第2話 人生が変わった夏

「えっ、家庭教師?」

 実家から電話がかかってきた。

 だが、明日香は考える。


 時給千円。夏休み、みっちり。生徒はミジンコ。

 ―― パスね。


 だけど…… おじさんの娘……

 中学生なら、まだ『馬の鼻先に人参をぶら下げる』でいけるのでは?


「私はもうバイトが決まっているけれど、代わりの人を行かせるから」

 明日香があたりをつけたのは、優秀だが人付き合いが下手で、客商売では首になるのが得意な、人野 芳雄ひとの よしお

「この前もバイトを首になったって言っていたし、丁度良いでしょ」

 そうして、住み込みの、缶詰バイトは彼に投げられた。


 だが、行った瞬間。

「えっ。男? 明日香ちゃんは?」

「なんか、時給安いし、面倒って。あっ、すみません。内緒って言われていましたので、言わないでください」

 早速ぼろを出す。


「安いかしら?」

「安いですね。僕は丁度、前職を首になって、手が空いていたので受けましたが、普通受けないでしょう」

「そっ、そう……」


 渋々で、家に迎える。部屋に案内をしてしばし呆然とするお母さん。

 親戚の女の子だと思っていたので、かなり焦っていた。


 その晩は、少しだけごちそうを作り持てなす。

 その場で雫と引きあわせて、自己紹介。


 雫にとって、歳上の異性。

 それも、これから自分の恥ずかしいところを、すべてさらけ出さねばいけない相手……

 それだけで、思春期のパトスが少し暴走をする。


 大学生の、男の人。

 ひょっとすると、運命の人……


 そんなことを考える。

 気にしながらよく見れば、真ん中よりちょっと右で分けられた髪の毛は後ろで束ねて、少し細い顎の線と、切れ長の目。

 イメージは某テニス漫画で、部長をしていたクールなキャラに近い。


 ご飯を食べる姿も、どことなくお上品。


 茶碗を持ち、満遍なくおかずを食べる。 

 好き嫌いは無さそう。

 雫は特に、くちゃくちゃと口を開け、音を立てながら咀嚼するのは嫌いだった。

 それがないだけで、評価が高くなる。


 お見合いのような夕食は終わり、雫はすべてを見せることになる。

「先ずはレベルを見よう。教科書は?」

 出された教科書は、新品同様。

 綴じ部分に、くせすらついていない。

 つい、芳雄の右の眉が、ピクッと反応をする。


「判らないところは?」

「さあ?」

「だろうな……」

 部屋の本棚に、過去分の教科書が並んでいた。


「小学校の、三年生までは使っていた形跡がある。ここからか……」

 主要科目を抜き出すと、雫の目の前に置く。

「何処までなら分かる?」

 じっと座り、ニコニコしている雫。


「どうした?」

「あの…… 普段、お風呂に入っている時間なので、行ってきて良いでしょうか?」

「―― まあいいだろう」

 その時の動きは速かった。


 そして、短パンにタンクトップを着て、アイスを咥えた雫が戻ってくるまで、ゆうに一時間以上。


 部屋なので、ブラもしていない。目線や表情に期待していたが、特に反応はない。

 そして、冷静に自身に向かって、押し出される教科書。


 仕方ないので、ペラペラ捲るが、ほとんど覚えていない。

「覚えていません」

 とうとう開き直る。

 その瞬間、女の子の部屋とは思えない、殺風景な部屋の中に一瞬だけだが、妙な緊張感が漂う。


「そうか……」

それだけ言うと、芳雄は部屋からふらっと出ていき、その晩戻ってくることはなかった。


 芳雄は、ノートパソコンを使い、四則演算から問題を作り始める。頻出漢字を一千ほど選択。

 これを、一日の反復用に出力をする。


 朝、食事の後。

 逃げようとする、雫を机に座らせ、ネット上に落ちていた人生体験談。締めくくりに、もっと勉強をすれば良かったと書かれている体験談を、泣くまで読ませた。


「いま、若いうちに楽をすると、それ以降の長い時間を泣きながら暮らすことになる。良いのかそれで?」

「嫌です」

「じゃあ、今まで手を抜いていた分を取り戻せ。自分の人生を取り戻せ。お前ならできる…… かもしれない……」


 荒療治だが、まあここまですれば、後は簡単だった。

 真面目に、四則演算からやり始めた。


 芳雄から見せられた資料。それは、中学校の三年生である雫にとっては、超過激な物でえげつない物だった。

 その辺りの判断について、芳雄は疎かった。完全に十八禁。それもかなりハードなもの。肉体的にも精神的にもかなり辛い体験談。

 契約証をろくに読まずサインをして、地獄に落とされた主婦の話。

 大学生の友人に、無理矢理契約させられた教材費。適当に言われて、その通りしたら連鎖販売取引のルールからはみ出し逮捕。

 商品を売るために、売春までやっていた。


 まあ多種多様な、失敗談。読んでいる雫が、幾度か戻しそうになるような内容。


 きっと親に見られれば、大騒ぎとなっただろう。

 もう、ハラスメントがてんこ盛り。


 ただ、騙され。お金がなくて身を持ち崩した体験談は、雫の心に深く突き刺さったのは間違いない。


 だがそれは、別の欲望も刺激をした。

 心と、体のうずき。

 文字だった光景を、映像として浮かべる。

 誰とでもは嫌だけど、好きな人となら…… どんな感じなんだろう?


 それから、芳雄に叱られて落ち込み、ほめられてを繰り返し、雫の心が調教をされて行った。


 それに従い、スキンシップや芳雄の対しての露出が増え、見せてドキドキ。見られるとドキドキする。

 ドキドキと、褒められたときの快感。


 そう…… 丁度多感な少女は、女としての心を獲得し、芳雄に対して、傾倒していった。

 その力は偉大で、夏休み中に何とか、全教科が中学校三年まで追いつくという快挙を見せる。


「よし、良いだろう」

 頭をなでられ、ぞくぞくとした何かを感じながら微笑む雫。

 だが、時は残酷で、夏休みが終わる。

「頑張れよ」

 そう言って、微笑む芳雄先生…… 抱きつきたくなるが、我慢をする。


 ここから、冬休みまでの放置プレイを感じながら、努力を続ける。

 今度来たときに、テストを見せて…… 『よくやったね雫。キスをしてあげよう』とか…… ご褒美を。そして合格をして、もう一歩関係を進めて…… うふっ。うふっ。ふふふふ。


 ドーピングともいえる凶悪な勉強法により、学校の先生がテスト結果を見て、倒れることになる。

 当然先生は、受験のメンバーを見直す羽目になるが、ずっと成績の低かった雫はそれだけで、リスクがある。

 頭を悩ませる先生……


 爆上がりしたテストを大事に抱え、冬休みに先生に見せようと思っていたが、父親のボーナスの減少により、期待は泡沫の夢うたかたのゆめと消えた……


泡沫夢幻ほうまつ-むげんこれも覚えておけ。人生は、はかないという、たとえだ。泡沫は水のあわそして、夢まぼろしを組み合わせ都合の良いことなど起こりはしないという意味だ。お前に必要なのは夢ではない。実力だ。いま、空っぽな頭には幾らでも入るだろう。さあ、無理矢理でも詰め込め…… なぜできない。尻を出せぇ」

 鬼の形相で叱り、その後は、必要最小限でしか言葉をかけてくれない。

 目も合わせない…… つらい。


 でも……

「―― よくできた。お前は良い子だ。やればできる」

 そう言って、優しく肩を抱きながら、頭を優しくなでられる…… 


 ああ、幸せ……


 寝込んでしまったときも、優しく毛布を掛けて、聞こえているとは思っていないだろうけれど、先生は優しく言ってくれた。

「辛いだろうが、自分のためだ。頑張りなさい」


 おもわず、顔がにやついてしまう。

 ですが先生。この時期、毛布は暑いです……

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