歌うのも好きなんです」
「……え?」
呆然とする私に実際に歌ってみせてくれる。
きらきら星。
指を動かしながらだと注意力が散漫になるのかあまり上手いとは言えなかったけど、楽しんで歌っているのはすごく伝わってきた。
弾き終え、歌い終えた美桜ちゃんは照れ笑いを浮かべながら、
「好きなことに繋がる仕事を目指せたらな、って思うんですけど、まだ具体的には決まってなくて。でも、決まったらできる限り頑張ってみたいです」
ああ。
この子は本当に聡明で、まっすぐで、純粋な子なんだ。
本当に好きでやっているんだ。
わかったら涙が溢れてきた。
子供らしい純粋さ。そんな想いを相手に嫉妬して意地悪を言っていたなんて、私はなんて心が狭かったんだろう。
「ごめんなさい」
小さな身体を抱きしめて謝ると、美桜ちゃんは「先生?」と不思議そうな声を出した。
「あの、いったいどうしたんですか?」
「ううん、なんでもないの。なんでも」
泣いたら少しすっきりした。
涙を拭った私は美桜ちゃんにあらためて謝ってからこう尋ねた。
「じゃあ、これからの課題も歌詞のある曲の方がいい?」
「はい。その方が嬉しいです」
にっこりと、笑顔と共に明るい返事。
変なわだかまりを捨てた上で向かいあうとまるで天使のようだ。
もう一回抱きしめたいという衝動にかられつつも「わかった」と答えてレッスンを再開。
これからは心を入れ換えてもっとしっかり向き合ってあげたい。
でも、私じゃこの子を教えるのにはちょっと力不足かもしれない。
もともと小学生向けのピアノ教室だ。
「美桜ちゃん。もしピアノを続けるなら、遅くても中学生になるまでには新しい先生を見つけてね?」
忘れないうちにと伝えると、美桜ちゃんは悲しそうに目を細めて「わかりました」と頷いた。
「先生にもっと教えて欲しいんですけど……。我が儘言ったらだめですよね?」
上目遣いの破壊力は子供のいない私の保護欲をこれでもかと刺激した。
本当に、この子はとんでもない子だと思う。
嫉妬していたはずの私をファンにして、それから何年も応援し続けるまでに変えてしまったんだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます