紙と思い込み

彩霞

第1話 印刷室

 日差しは暖かいが、まだ冬の寒さが残る三月の下旬。

 その日、ひがし中学校の理科教師をしている深山みやまあきらは、新人教諭に声を掛けられていた。


「深山先生」

「はい」


 自分の席に座っていた深山は、キャスターの椅子ごと振り返る。そこには今年大学を卒業したばかりで、新一年生の担任を持たされることになった古谷俊ふるたにしゅんが、B4サイズのプリントを一枚手にして立っていた。

 一週間前に教頭が彼を紹介してくれたときは、「明るい青年」という印象だったが、その間に何があったのか、どこかしょぼくれた雰囲気がある。


「すみません、吉岡先生に印刷してきてほしいといわれたのですが、印刷室が分からなくて……。教えていただけませんか?」

「分かりました。案内しますよ」


 深山は立ち上がると、さりげなく彼の肩越しに吉岡を見た。他の教諭と何やら話し込んでいる。ベテランとはいえ、一年生の学年主任を担うことになった彼も、入学式と新年度の準備で忙しそうだ。本来ならば、この新人の面倒を見てやりたいところだが難しいのだろう。

 吉岡に放置された古谷。その彼が深山に声を掛けたのは、忙しそうに見えなかったからだろう。だが「忙しそうに見えなかった」というのは、ただそう見えるだけであって、新学期の準備に追われているのは同じなのだが。


(教員の苦労が減るのはいつになるのやら……)


 そんな風に思いながら、吉岡に向けていた視線を古谷に向けた。


「じゃあ、行きましょうか」

「はい」


 深山は職員室の壁にかけてある「印刷室」という名札が付いた鍵を取ると、古谷とともに一階へ降りる。生徒がいないので、二人の足音がはっきりと廊下に響いた。


「印刷室って、一階なんですね」

「そうです。でも、職員室と一緒になっているところの方が多いとは思いますよ」

「近い方が便利ですもんね。もしかして、テスト期間は大変なんじゃ……」

「まあ、いつもよりかは職員室との往復はしないといけなくはなりますが、慣れればそうでもないです」


 二階に職員室があるのに、何故印刷室が一階にあるのかは、深山にもはっきりとしたことは分からない。しかし古株の先生の話によると、どうやら紙を搬入する業者に配慮してのことのようだった。

 築五十年を越えているということもあるが、東中学校にはエレベーターがない。そのため、重くて量も多い紙を職員室のある二階まで持って行くのは大変だろうと、一階の昇降口前に設けたそうだ。

 深山は印刷室の前に来ると、鍵を開けてドアを開ける。すると、インクと紙の独特な香りが鼻を付いた。


「ここが印刷室……」


 深山の後に続いて中に入った古谷が、きょろきょろと周囲を見渡し呟く。

 窓は一つもなく、八畳ほどの部屋に輪転機と複合機、そして学校の机の上に、閉じられたノートパソコンが一台置いてある。また、壁には棚が備え付けられているが、学年ごとに仕切られていて、真っ白い紙よりも、くすんだ色をした再生紙が多く入っていた。


「印刷したいのは、そのプリントですか?」


 深山は古谷が持っていた紙を指さす。


「あ、はい。そうです。それからもう一つ、USBメモリーに入っているものを印刷してほしいと言われました」


 彼は右の手のひらを開いて、シルバーのUSBメモリーを深山に見せた。


「そうですか。枚数は? それとカラーのものはありますか? 紙は再生紙で良いです?」

「紙の方は、先生たちだけで使うので五枚でいいと言われました。メモリーに入っているものは生徒に配るものだそうなので、五十枚印刷したいです。カラーのものはありません」


 深山はそれを聞いて「なるほど」と思った。

 教師だけの印刷をするなら、職員室にも一台複合機があるのでそれを利用すればいい。しかし、吉岡が古谷に「五枚」の印刷と「五十枚」の印刷を頼んだのは、ついでに印刷室の場所を知って覚えてもらうためだろう。深山は、間接的に吉岡からその役を任されたというわけだ。


「では、ノートパソコンを立ち上げて、複合機の電源も入れましょう」


 そう言って、深山はノートパソコンと複合機のスイッチの場所を教えながら、それぞれ起動させる。起動が終わったら、ノートパソコンにメモリーを差し込み、印刷するものを開いて、まず一枚だけ印刷を掛けた。


「大量の紙を印刷するときは、最初に一枚だけ試しに印刷をしてください」

「何でですか?」

「失敗を多く出さないためです。学校なので紙はあることにはあるのですが、これも税金で買われているものなので無駄遣いをできるだけしないように気を付けているんです。まあ、それは企業でも同じことかもしれませんが」


 深山は出てきた印刷物を手に取った。出てきたばかりなので温かい。それを古谷に見せた。


「どうですか? イメージ通りの印刷になっていますか?」

「余白が下部に多いみたいです。吉岡先生には修正していいと言われたので、ここでやっても構いませんか?」

「ええ、どうぞ」


 古谷はパソコンを弄って修正をすると、もう一度試しに印刷をする。すると次のものは上手くいったようだった。


「いいみたいです」

「では、それを五十枚印刷してください。紙は再生紙の設定になっているので、そのままで大丈夫ですよ」

「分かりました」


 古谷は頷き、パソコンをいじって複合機に指示を出すと、ガチャン、ガチャンとうるさい音を立てながら、印刷をし始める。


「それから五枚の印刷は、二階の職員室で行いましょう。あそこは先生たちが使うものは印刷していいんです」

「そうなんですか?」


 深山は頷く。


「さすがに、数枚印刷のためにここまで往復していたら大変じゃないですか」

「そうですよね……」


 そのうちに五十枚の印刷が終わる。深山は複合機のはき出し口から印刷されたものを手に取ると、古谷に渡した。


「じゃあ、戻りましょうか」


 と言って背を向けた深山を、古谷は引き留めた。


「あの、深山先生……ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど、いいですか?」


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