【1】愛しい人

 ―二千四十一年八月―


「ねぇ亜子、銀行の会報見た?」


「見てないよ」


 女子ロッカールーム、制服に着替えながら、同期の幹本瑠美みきもとるみ滝川亜子たきがわあこに話しかけた。


 私服を脱ぐと豊かなバストが露になる。二十四歳、女性としての成熟度は増し、バストの谷間には赤いキスマーク。亜子は慌てて制服の白いブラウスを着用しボタンを止めていく。


「会報がどうかしたの?」


「新入行員の配属先決まったみたいだよ。今年は本店営業部はイケメン大豊作かも」


「瑠美には恋人いるでしょう」


「恋と結婚は別だよ。それに今の彼氏、年下の大学生だし、セフレと結婚相手は別。せっかく三田銀行で働いているんだから、大卒のエリート行員をゲットしないとさ。高卒だからって私達を見下した大卒の同期に、エリート社員を捕まえて見返してやるんだ」


 確かに学歴で基本給も出世も左右されていたが、今の時代は一昔前とは違う。実力主義で学歴や勤続年数には関係なく昇給も出世もする時代だ。


 だからこそ、大卒しか採用しなかった企業が近年は学歴よりも、やる気と実力のある人材を雇う時代になってきたし、年功序列ではなく若くして管理職に任命された者もいる。


 亜子と瑠美は三田銀行では珍しく高卒だ。経済的理由で大学進学は諦めたが、高校の成績は二人ともトップクラスだった。亜子が高卒で三田銀行に就職出来たこと自体は奇跡に等しい話だけど。


 高卒は蜂でいえば、働き蜂。

 よほど頑張らない限り、大卒より給料が上がることはないし、女王蜂にはなれない。


 今年二十四歳になった亜子は、入行して六年目のベテラン行員だが、大卒の新入行員とは二歳しか変わらない。


「イチオシはさ、イギリスの大学を卒業した三田善幸みたよしゆき、三田証券取締役社長の御曹司らしいよ。三田銀行取締役頭取の親族らしいの。噂によると次期頭取候補だって」


「……えっ? そうなんだ」


 (昂幸の親族が同期?)


「ちょっと気になるのが、この男子。いかにも体育会系って感じで、行員らしくないけどイケてるよね。秋山昂幸あきやまたかゆき、二人とも本店営業部勤務だよ。チャンスあるかな」


 (新入行員秋山昂幸、昂幸の素性は誰も知らない。三田様と親子関係にあったことは、社内には極秘で入社しているから。)


 昂幸との出逢いは、二人が高校生の時だった。ずっと傍にいたいからとわざわざ名門私立高等学校から公立渚高等学校に転校したくせに、昂幸は高校二年の夏休みに突然アメリカのハイスクールに留学した。


 半年だけの約束で留学したのに、昂幸はそのまま留学を継続し、アメリカのハイスクールを卒業したあと、アメリカの大学に進学し、一時帰国した時には亜子はすでに高校を卒業していて、三田銀行に就職していた。


 (いつだってそうだ。

 昂幸は私に相談はしない。自分が決めた道を、迷うことなく突き進む。血液型A型の私は、B型の行動力にいつも置いてきぼり。)


 高卒の亜子が何故三田銀行というメガバンクに就職出来たのか、成績は良かったが担任教師も驚いていた。母は自分が三田家の調理場で真面目に働いているから、娘も評価されたと思っている。


 母は『親のコネ』。三田様や奥様、三田様の執事山村に頼みこんだからだと自慢気に豪語しているが、亜子は昂幸が三田様に頼んだのではないかと察していた。


 昂幸は『俺は知らないよ。留学していたからね』とシラを切り続けてはいるが、亜子は怪しいと思っている。


 同期で高卒は数名、殆どが商業高校出身者。瑠美もその一人。亜子みたいに普通科高校の卒業生は珍しい。


 昂幸はアメリカの名門大学の政治経済学部に進学し、アメリカで夢中になったラグビーに大学入学後は没頭した。


 そのせいか腕も腹筋もふくらはぎも筋肉質で逞しい体つきへと変貌を遂げる。行員らしからぬ、体育会系男子だ。


 ベテラン行員と新入行員、そして今でも三田家の御曹司であることにかわりない昂幸と、平凡な行員の亜子。


 三田家のお陰でヤドカリ生活からは解放されたが、生活が楽になったわけではない。何故なら、義父の個人タクシーが思ったほどの収入を得られないからだ。


「でさ、亜子はどの新入行員がタイプ。入行以来浮いた話も全然ないし、男嫌いだって噂になってるよ」


「私が男嫌い? 誰がそんな噂を?」


「決まってるでしょう。同期の西川真麻にしかわまあさ。融資の道玄坂課長とコッソリ付き合ってるって噂だよ」


「嘘、道玄坂課長と? 社内恋愛は禁止だよ。同じ店舗での恋愛はご法度、バレたら島流し。左遷だよ」


「バレないようにコッソリ付き合うから、ドキドキするんじゃない。どちらかが異動になった途端結婚する子は、結構いるしね。男女の関係ってさ、見てるとなんとなくわかるよね」


「そうかな」


 (昂幸が研修期間を終えてもうすぐ入行する。私達、上手く付き合えるのかな。)


 社内恋愛禁止の三田銀行で、亜子は上手く秘密恋愛する自信がない。


 入行式を終えた新入行員は三ヶ月の研修を経て、各部署に配属される。


 亜子と瑠美、同期の真麻は現在は本店勤務。本店は一階は営業部、ビルの上階は集中業務を行う課や系列会社が複数入っている。


 瑠美は今春、集中業務の振り込みセンターから営業部に異動。現在は融資係。


 亜子は二年前、人事部から営業部に異動になり、為替窓口を担当していたが、今は後方事務。後輩の指導をしながら、店頭が混雑する時だけ窓口に出る。


 大卒の真麻はもう預金係の主任に昇格した。


 二~三年置きに異動するのは銀行では当たり前。栄転、左遷、どんな評価を下されるのかは、本店長次第。


 今春、本店営業部本店長になり栄転を果たしたのは、梶木学かじきまなぶ


 仕事に厳しく口煩い。女子行員からは梶木という名字から、『マグロ店長』と陰口を言われていた。

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