1-10 『自由』
ベイカー男爵が呪われているかもしれない。
私が聖女の血筋かもしれない。
ウィリアム様は、私が見た黒い靄の話を聞いて、そのような仮説を立てた。
「ミア。決して、誰にも、このことを言ってはならないよ。約束できる?」
「はい、もちろんですわ」
私が聖女の血筋だと知れたら、教会に連れて行かれてしまうかもしれない。
連れて行かれたところで、今まで魔法の訓練なんてまったくしてこなかった私が、聖女の扱う聖魔法を使いこなせるとは到底思えないが。
だがそれでも、一度聖女として登録されてしまったら、自由に外に出ることも、ままならなくなる。
それに――
「私、血を見るのが怖いのです。聖女として務まるとは思えません」
ルゥ君の件があってから、私には怖いものがたくさん増えた。
怪我。血液。裂けた衣服。
魔獣。野生動物や獣の遠吠え、唸り声。
濁流。川。叩きつけるような水音。
今でも、水辺に行くと震えが止まらなくなるし、小さな切り傷でも、見るとぞわぞわ悪寒が走る。
聖女にとって一番重要な務め、それは怪我人の治療だ。教会に連れて行かれてしまったら、毎日毎日、傷を眺めることになってしまう。
――考えるだけで吐き気がしてくる。
「君を教会になんてくれてやるものか。ミアは、私の妻になるんだから」
ウィリアム様は、甘く微笑んでそんなことをのたまう。
――彼が私に何を求めて優しくしてくれるのかは不明だ。少し前までの氷のような対応から一転、にこやかに私の顔を眺めている彼の心中など、はかりようもない。
けれど、教会に閉じ込められるぐらいなら、腹の中に何かを抱えていたとしても、ウィリアム様のもとに嫁ぐ方が全然マシである。
しばらくして、空中に花を散らしたようなあたたかい視線に、私がいたたまれなくなってきた頃。
私はどうしても気になったことを、おずおずと問いかけた。
「あの、ところで、ウィリアム様……ベイカー男爵の呪いですけれど……」
「ん? ああ……いずれ本人が気付いて、教会に解呪しに行くだろう。君が気にすることはない」
「ですが……呪いは早めに解呪しないと、苦しいものだと聞きましたわ」
「それでも、君から直接呪いのことを伝えるのは、駄目だ。優しい君には、見て見ぬふりをするのも辛いかもしれないが」
私は、一転して心配そうな表情に変わったウィリアム様の言葉に、うつむいてしまう。
力を明かさないよう注意するとしても、男爵が辛い思いをする前に、どうにかして呪いに気付いてもらう方法はないものだろうか。
「……君の安全のためだ。わかってくれ」
「……はい」
私にそう促すウィリアム様の顔も切実で、新緑色の瞳は不安げに揺らいでいた。
*
その後。
実際、見て見ぬふりをするのはすごく辛かった。
ベイカー男爵の黒い靄は、来訪のたびに少しずつ、身体の方に向かって伸びている。
最初は手首あたりだったのに、気づけばもう肘のあたりまで靄がかかっていた。
時折、腕をぐるぐる回したりさすったりしているし、以前はもっとぽちゃっとした体型だったのに、少し痩せたような気もする。
「ねえ、シェリー。ベイカー男爵、少し痩せたと思わない?」
私は、それとなく侍女のシェリーに尋ねてみた。
呪いの靄が見えているのに、それを指摘できない――やはりどうしても罪悪感に苛まれてしまうのだ。
「恐れながらお嬢様、私にはわかりかねます。それに――」
シェリーは更に声を落とす。
「男爵様は、失礼ながら、標準よりも大きな体型でいらっしゃいます。もし男爵様が少し痩せたのであれば、それは喜ばしいことではないかと」
「そ、それはそうね。でもほら、腕が痛そう……今も肩を回しているわ。何かの病気じゃないかしら」
「……お嬢様。失礼を重ねますが、四十肩、というものをご存知ですか」
「……四十肩……」
それきり、私は黙らざるを得なくなった。
これ以上踏み込むのは、不自然だろう。
仲が良いわけでもなく、お父様の仕事の関係で屋敷を訪ねているだけの男爵。
やはり目を瞑るのが正解なのだろう。頭では、理解しているのだが……モヤモヤする。
*
ベイカー男爵自身が呪いに気付く気配もないまま、ひと月が経ってしまった。お父様と男爵の仕事もひと段落し、今日が、男爵がエヴァンズ子爵家を訪れる最後の日。
「それでは、なにとぞよしなに。失礼致します」
「事業がうまく行くよう祈っているよ」
このままでは、男爵が帰ってしまう。結局、何もできなかった……。
そう思っていると、子爵家の使用人がお父様を呼びにきた。
「旦那様。王城の事務官様より、魔法通信が入っております」
「ああ……すぐ行く」
どうやら城勤めの事務官から通信が入ったようだ。
これは、男爵と話をするチャンスかもしれない。
「すまない、誰か見送りを」
「お父様、私が」
「ああ、ミア。良いのか? では頼んだよ」
私はすぐに声を上げた。これで男爵に呪いのことを伝えられる。
直接的なことは言えないが、このまま一言も言わずにいるのは寝覚めが悪いから、ちょうど良かった。
「ミア嬢、すまないね」
「いえ、とんでもないですわ。……それより男爵様」
「ん?」
私は一瞬、口ごもった。
何と伝えるかは事前に考えていたものの、いざその時が来ると、緊張してしまう。
「あの、体調が少しでも悪いようでしたら、早めに教会に行ってくださいましね。その……腕が痛むのですよね? さすっていらしたから」
「ああ、これは大したことはないんだよ。腕がずっしり重くて鈍く痛むんだがね、四十肩というやつだ」
「けれど、もしかしたら怪我とか何か悪いものが原因かもしれませんから……教会に診てもらった方が良いと、私は思います」
「うーむ……しかしねえ」
「お嬢様」
シェリーが後ろから、小声で注意してくる。
「……その、差し出がましいことを申しました。ですが、どうか」
「いや、心配してくれてありがとう、ミア嬢。酷くなるようだったら、診てもらうことにするよ」
「はい! ぜひそうなさって下さいませ!」
「はは、では、失礼するよ」
シェリーの咎めるような視線を無視しながら、私はベイカー男爵を馬車の前まで見送ったのだった。
「お嬢様。一体どういうおつもりですか?」
自室に戻った私は、すぐさまシェリーに問い詰められていた。
「シェリー……その、ごめんなさい。これには事情があって」
「どのようなご事情ですか? ベイカー男爵がお優しい人だから良かったものの、失礼だと怒られかねないことですよ」
「その、事情は、まだ」
「このシェリーにも言えないようなご事情なのですか」
「……ごめんなさい」
シェリーは悲しそうな顔をした。
私の胸はちくりと痛んだが、シェリーに話すわけにはいかない。
シェリーは私が拾われた子だということも、黒い靄が見えるという能力も知らないのだ。
ウィリアム様との約束を、直接的にではないものの破ってしまったことに、罪悪感を感じなくもない。
けれど、もしも。
もしも黒い靄が見えていたのが、シェリーや私の家族だったとしたら、私は冷静でいられただろうか?
そんな風に考えてしまった時、私はベイカー男爵に対して、『何も伝えない』という選択肢を失ってしまったのである。
ベイカー男爵にも、当然、愛する家族がいるのだから。
「ねえ、シェリー。私はね、誰かが悲しむのも、傷つくのも、見たくない。私が逃げ出したせいで誰かが苦しい思いをするなんてこと、絶対に嫌なの」
私が責任から逃れたせいで、男爵が苦しい思いをしたら。
もし、このまま呪いに気づかず万が一のことが起きてしまったら。
「あの時のルゥ君みたいなこと……目の前で起こってほしくないの」
魔獣に襲われそうになった時、私は何もできなかった。
ルゥ君が、私の代わりに、大怪我をして、そして――
「目の前で誰かが死ぬぐらいなら。そうして後悔しながら生きるぐらいなら、私は……」
もう、これ以上、抱えたくない。
ルゥ君だけで、もう、手一杯だ。
「――例えば、目の前で誰かが刃を向けられていたとしたら。その人に向けられた刃を、私が代わりに受ける方がずっといい。その方が、私は自由でいられる」
「お嬢様……」
「ごめんね。一人にしてもらえる?」
心配そうにしているシェリーには申し訳ないが、今は一人にしてほしい。
私はそのまま、部屋に閉じこもったのだった。
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